2. 結局、昼前から激しくなった風雨のため、飛行術の授業は休講になった。 僕は約束通り、ロンを引っ張って図書館へ行った。ロンは最後まで嫌がって愚図っていたけれど、パーシーがメガネを光らせて「行って来い」と睨んだので、泣く泣く教科書とノートを抱えたのだった。 「ハリー、ここよ」 図書館の自習室に入ると、ハーマイオニーが手を上げて僕達を呼んだ。彼女の脇には、早くも山のように本が積まれていた。ロンが、僕のローブを引っ張る。 「なあ、ハリー。いまからでも、遅くはないさ。勉強なんて、やめようよ」 「ダメだよ、ロン。君、パーシーに何て言うつもり?」 僕はロンを引きずるようにして、ハーマイオニーのいる机まで歩いていった。どうやら、彼女は自分の予習に必要な本だけでなく、僕達が復習するのに使いそうな本まで、一緒に揃えておいてくれたらしい。自習室には、他にも雨で休講になった屋外授業を取っている生徒達が勉強しに来ていて、思ったより人が多かった。 ハーマイオニーが先に来て本を借り出しておいてくれなかったら、僕達は空っぽの書棚を前に唸るしかなかったかもしれない。 「これだけの本を運ぶの、大変だったんじゃないの? ありがとう、ハーマイオニー。助かるよ」 「どういたしまして。その代わり、片づけるのはあなた達にお願いするわ。じゃあ、始めましょう」 ハーマイオニーは、魔法薬学と薬草学を。ロンは魔法史を。僕は何をしようか、まだ決めかねていた。そんな僕の様子を見ていたハーマイオニーは、一緒に薬草学をやらない? と言った。むしろ、僕は魔法薬学をやった方がいいのだが。それをあえて勧めないのが、彼女の優しさだと思う。 「それにしても、入学前に教科書を全部読んだっていうの、本当だったんだね」 僕は何度も読み返されて縁が柔らかくなっているハーマイオニーの本を見て、手が切れそうにパリパリしている自分の教科書が恥ずかしかった。ダーズリー家じゃあ、こんなもの読んでいたら殺されかねなかったから。まあ、それは仕方ないことだけど。 「私、自分が魔女だなんて思ってもみなかったもの」 ハーマイオニーは、パラパラと本をめくりながら時折手を止めて、調べたことをノートに書き写している。遠目からも読みやすい、きちんとした字だった。それに比べて、ロンときたら。 「ねえ、そのノート。後から読んだ時に、何が書いてあるのか自分でわかるの?」 僕も思ったことだったけど。そうはっきり言うかなあ。確かに、ロンの字はミミズがのたくったようだけど……。 「君が使うノートじゃないだろう? いちいちうるさいよ」 苛々した声。ああ、やっぱり。ロン、機嫌を悪くしてる。ハーマイオニーは、いい子だと思う。でも、みんなが言ってることだけど。彼女は、ほんの少し出しゃばりで、一言多いんだよね。 「ああ、あのさ、ハーマイオニー。君って、何でここに入学しようと思ったの? ほら、君ほど頭良ければ、いくらでもいい学校に上がれるんじゃないかって」 怒って羽根ペンの先を紙に押し付け過ぎて潰してしまい、ノートにインクのしみを大量生産しているロンを横目に、僕はハーマイオニーに話しかけた。彼女は本から顔を上げると、羽根ペンを置いて「そうねぇ」と首をかすかに傾げた。 「自分が魔女だってわかった時、どんな気持ちだった? 嬉しかったの? それとも、戸惑わなかった? お父さんやお母さんは、君が魔法使いになることをすぐに許してくれたの?」 「もう、ハリーったら。そんな一度に質問しないで」 ハーマイオニーは、手をひらひらさせて僕の言葉を遮った。それから、ロンにティッシュペーパーを差し出すと、逆に僕に質問した。 「そういうハリーは、どうなの。自分の両親が魔法使いだってわかった時。もちろん、驚いたんでしょ?」 「初耳だったし、バーノンおじさんやペチュニアおばさんがずっと本当のことを隠してきたんだって思ったら、悔しかった。聞いたばかりの時はそんな馬鹿なって、信じられなくて。それなら何故、苛められてた時に力を使えなかったのかなって。いま思えば、そんなことできなくて良かったんだってわかる。制御できない力で、僕は人を傷付けてしまったかもしれない。ううん、よく考えれば、僕は力を使っていたんだ。自分でも気づかないうちに。ダドリーに蛇が向かっていったのは、多分……」 「あなたはお父さんとお母さんのことが知りたくて、ここに来たのね」 「そうかもしれない。マグルの世界じゃあ、僕は居場所がないっていうのもあるけど」 ここに来て初めて、僕はおなかいっぱい食べるって楽しみができたんだよ。お菓子なんて、僕の口には入らなかったんだ。本当だよ。 僕が笑うと、ハーマイオニーは顔を曇らせた。唇を引き結んで、少しの間うつむいていたけれど、やがて顔を上げると僕にこう言った。 「ハリー、あなたは強いわ。そんな風に苛められて育ったら、私ならきっと魔法の力で復讐しようとするでしょうね。こんな考えが、闇の側につけ込まれるもとなのかも」 僕はハーマイオニーの言葉に、例のあの人の仲間になったという魔法使い達の多くがスリザリン出身だということを思い出して、ちょっと憂鬱になった。 昨日今日と顔を見ていないマルフォイ。あいつの父親は、闇の陣営に馳せ参じていたという。あいつは二言目には「父上は」だし。もしかして、あいつも父親と同じようにあっちの側に付いて、僕と戦うようになるんだろうか。 僕は胸を痛めている自分に気づいて、愕然とした。冗談じゃない。マルフォイなんて、どうなったって知るもんか! ……でも。 初めて会った時、最初に話しかけてきたのはあいつだった。僕が有名人だからじゃなく、同じ学校に入る子らしいと思って、あいつなりにいろいろ話しかけていたんだっけ。 あいつの話すことがチンプンカンプンだったのは、僕が魔法界のことを何も知らなかったから。そして、僕が魔法界について無知なのを、あいつは知らなかったんだ。いま思えば、あいつ、多分悪気なんて無かったんだよな。まあ、態度がちょっとアレなのはともかくとして。 汽車の中でだって、あいつは自分なりに僕と友達になろうとしてたんだよな。僕の隣りに親から天敵だと吹き込まれているウィーズリー家の子を見て、あわてたんだろう。大変だ、ろくでもないのがもう取り入ってる。目を覚まさせなきゃ! ぐらいのことは、あいつじゃ思うだろうなあ。何たって、父上が絶対なんだから。 ――いつもいつも、行動を起こすのはあいつで。僕は、それにまともに応えたことがなくて。それでも懲りずに僕に向かってくるマルフォイを、僕は果たして本当に嫌いなのかな? 「うわっ。何考えてるんだ。そんなこと、あるわけないよ」 ハーマイオニーとロンが、僕のことを変な目で見てる。そりゃそうだろうな。いきなり、わけのわからないことを言い出したりして。 「ハリー? 一体どうしたんだい。さっきから、君イカレてるぜ」 「疲れてるの? だったら、部屋で休んでいた方がいいわ。大丈夫よ、本ならロンに片づけてもらうから」 勝手に決めるなよ! と抗議するロンをあっさり無視して、ハーマイオニーはダメよ、と中腰のロンを椅子に引き戻す。 「あなたは、私と一緒に勉強するの。パーシーから頼まれてるし、フレッドとジョージも賛成してたわ。優秀なお兄さん達の顔に、泥塗らないの」 「人権無視の横暴だよ! 何で君が、僕の家のことまで心配しなくちゃいけないんだ」 「あなたの家のためじゃないわ。寮杯を七年連続でスリザリンに獲られたいの? 私は嫌よ。絶対に嫌」 「そりゃあ、僕だって嫌だけどさあ……。だからって、何で僕が君と一緒に勉強しなきゃならないんだ」 「ぐだぐだ言わないの。男でしょ?」 助けてよ、と半泣きのロンを残して、僕は自習室を出た。寮に帰ると、談話室ではネヴィルの噂話でもちきりだった。 「あいつ、一体何で連れて行かれたのかなあ」 僕はマグルの家の出だから大丈夫だって、パーシーが言ってたけど。何なんだ? とディーンが首をひねっている。 「それで言えば、俺はハーフだからって言われたぜ。ってことは、ネヴィルは純血の魔法使いだから大丈夫じゃない、ってことか?」 シェーマスが、すかさず合いの手を入れた。 「それで言えば、ハリーだって両親とも魔法使いだぜ?」 「でもさ、ハリーはマグルのおじさんとこで育ってるだろ? パーシーの言う『マグルの家の出』って、そういう意味じゃないのか?」 「わけわかんないなー。そういや、ロンは大丈夫なのを僕が知ってるから、って言ってたっけな。魔法使いの家の子に、何かあったのか?」 「さあな。話を聞こうにも、パーシー、いま勉強中だしなあ。邪魔しようもんならえらい目に遭うって、上級生が」 延々と頭を悩ませているディーンとシェーマスに、朝のことかい? と言って、僕は近づいていった。 「ああ、ハリー。お帰り。早かったな」 「うん、ちょっとね。ロンはハーマイオニーに絞られてるけど。ねえ、ネヴィルっていまどこにいるの? 部屋にはずっと戻ってないよね」 「見てないなあ。もっとも、ここじゃなければ、あとは医務室ぐらいしか行くとこないと思うけどな」 違いないや、と僕は思った。結局、僕はウッドに捕まり、過去の有名な戦法やプレイについて夕食の時間になるまでぶちまけられた。こんなことなら、ロンと一緒に勉強していた方が楽だったかもしれない。僕は船を漕ぎたくなるのを必死に我慢しながら、時折チラッと柱時計に目をやっていた。 ハーマイオニーとロンが戻ってきて、僕はようやくウッドから解放され、みんなと一緒に大広間へ行った。やっぱりマルフォイは姿を見せず、ネヴィルも戻って来なかった。 パーシーは監督生同士で食事をしながら話し合っていて、彼に話しかける暇がない。よく見れば、ハッフルパフやレイブンクローのテーブルにも、いくつか空席があった。 どう思う? とハーマイオニーに聞こうとしたら、彼女はロンと舌戦を繰り広げていて、それどころではなかった。僕は一人、物思いにふけりながら手を動かすのだった。 次の日。午前中に魔法薬学の授業があるという、いつもなら気が滅入ることこの上ない時間割だった。だが、僕はある決意を実行に移そうと思い、手ぐすね引いてスネイプの現れるのを待った。 授業の始まる時間より少し遅れて、スネイプは登場した。こんなことは、学期が始まってから初めてだった。何かよほどの用があったんだろうか? 教科書を開くようにと告げたスネイプに、僕は決死の覚悟で質問をした。 「先生、マルフォイがいませんが。休みですか?」 「彼の欠席は、君の学習の進展状況に何らかの影響を与えるかね? 我輩が思うに、全く関係ないはずだが」 いつも不機嫌そうなスネイプが、今日はまた一段と不機嫌な表情をしている。早くも、危険な香りが漂ってきた。僕の袖を、ロンが懸命に引っ張る。 「ハリー! 何してんだよ。やめろったら」 ハーマイオニーが、気でも狂ったのかと言いたげな顔で僕を見ていた。我ながらどうかしているとは思った。でも、どうしても気になって仕方なかった。あいつに、一体何があったのかと。 僕はスネイプを見上げて、再び質問した。 「一昨日の午後に会った時は、元気でした。それからずっと、姿を見かけていません。どうかしたのかと心配するのは、同級生としておかしいことですか?」 「さても君は、父親に似てお節介なことだ。マルフォイの欠席については、校医のマダム・ポンフリーから連絡を受けている。正当な理由あってのことで、余計な詮索は必要無い。これ以上授業の邪魔をするなら、グリフィンドールから減点する」 必殺の減点攻撃を持ち出されては、もう黙るしかなかった。僕はすごすごと腰を下ろした。ロンが「危なかったな」と囁いた瞬間、スネイプはニヤリと笑い「私語は慎みたまえ、ウィーズリー。グリフィンドールは五点減点」と嬉しそうに宣言した。僕とロンに、ハーマイオニーの刺すような視線が飛んできた。 それを見たスリザリン生の間から、クスクスと意地の悪い笑い声が上がった。 ――最低の気分だった。 続く授業の間も、僕の苛立ちはおさまらなかった。それが、理由を話してくれないパーシーやスネイプに対するものなのか、それとも、あいつがいないことがこんなにも気になる自分自身に対してなのか。もう、わけがわからなくなっていた。 午後最後の授業が終わったあと夕食までの時間を、僕は談話室でロンやシェーマスとクィディッチの話をして過ごした。ロンお気に入りのチャドリー・キャノンズは、ここ一世紀リーグ優勝から遠ざかっているものの、イングランドの名門チームで、熱烈なファンが多い。ロンもその例に漏れず、僕とシェーマスはリーグ戦での彼らの活躍ぶりを延々と聞かされていた。 僕はクィディッチの試合を見たことが無かったので、ロンが話してくれる試合の様子は面白かったし、ためになった。チェイサーのフォーメーションやビーターの攻撃方法、キーパーのファインプレーを聞いていると、魔法使い達が猫も杓子もこのスポーツに夢中なのは、無理ないことだと思えてくる。 「シーカーは派手だけど、敵に妨害されてひどいケガをすることも多いからな。ハリー、君も気をつけろよ」 話に聞き入っている僕に、ロンは事も無げにさらりと怖いことを言う。まるで「明日は晴れだね」と言うのと同じ暢気さで、緊張感は欠片も無く。 「うちはチャーリー兄さんが、寮のチームでシーカーだったろ? だから、いろいろ話を聞かされたもんだよ。チャーリーがあの仕事を選ばなかったらなあ。きっとイングランドのナショナルチームに入って、ワールドカップに出てたよ。残念だなあ……」 グリフィンドールチーム伝説の人・チャーリーは、キャプテンでシーカーだった。そして、このウィーズリー家の次男坊が卒業して以来、クィディッチ優勝カップはグリフィンドールの手から離れたままだったのだ。 一年生でありながらチームに入ることを許された僕に、チャーリーの活躍を思い出す寮生も多いらしい。この際、スリザリンに優勝カップが渡るのでなければ何でも有りなのか。レイブンクローやハッフルパフ生までが、僕らのチームを応援してくれていた。 「そうそう。ビーターの合言葉は『シーカーをやっつけろ』だもんな。うちのチームはフレッドとジョージがいるから、まあその点は大丈夫だと思うけどね」 って、上級生みんなが言うんだ。ロン、君の双子のお兄さん達って、かなり有名人じゃないか? シェーマスはロンの方を向いて、君んちは家族でクィディッチのチームが組めるよなと笑った。確かに。七人兄弟だからね、ロンは。すぐ下の妹のジニーが、ロンからの手紙で来年の入学をとても楽しみにしているそうだけど。やっぱりグリフィンドールに組分けされて、双子のお兄さん達に声援を送ったりするのかな。 「上の兄さん達に子供が生まれたら、そのうち家族で試合ができるよな」 羨ましいね。僕も君んちみたいに大家族だったら良かったのに。シェーマスがそう言い、僕が大きく首を縦に振った時。 何と、ネヴィルが肖像画を抜けて談話室に戻ってきた。 「ネヴィル! 君、どうしたの? いきなりパーシーに連れられて行っちゃって。何があったんだろうって、僕達いろいろ話してたんだよ」 「ああ、ハリー。うん、ばあちゃんから手紙が届いて。僕、もうかかっているから大丈夫だってわかって。それで、戻りなさいって言われたんだ」 「もうかかっている? ネヴィル、それ何のこと?」 何が何だかさっぱりわからなくて、僕らはネヴィルを取り囲んだ。ネヴィルは目を丸くして僕らに言った。 「マダム・ポンフリーが言ってた。マグルは小さい頃にワクチンを打つから、免疫ができてるんだって。でも、魔法使いの家の子は、そんなことしないから。僕はたまたま、セント・マンゴーに行った時、待合室で伝染ったみたいなんだけど。あんまり昔のことで、僕、覚えてなかったんだ」 「ワクチン?」 間の抜けた声を上げた僕。その隣で、ロンが首をひねっている。 「セント・マンゴーって、魔法性疾患・障害専門の、あの病院かい? ネヴィル、君また何でそんなところに用があったの?」 ネヴィルが、口をもごもごと動かした。ところが、それはシェーマスの叫びでかき消されてしまった。 「僕はハーフだからいいって、そういうことか!」 「うん。それに、マグルの家の子はここに来る前、もう学校に行ってるんだろう? だから、魔法使いの家の子と違っていろいろな病気にかかってるんだよね。マダム・ポンフリーが、そう教えてくれたよ」 僕はようやくわけがわかった嬉しさで、思わずネヴィルの肩を掴んで揺すった。 「ねえ、医務室にマルフォイいなかった?」 「うん、いたよ。他にも、二、三人いたみたい。みんな両親とも魔法使いっていう子ばかりだった」 それで、奴らは何の病気にかかってるんだ? と尋ねたシェーマスにネヴィルが答えたのを、僕は背中越しに聞いて走り出した。 「もうじき夕食だよ、ハリー!」 追いかけてきたロンの声は、ちょっぴり苛ついていた。 「うわっ……。辛そうだね」 それは決して嫌味のつもりじゃなく。あいつを見て、本当にそう思ったから出た言葉だった。 「あざ笑いにでも来たんだろう、いい気味だって。帰れ!」 マルフォイはそう言うけど。普段青白い顔色をしているあいつが熱で真っ赤になっているのは、かなり痛々しく見える。えらが張っていない顔立ちなのと腫れているのが左側だけということもあって、ただのおたふくかぜなのは見ればわかるけど、やっぱり可哀想になる。 あいつが僕を睨み付けてきても、熱のせいで目が潤んでいて。いつもなら凍り付きそうになるところなのに、ちっとも怖くないや。……むしろ、可愛いかも。 「それにしても、君って本当に純粋培養なんだね。この年になるまで、おたふくかぜにもかかったことがないなんてさ」 普通、マグルの子供はワクチン打つか、学校に上がるまでにはかかるかしておくよ? 僕が笑うと、あいつは涙をにじませて僕に噛み付いてきた。お前達と一緒にするな、魔法族はあまり集団生活をしないんだ、住まいだってマグルのように密集して暮らさないし、第一、僕は館から外に出たことが無かったんだと。 (いや、だから。それを全部ひっくるめて、お坊っちゃんだねって言ってるんだけど) それが証拠に、君の護衛二人は、もうかかってるみたいじゃないか。そう言おうとしたけど、熱が余計に上がりそうなのでやめておいた。熱とリンパ腺が腫れるだけの、大したことない病気だとは思うけれど。治療は……確か、安静にしてる以外なかったような。熱は上がり過ぎたら、解熱剤飲まされるくらいで。発熱で体力を消耗して、ぐったりしているマルフォイをからかうのは、よそう。 「ねえ、マルフォイ。ところで君、やってないのはおたふくかぜだけ?」 「だけって、他にもあるのか?」 思いっきり不安そうな顔をするあいつに、悪いけど僕は吹き出しそうになった。からかうつもりは無かったけど、あいつのこんな頼りなげな顔を見るのは初めてで、何だか新鮮で。もう少し見ていたいと、つい思ってしまった。 「そうだねえ。あとは、水ぼうそうに風疹とか。体中に痒いブツブツができるんだよ。大人になってからかかると、症状が重くなるって聞いたけど。他にも、いろいろ大変みたいだしね?」 「他にもって、一体何なんだよ。はっきり言え!」 「僕のいい加減な説明じゃなく、マダム・ポンフリーに聞いたら?」 あいつの枕元に山と積まれた手紙やお菓子の包みに、僕は目を奪われていた。見たこともない、カラフルな包装紙。けれど、そのどれにもあいつが手を付けた気配は無かった。手紙だけは封が切られていて、少しづつ目を通している様子がうかがえた。僕は自分が寝込んだとしたら、お見舞いの手紙なんて一通ももらえないだろうことに気づいて、ほんの少し悲しくなった。 「あれ?」 よく見れば、手紙の山の下には本があった。見慣れた表紙。「魔法薬調合法」。魔法薬学の教科書だ。 「人の物を、勝手に見るんじゃない。ポッター、君は行儀が悪過ぎる」 ご機嫌斜めのあいつに、僕は感心した声を上げる。病気で具合が悪いのに、起きている間読めるように、教科書をもってきてもらったんだ。凄いねと。 「さすが、スネイプの気に入ってるだけのことはあるよ。僕なら、絶対にこんな物持ち込まないね」 「気に入られてるなんて……。先生は父上と知り合いだし、寮監が自分の生徒を気にするのは当たり前で。僕が特別扱いされているとは、思わない」 「そうかな。君のいない授業なんて、やる気半減なんじゃないの? スネイプの奴、えらい不機嫌だったよ。とばっちり食らうこっちの身にもなって欲しいね。頼むから、早く良くなってくれよな」 マルフォイが、大きな目を見開いて僕を見た。 「ポッター、いま君……何て言った?」 「早く治って授業に出て来いって言った。正直な話、僕も調子狂うんだよ。君がいないとね」 魔法薬学の教科書をめくりながら、僕は今日あったことをマルフォイに話した。君が何故いないのか。その理由を尋ねた時のスネイプの顔は、人を取って喰らう悪鬼のようだったと。 「そうなんだ……」 放心した表情で、マルフォイがベッドに横になった。もぞもぞと掛け布団を引き寄せていたが、コロリと寝返りを打ち、僕に背を向けた。 そろそろ話し疲れたのかなと思ったら、小さな声がした。 「僕が頼んだんだ。病名は内緒にしてくれって。――普通、もっと小さな子がかかるって聞いたから。恥ずかしかったんだ」 それって、つまり僕はデリカシーのない奴だと、そうスネイプに思われたってこと? それにしても、マルフォイ。君、やっぱスネイプに相当可愛がられてると思うよ。 「授業、出られなくて残念だね」 僕は教科書を元のところに戻して、逆側に回り込んだ。枕の端をギュッと掴んで、見られたくない左頬を下にして。ピンク色の肌に半泣きの顔をしたマルフォイが「寝てるのは、もう飽きた」と呟くのを見た僕は、いままで自分はこいつのどこを見ていたんだろうと思った。ひねくれてる、嫌な奴。僕に突っかかってきては意地悪をする、鬱陶しい奴。そうには違いないけど、こいつ、とっても素直な奴だよな? やっとわかったんだ。君の「大嫌い」は、「大好き」ってことなんだって。君ってばプライドの塊だから、自分の注意を惹き付けるものが許せないんだよね。人でも物でも。何かに夢中になっている自分自身を、いつもと違う自分の姿を晒すのが、君には死ぬほど怖いんだろう。だから、病気の時には誰にも会いたくないし、自分の世界に土足で侵入して来るものに警戒する、攻撃する。それがたまたま、僕だったんだ。そうだろう? 君がいなくなって、僕は君のことが気になって気になって仕方なかった。イライラした。普段、いなくなればいいのにと思っていたから、自分でもびっくりした。 ねえ、マルフォイ。君も同じようにイライラしてたの? 僕を見る度、どうしてこいつに心が傾かなきゃいけないんだって、自分で自分に腹立ててた? もし、そうなら。僕らは同類だね。このやりきれない思いを、伸び伸び育った君は外へ。僕は内へと向ける。違いはそれだけ。大き過ぎる違いだけどね。 それがわかったいま、僕は君をただ嫌いにはなれない。 「ポッター? 何する……っ!」 スッと手を伸ばして、僕は汗で張り付いた前髪を指でかき上げてやった。戸惑うマルフォイって、やっぱり可愛い。 「腫れが引けば、それでおしまいなんだから。大人しくしてなね。あ! ノート貸すよ、魔法薬学の。夕食のあと、持ってきてあげる」 いらない! それより、もう来るな! という叫び声が、わんわん聞こえてきた。隣のベッドで寝ていた、マルフォイにおたふくかぜをうつしたハッフルパフ生が、話の間中恨めしそうに僕を見ていた。――ちょっとにぎやかだったかな? 四日後。マルフォイは全快して、いつものあいつに戻った。本人は、間に土日が入ってくれて助かったよと同寮生に話している。 両側に護衛を従え、同寮生の取り巻きを連れて。休んでいた間に、またネヴィルが鍋を溶かしたと聞いて、フンと鼻で笑った。ああ、君らしいや。 そんな風に思った僕は、どこかおかしいのかな。 「親切の押し売り、どうもありがとう。ほら、受け取れよポッター。君のだろ?」 およそ可愛げのない言い方だったけど、僕はもう騙されないよ、マルフォイ。要するに「ありがとう」ってのが、本当に言いたいところなんだよね? 「元気になったみたいだね。おめでとう」 にっこり笑った僕を見て、スリザリン生とグリフィンドール生の両方が固まった。新手の嫌がらせかと思ったらしい。ただ一人、あいつだけが動じずに笑い返してくる。 「取りあえず、いますぐに目を通しておいた方がいいと思うね」 それだけ言うと、あいつは取り巻きに囲まれてお喋りを始めた。変な奴! と不審がるロンを、僕はまあまあ、となだめなければならなかった。言われた通り、返ってきたノートを見ようと開いたところで、ネヴィルがまだいないことに気づいた。 「あれ? どこに行ったのかな」 スネイプは遅刻が大嫌いだ。このままだと、間違いなくまた減点される。 「僕、探して来る!」 もしかして、動く階段に邪魔されているのかもしれない。以前ロンと二人で、ぐるぐると同じところを回ってしまい、進めなかったことがある。 大急ぎで走って行ったら、案の定、気まぐれな階段に振り回されていた。 「ネヴィル! 走り下りたら、間に合わない! 手すりを滑って!」 「そ、そんなこと言われても。ハリー、僕できないよ!」 「怖がってる場合かい? 君、大嫌いなスネイプにねちねちお説教された挙げ句、減点されたいの?」 この言葉は効いた。ネヴィルは必死の形相で手すりを滑り下り、離れていく階段にダイブすると、何とかしがみつくのに成功した。僕は投げさせたかばんを拾って、ネヴィルに振って見せた。 「ほら、急いで! いまなら間に合うよ?」 ネヴィルが階段をよたよたと走り出すのを見届けて、僕はかばんを掴んで一足先に教室に戻った。息を切らして戻ってきた僕に、ロンが「大丈夫か?」と話しかけてきた。 「うん。何とかね」 そして、シェーマスの隣りの席に持ってきたかばんを置いて、ぐったりと机に突っ伏す。ネヴィルが席に着いてきっかり三十秒後、スネイプが姿を現した。間一髪で、セーフだった。 授業が始まり、ホッとする僕らグリフィンドール生の耳に、スネイプのとんでもない言葉が飛び込んできた。 「どうも諸君の中には、この学科に対して根本的な思い違いをしている者がいるようだ。自分は魔法を習うためにここへ来たので、天秤ばかりやフラスコに親しむためではない。そんなことは、マグルの世界でもできると。そう考えているらしい」 スリザリンは純血の魔法使い家庭の子供が入る寮で有名だったから、この言葉は専ら僕達グリフィンドール生に対して向けられたものだった。猛烈に、嫌な予感がした。 「基本的なことが一通り身に備わっているのなら、その言い分にも多少の説得力があるというものだ。であるからして、今日は最初に諸君の習熟度について、確認をさせてもらう」 猫撫で声でそう言ったスネイプが、手にした紙を配り始めた。前の列から回ってきたそれを見た僕は、ただ呻くしかなかった。 「教科書とノートは、しまいたまえ。何、十分もあれば終わるはずだ。――復習さえしていればな」 抜き打ちの小テストだなんて。よくもそんな極悪なことを思い付くものだと、僕はひたすらスネイプを呪った。時間になり、集められた解答用紙に目を通していたスネイプが、ひどく満足そうに唇を歪めた。 「思った通りと言うべきか。それ以上と言うべきか? 全く、期待を裏切らないことだ」 ハーマイオニーは満点のはずだけれど。そんなものでは、到底引きあわないほどの惨状だったらしい。スネイプはご機嫌でグリフィンドールから五点を減点し、白紙で提出したロンとネヴィル、書いてある答えがことごとく違う僕の三人を名指しで注意した。 「いちいち一人づつから点を引くのも面倒だ。三人まとめて、グリフィンドールから更に十点を引く。大体、君達は前回の授業に出ているはずだな? それが何故、この最後の問いに答えられない。休んでいたはずのミスター・マルフォイは、ちゃんと解答しているが?」 そういうことだったのか。いまわかっても、もう遅いけどね……。 スネイプ至福の説教タイムが終わり、どんよりとノートを開いた僕の目に、几帳面な字が飛び込んできた。僕が板書を写し書きした横に、マルフォイが丁寧な説明を書いてくれていた。教科書を読んだだけじゃわからなかったことが、あいつが調べて書き込んでくれた注釈を読めば、よくわかった。 せっかく、スネイプの企みをそっと教えてくれたのに。ネヴィルを探しに行かなかったらなあ。そんな風に一瞬思ったけど、放ってはおけないよね。でも。 (うわっ。怒ってるよ) そっとあいつを見た僕は、世にも冷たい視線で射殺されそうになった。 「あーあ。また最初からやり直しかぁ」 少しだけ、あいつとまともに話ができるようになったと思ったのになあ。僕はがっくりと肩を落として、上の空で授業を受けていた。 いつもの倍にも感じられる、長い授業時間が終わった時。マルフォイが、取り巻きのスリザリン生達に話しかけた。 「それにしても、グリフィンドールの奴らの低脳ぶりには、驚かされるばかりだよ。白紙だって! 十分間も、一体何してヒマ潰ししてたんだか。不思議だよねぇ。――ああ、そうか。問題読むのに、それだけかかってたんだ?」 蛇のエンブレムを着けた一団から、ドッと笑い声が上がった。ベッドで大人しくしていなければならなくて、すっかり退屈していたマルフォイ。久しぶりに毒舌がふるえて、何だかとても楽しそう。生き生きしてる。 「後遺症は残らなかったのかい、マルフォイ。君は、何が何でも子供作らなきゃいけないんだろう? 大変だね。マダム・ポンフリーは、ちゃんと冷やしてくれたのかな?」 吹き出す子もいれば、キョトンとしている子もいた。当のマルフォイはといえば、耳まで赤くなっていた。 「下品だぞ、ポッター!」 「うん。僕は、君みたいに育ちが良くないからね」 おなかを抱えて笑っていたロンに、僕はニヤッとしてみせた。さあ、行こうか。とかばんを手にした僕らを見て、マルフォイがぎゃあぎゃあと喚いた。戻ってきた日常に、僕は心のどこかでホッとしていた。 「よくもそんな……何が後遺症だ! 大体、お前如きに家系の断絶を心配される覚えはない。そういうそっちこそ、試合で箒から落ちて半身不随にでもなるなよ?」 魔法使いには障害年金は無いぞ、マグルより寿命が長いのを忘れるなよ。もっとも、君が落ちぶれ果てた暁には、同窓のよしみで面倒見てやらないことも無いけどね――そうだね、うちが寄付している施設の一つで、雑用係でもやるといいよ。 次から次へと飛び出してくる言葉の、この可愛らしく無さ加減ときたら! でも、もう驚かないんだ。だって。 「ふうん? 野垂れ死ねって言わないんだね。案外優しいとこあるんだな、君」 「何を寝ぼけたことを。ポッター、死なれたら何もできないじゃないか。それよりは、生かしておいて僕にケンカを売ったことを日々後悔させてやる方が、ずっと楽しいに決まってる。引き立て役にもなるしね」 マルフォイ……。君、本当に素直じゃなさ過ぎるよ。 ああ。僕は君のこと、最初ほど嫌いじゃなくなったけど。それでも、やっぱり――僕は君が苦手だ。 = END =
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