5. 彼は、常に雇い主には忠誠を尽くしてきたつもりだった。 今回もまた、自分が雇い主の要望通りに事を運べたと信じ切っていた。だが、それは間違いだったようだ。いま目の前にいる雇い主は、凍て付く眼差しで自分を見ている。 ご褒美がもらえると思っていそいそと飼い主のもとへ走っていった犬が、くわえてきた獲物をこれは違うと叱責されて当惑し、尾を垂れてしょげ返っている。 いまのハイデッカーを形容するなら、そんなところか。 「私は待たされるのが嫌いだ。確かにそうは言った」 絶対零度の、熱という物をひとかけらも感じさせない声でルーファウスは言う。 「だが、同時にこうも言わなかったか?人の不審を招かぬ方法で、と。 君の頭が悪いのは、よく承知しているよ。だから、同時に三つの事は覚えられないだろう と思って、二つにしてやったんだ。それが、その二つも一つしか覚えていられないとはな」 「申し訳ございません! この不手際は、いかようにしても償わせていただきますので……!」 「だそうだ。どうしたらいいと思う、ツォン?」 私はこいつの顔を見るのは、もう飽き飽きしているが。 そんな表情を浮かべ、ルーファウスは隣りに立つ物静かな男を見上げる。 「お決めになるのは、あなたです。腐臭がお嫌なら、さっさと処分なさることですね」 冷酷さでは、こちらも負けてはいない。主の望みがどこにあるか。ツォンにはたやすくわかることだった。殺してしまう気なら、こんな風に呼び付けたりはしない。ルーファウスは、まだこの男を用立てるつもりなのだ。 たとえ、その後に処分することは変わりなくとも。ある意味、いまこの場で殺されていた方が、この男にとっては幸せかもしれない。 猫が捕らえたネズミをすぐには食べず、まずおもちゃにして遊んでから止めを刺すのと同じだ。自分の意を全く理解しなかったこの男を、ルーファウスは取りあえずいたぶりたかったのだ。だから、呼んだ。それがわかっていないのは、本人だけらしい。 いまハイデッカーの頭の中では、どうしたらこの失策を取り戻せるか。その考えでいっぱいのはずだ。 「そうしたいところだが、私の時代の幕開けは血腥いものにしたくない。 これまで、お前は我が社に尽くしてきたことだしな」 負け犬の表情だったのが、この言葉を聞いて俄然勇気づけられたらしい。ハイデッカーは胸を張って言った。 「もしお許しいただけるのなら、逃亡中の二人。 必ず我々が見つけ出し、こちらで秘密裏に処分致します」 世にも艶やかな笑顔で、ルーファウスは言質を取る。 「そうか。次長はなかなかタフな精神の持ち主だな。では、その件は引き続き任せてもい いが――。君のことだから、同じ失敗は二度しないとは思うが。一応聞いておきたい。 今度失態を演じたら、君は私にどう責任を取ってくれるんだ?」 「はっ。その時は、いかなるご処分にも謹んで従います」 「その言葉、忘れるなよ」 愚かな男だと、ツォンは心中呆れていた。自分なら、そもそもここへ来ないだろう。 できるだけ苦痛を招来しない方法で、自ら命を絶つところだ。 茶番劇が終わり、ハイデッカーは意気揚々と職場へ戻って行った。ルーファウスは不快感も露わに椅子から立ち上がった。 ツォンはビル内のプライベートルームへと戻って行くルーファウスの後ろ姿を眺めながら、内線電話で社長室の換気を最大にするよう命じた。 急いで後を追うと、専用エレベーターのドアを開けてルーファウスが待っていた。 「お待たせして申し訳ありません」 「謝ることはない。腐った空気の入れ換えを指示していたんだろう?」 「見事なお手並みでした」 「フン。犬の扱いがいくら上手くなったところで。 私の仕事は人を動かし、従わせることだ。あまり意味はないな」 「そうでしょうか。 犬の身分がお似合いな人間が、世の中には多いような気もするのですが」 エレベーターが停止した。プライベートルームに入ると、ルーファウスはスーツの上着を脱いだ。着替えたいのだろうと思い、ツォンはクローゼットを開ける。 「何してるんだ?」 すかさず、ルーファウスが言う。 「――違うのですか?」 一瞬の間があってから、ツォンが答えた。 「イヤなことの後には、楽しいことをしてバランスを取るものだ」 婉然たる微笑みに、ツォンは思わず目を奪われた。近寄って来たルーファウスの腰に腕を回し、そのまま引き寄せる。 「そんな風に笑わないで下さい。まだ昼間なのに、あなたを求めてしまいたくなる」 「だから、許すと言っている」 「手加減できる自信が、ありません」 「しなくていい」 「そうはいきませんよ。あなたを疲れさせてしまいます」 「それは身体の話だろう。お前は、心の疲れを癒してはくれないのか……?」 完全に、ツォンの負けだった。もっとも、こうした状況で彼が勝った例しはないのだが。 「ベッドへ。――いいですね?」 ツォンは耳元で囁くと、唯一の主にして恋人を軽々と抱き上げた。 「……お前まで謹慎処分か」 「す、すみませんっ!尋ね人が、まさか死体になってるなんて思わなかったんですぅ〜」 ウェッジの死にイリーナの責任が無いことは、すぐに明らかになった。射撃も格闘も、指導教官のお墨付きの下手さというイリーナ。 そんな彼女に、ほとんど出血させずに骨の間を縫って心臓を一突きなど。到底できる業ではないからだ。 しかし、業務命令でもないのに私的判断で捜査しようとした。その事を問われ、ルードの謹慎が解けるまで彼女も謹慎、ということになったのだ。 誰が見ても、イリーナが一人でそんなことを考えるはずがないのは明白で……。要はルードに付き合わされたわけである。 それがわかるだけに、イリーナをたしなめることもできないルードだ。 「……まあ、いい。犯人とはち合わせしなくて、良かったな」 「ホントですよね」 死亡推定時刻は、イリーナが発見したのとほぼ同じだろうとのことだった。一時間やそこらはズレがあるにしても、ルードがそう言うのももっともな話だ。 「でも、逆に。私が犯人の顔っていうか、何か手がかりになるような事を見ていれば良かっ たんですよね」 「……お前、死にたいのか?」 恐ろしいことを言い出す後輩に、ルードは冷や汗をかいた。妙なところで大胆というか、度胸がいいというか。イリーナにはいつもハラハラさせられる。 「そんなわけないじゃないですか!もう。 それにしても、昨日の一斉摘発。凄かったらしいですね〜。 私達は蚊帳の外だったけど、その方が良かったんじゃないの?って。そう、みんなが」 「……逮捕じゃなく、抵抗したのを理由に射殺というのが気になる」 「内緒なんですけどね」 スクリーンの中のイリーナが言葉を切り、あたりを見回す。自分の部屋なのに、まるで誰かの盗聴を恐れているかのように。 「どうも次長、初めから皆殺しにしようとしてたんじゃないか、って」 市内数ヶ所で行われた家宅捜索という名の、銃撃戦。突入部隊には、管理局でも射撃の腕前が優れている者ばかりが集められていたという。――ある特定の場所だけに。 「ニュースで流された逮捕の映像は、一般市民向けなんだそうですよ。 映像が流されなかった場所っていうのがあるそうで」 そこにいた人間は、投降する機会も与えられないまま射殺されたのだそうだ。 「……酷い話だ」 「どう嗅ぎ付けたんだか、銃撃戦の直後に一般人が包囲網突破してきて、娼婦を抱いて泣 いてたって。死ぬな!って。よほど馴染みの客だったんだろう、可哀想に。 みんなそう思って、この事は次長には報告しなかったそうですよ。 案外いいとこありますよね、みんな。だから彼、お咎めは一切無しですんでるそうです」 「……誰にも看取られずに死ぬのは、辛いからな。 男には気の毒だったが、女の方は少しは良かったな」 「そうですね。多分」 しばし、沈黙が流れる。やがてイリーナは、誤認逮捕が確認されたバレットが今日釈放されたとルードに告げた。 「次長秘書の方が、教えてくれたんですよ〜。次長にくってかかる先輩、ド迫力だったって」 くすくす笑い、カッコ良かったって言ってましたよ!どうします、先輩?と、ルードをからかう。 「……ティファはどうした」 栗色の髪に青い目の、小柄でなかなか可愛らしい秘書の姿が思い浮かび、ルードはドキッとする。いまのご時世では、そんな感情は物の役にも立たないのだが。 ――もっとも、相手がチューブなら話は別だ。触れ合うこと、体液が混じり合うことは、直ちに死に繋がる。それでも、人の心から恋愛感情が消えることは無いらしい。 「あ〜。先輩、少し赤くなってる〜。嬉しいんですね?」 真面目一本槍で袖の下など絶対に通用しないルード。 しかし、彼の心が石でできているわけではないらしいと知って、イリーナは妙にはしゃいでいる。こうなった彼女を軌道修正するのには、慣れていた。煽り立てるようなことを言わず、ひたすら沈黙を守るのが一番なのだ。 そうすれば、そのうちに何も反応が無いことに飽きて落ち着く。 ティファはまだ釈放されず、かと言って取り調べらしい物も特に行われていないことをルードが聞き出せたのは、結局それから五分ほど経ってからのことだった。 「エアリスって、どういう暮らしをしてたんだ?」 ソリビジョンのチャンネルを次々に変えては面白がるのを見て、クラウドは呆れていた。 「どういうって――こんな物があるなんて、私知らなかった。 よくわからないけど、見たこと無いような気がする」 本は読んでいたらしい。だが、そんな物があるわけのないこの屋敷だ。彼女がすっかり退屈しているようなので、ニュースでも見ようとスイッチを入れたら。 ――朝からずっとリモコン片手に目を輝かせて見入っている、というわけなのだった。 「これがあれば、家の中にいても外のことがわかるのね。すごく便利!」 「ニュースになる事件なんて、世の中で実際に起きている事のごく一部だけどね」 やれやれと肩をすくめるクラウドに、エアリスはいいじゃない。固いこと言わないの!と画面を変え続けている。 「まあ、それで退屈しないんならいいんだけどさ」 俺は体を動かしたくてたまらないよ。クラウドはボヤくと、何か飲み物をもらってくると言って部屋を出て行った。 「ありがとう。お願いね」 そう答えたエアリスの目は、ソリビジョンに釘付けのままだった。 一方、クラウドは部屋から出ると大きく伸びをした。エアリスの記憶が少しでも戻れば、何か調べることもあるのだが。 いろいろ話をしていて、彼女の知識がひどく偏っていることに気づいた。 あの年頃の少女が知っていそうなことを、およそ知らない。出会った時から素顔だったが、果たして化粧などしたことはあるのだろうか。服もそうだ。ピンクのノースリーブのワンピースの上に、赤い短いジャケットを羽織っていた。 既製服という感じはしなかったので自分で作ったのか、と尋ねたところ。 「お洋服?ううん、そんなことしないわ」 あっさりと否定された。食事の時にする会話から、彼女が料理、裁縫、洗濯、掃除といった家事労働的なことは何もしたことが無いらしいのを知り、ますます首を捻りたくなる。 何故なら、そうしたことは全く知らないのに、生体工学の知識は研究者も舌を巻くのではないかというレベルだったからだ。 クラウドにはさっぱりわけがわからない言葉を、放っておくと何時間でも喋りそうな勢いのエアリス。 彼女が口にした、そうした意味不明な単語をあれこれと調べるうちに、彼女は研究施設で何か秘密の研究に携わっていたのではないか。そんな疑念が浮かんだのだ。 「博士、って言ってたしなあ。 俺と同じ非合法チューブなら、あの年で研究者だとしてもおかしくないし」 世間ではチューブに対して偏見と誤解がある。よく言われるのが「人形」という悪口だ。 外見の美しさを指すと同時に、「チューブは人を愛せない」という揶揄がそこには込められている。 プラスの人間に対し、マイナスの存在であるチューブは圧倒的に数が少ない。恋愛の対象として、またセックスパートナーとしてプラスの人間はチューブを選ぶしかないわけだが、チューブの方ではプラスだろうとマイナスだろうと関係なく相手を選べる。 チューブ達は、こうした状況を無邪気に利用していた。 選び放題ならば、何も特定の相手に縛られる必要はないではないか?というわけだ。 花から花へ飛び回る蝶のように振る舞う彼らには、実のある心など無いのではないか。 デザインされ、改変された遺伝子の所有者たる人間は、果たして本当に人間なのか。 重要な何かが欠けているのではないだろうか。 そんな声が、プラスの間からは上がっていたのだ。 セックス禁止令が出された当時、性交可能なチューブは存在しなかった。この法律はそもそもジェノバ感染を防ぐためのものだ。当然、禁止令はチューブ達には及ばなくていいはずなのだが、いまのところその点について法改正がなされる気配はない。 いまの状況が続く限り利益を手にすることができる者――その筆頭が神羅カンパニーだが――の圧力があるからだ。 また、非合法チューブの大半が売春組織に所属しており、ごく少数の例外は飛び抜けて高い知能指数を持ち、その明晰な頭脳を買われて政府の研究機関に所属していた。あくまでも非公式には、彼らの存在は否定されているが。この社会では公然の秘密だ。 自分やウェッジのような「見た目も中身もほどほど」というのは、例外中の例外で……。 そんな事情から、人々は非合法チューブのことを化け物じみた目で見るのが普通だった。十八歳以下の計画出産チューブ達は非合法チューブとは異なり、遺伝子の改変処置はなされていない。子供を望むカップルの卵子と精子を受精し、人工子宮で育てるだけだ。単に母胎から生まれたのではないというだけで、あとは自然出産の人間と何ら変わらない。ジェノバに反応する抗体を除去されている点が違うだけだ。 クラウドは、浮世離れのした雰囲気を漂わせるエアリスに次第に惹かれていく自分を感じていた。ティファに覚えるような、甘い感情ではない。砂鉄が磁石に吸い付けられるのにも似た、強烈な同族意識。彼女は、仲間だ。そんな思いが、日ごとに増していく。よくわからないが、自分にできることなら力になってやりたい。 だが、こうして仲良く二人一緒にいるのをティファが見たら――。 「誤解するだろうなあ、きっと」 まさか彼女が管理局に勾留されているとは知らないクラウドは、自分の無事を知らせたいと思う一方で恋人の非難を思い、どうしたものかと悩むのだった。 甘い陶酔とまどろみの中にいる恋人の乱れた髪を直してやると、ツォンはシャワーを浴び、身支度を整えて仕事に戻った。 あの様子では、ルーファウスが目を覚ますのはもう少し後だろう。 それまでに雑用を片づけておこうかと書類をデスクに広げていると、VSSSの研究開発チームの責任者がやって来た。 「副社長はどちらだね?」 「少し体調が思わしくないとおっしゃって、いまは私室に。 じきに戻られますが、何か御用でしょうか」 「君では話にならんのだ。これは副社長に直接聞いていただかねば」 「お言葉ですが。私はあの方の秘書です。 それも、あの方から自分に通す話をふるい分ける権限をいただいた。 私に話せない内容だというのなら、お取り次ぎは致しかねますが」 淡々と言うツォンだったが、話の内容は察しがついていた。どうせ、開発が遅れている。進めるためにはサンプルの追加投入を、とでも言うのだろう。 研究者という人種が、ツォンは苦手だった。確かに、自分も他人の命を必要に応じて奪う。だが、手に付いた血を忘れたことは一度もない。いくら綺麗に洗おうとも、血に浸した手からその臭いが消えることは永久にないのだ。 自分には、どす黒く変色した血が手にこびり付いているのが見える。目を閉じれば、手にかけた人間の苦悶の表情が浮かぶ。 大切なものを守るために犯した罪。やったことに後悔はしていないが、罪の意識は心を苛み続ける。 殺した人間を憶え続けていること。――ツォンにとって、それは死者への手向けだった。 本人が望まないのに、存在を消去してしまったのだから。せめて自分の世界の中でだけでも、存在させてやらなければ。そう思うのだ。 だが、目の前のこの男は違う。そもそも、自分以外の人間はモノでしかないのではないか。彼と話していると、そんな思いに囚われる。 人には感情があり、それを他人から尊重されたいと願っている。そうした考えが頭をよぎることなど、この男には無いのではないか。 「フン。取り次ぎだと?ずい分出世したものだ。まあ、いい。 本来なら社長にお願いするのが筋なんだが、絶対安静ではな」 「それで、一体何を副社長に?」 「これまで、あの方には開発のために継続的にご協力いただいてきた」 途端に、ツォンの顔色がサッと変わった。何を言い出すのかと思ったら、この男は! ――サンプルの追加投入とは。自分は何と甘いことか。 「それが、社長の負傷で業務を代行されるようになってから、ピタリと断っておられる。 正直、研究が進まなくて困っている。研究員達も同意見だ。結論を言うと、副社長には代 行業務を熱心になさるのも結構だが、ご自分本来の仕事をなさってもらいたい。 不可能な話じゃないだろう?君と遊ぶ時間はあるようだからな」 「――あなたは、ご自分がいま何を言われたのか。わかっておいでか」 「ああ。副社長にお伝えしてくれ。VSSS開発のため、データを取りたい。 ついては被験体として、いつものように」 ツォンは最後まで言わせなかった。スーツから拳銃を取り出すと、物も言わずに頭を撃ち抜く。至近距離で撃ったせいで、返り血を浴びてしまった。これではまたシャワーを浴びなくては、と思った時。 呆然とした表情のルーファウスが、入口で入室をためらっていた。 「ツォン……?一体、これは」 頭を吹き飛ばされて、脳髄や脳漿が血と共に飛び散り、流れている。凄惨な光景と血の臭いに、ルーファウスは優雅な眉をひそめた。 「申し訳ありません。このような見苦しい物をお目にかけて。 片づくまで、お部屋でお待ち下さいますか?」 男が白衣を着用していたのと背格好から、ルーファウスにも死んだ男がVSSSの研究開発チームの責任者であることがわかったようだ。ハッとした顔でツォンを見つめ、まさか……?と呟く。 「あなたを悩ませ苦しめる者は、私が全て排除する。そう申し上げたはずです。 この男は、あなたに無体を働こうとした。これが彼に一番ふさわしい末路なのですよ。 あなたがお気になさることはありません。自業自得です」 お前には、殺人さえも愛の告白になるのか。 悲しげに微笑むルーファウスに、ツォンは暗く笑う。 私は愚かなので、他に術を知らないのです。あなたのためなら何でもする。何でもできる。それが道に外れたことであっても。 「お前が犯す罪は、私が引き受けるべきものだ。これもそうだ。 たまたま私はいなかったが、いればきっとこの手で」 「いいえ。あなたの手は白いままでいて下さらなければ。 世界を導き、人々の歩む方角を指し示す手なのですから」 「とにかく、後任を決めなければならないだろうな」 「それなんですが、研究員達があなたからデータが取れないと開発が進まないと訴えてい るそうで。困ったことです」 「彼らが思い違いをしていることを、よく教えてやろう。 ――ツォン。こいつをこのままにしろ。 いくら馬鹿だろうと思い上がっていようと、これを見ればわかるだろうからな」 そう言うと冷ややかに笑い、デスクに向かって歩いて行く。お前、とにかく血を落として来い。お前は私とは違うんだから。と言いつつ、慣れた手付きで内線番号を押す。 それを見届けて、ツォンはすぐ戻りますと告げて部屋を出て行った。いま殺した男のことは、すぐに忘れることにしようと思いながら。 「こ、これは!?」 上司の変わり果てた姿に驚愕し狼狽するばかりの研究員に、ルーファウスは首を振る。 「よほど研究が進まないのを苦にしていたらしい。私に相談があるといって尋ねてきて、少 し手が離せない状態なので改めて出直して欲しいとツォンが言ったら、いきなり拳銃で自 殺したそうだ」 そうだな?と、ルーファウスはツォンに確認する。ツォンは黙って頷いた。 そんな入口にいないで、こちらへ。 ルーファウスは凍り付いてしまった研究員に、入室を促す。 男はおずおずと歩いてくると、ツォンのデスクに座っているルーファウスの前に立った。 「というわけで、いまから君が開発責任者だ。しっかり頼むぞ」 正式な辞令は、追って交付する。そのつもりでいるように。 生真面目な顔でルーファウスにそう告げられて、はい、わかりましたと研究員は答えるしかなかった。ルーファウスは満足そうに笑い、期待しているよと手を差し出す。 男は仕方なく手を差し出したが、ルーファウスにギュッと握手されて驚く。そして次の言葉に寒気を覚えた。 「そうそう。ハイデッカー次長が先ほどお見えになってね。 いろいろ協力していただけるそうだ。――もちろん、サンプルの件もな」 暗に、自分はお前達の要求は認めない。こうなりたくなければ、大人しく言うことを聞け。 そう恫喝しているのだった。 「そうですか。それは……心強いです。ご配慮に感謝致します」 緊張のあまり、顔色が無い。では、私はこれで失礼させていただきます。 強ばった表情のまま、男は退出した。 「どうやら薬は効いたようだな。これでもう、奴らは二度と馬鹿なことを言わないだろう」 「では、今度こそ片づけます。どうぞお部屋へお戻りを」 「ああ。後は任せた」 書類の決裁なら、私室でもできることだしな。そう言って立ち上がる。 「ルーファウス様」 「何だ?」 「例の娘ですが。本当に殺してもよろしいのですね?」 「くどいぞ、ツォン。あの女がいる限り、私は安眠できない」 「――かしこまりました。では、間違いなくそのように」 「可哀想だが、恨むならその身を流れる血を呪うがいい。 あの女は、存在自体がジェノバの特効薬なんだからな」 フン、と鼻で笑ったルーファウスに、ツォンは一瞬複雑な思いが込み上げた。 彼の思いに気づかないまま、ルーファウスは上機嫌で部屋を出て行った。 後に残されたツォンの顔には、哀れみの表情がゆっくりと広がっていった。 |