2.

「……ひどいな」
 死体は片づけられていたものの、床や壁に飛び散った血を見れば、何が起きたのかは容易にわかる。
 逃げまどう者をも、セフィロスは容赦なく追い詰めて惨殺したらしい。数時間が経って、黒く変色した血糊が壁を不気味に彩っていた。
 惨劇の証拠は、まだあった。――鉄が錆びたような、人間の血に独特の臭い。肉体的、精神的にダメージを受けたばかりで血腥い臭いなど嗅いでは、気分が悪くなるのでは――。ツォンは、香水をしみ込ませたハンカチを持っていくようルーファウスに言ったのだが、ルーファウスはそれを聞き入れようとしなかった。
「自分の置かれている現実を認識するのに、五感を麻痺させてどうするんだ?」
 無機質な表情で、あっさりとツォンの提案を斥ける。
「それに、忘れたのか? うちは元々兵器会社だ。人の死を、より速やかにより確実に大量生産するのが本来の仕事だろう。その社長が、死臭にいちいち吐き気を催していてどうする」
 浮かべられた自嘲の笑いに、ツォンは言葉を続けることができなかった。
 ルーファウスが社長になることを、ずっと願ってきた。彼が思うままに世界を動かしていく様を、この目で見たいと切望していた。彼なら、その権力を正しく行使してくれるに違いない。民を慈しむ支配者になってくれるだろうと。
 だが、いままで考えたこともなかったのだ。果たして、ルーファウス自身はそれを望んでいるのかを。もしかしたら、物欲というものが極端に少ない彼のことだ。支配者などという業の深いものは、誰よりも遠慮したいところなのかもしれなかった。周囲の人々の期待を裏切るまいと、ただ口には出さないだけで。
「もし気分が優れないなと思われたら、すぐにおっしゃって下さい。絶対に無理なさらないで下さいよ?」
「そうするよ。このザマじゃな」
 体力を消耗しきっているルーファウスは、まだ歩ける状態ではなかった。仕方ないので、車椅子での移動となったのだ。さすがに、意地を張れるような余力はないらしい。
 心配顔のツォンに、彼は素直にうなずいている。
「しかしまあ、セフィロスもアバランチも派手にやってくれたな。外観エレベーターはガラスが割られていて、妙に風通しが良かったし。ジェノバを引きずってくれたおかげで、セフィロスがどう歩いていったのか。これじゃ一目瞭然だな」
 苦笑いして、セキュリティの回復状況を尋ねる。ツォンは淡々と答えた。60階から上のシステムは壊滅的だが、一般社員達が働くフロアでは既に問題ないと。
「要するに、機械に頼り過ぎていたわけだな」
 ルーファウスは、鼻で笑う。
「コンピュータ制御の警備システムが抱える脆さが、露呈しただけのことさ。IDなんて、偽造すればいい。そもそも電力が供給されなければ、システム自体が働かないわけだしな。まともに稼働していたとして――例えば、監視モニターの係員が居眠りしていたら? どんな完璧なシステムも、それを運用するのは人間だ。世の中に、完璧なものなんてあり得ないんだよ」
「あなたのそういう所を、プレジデントも見習うべきでしたね」
「この世が自分を中心に回っていると信じ切っていたオヤジに、それは無理だろうな」
 逆に言えば、彼は自分を中心に世界が動いているとは思っていない。ルーファウスは、そう認識していることになる。どうやら、彼はプレジデント以上のリアリストに成長したらしい。
「しかし、ジェノバだけが目的なら、真っ直ぐ科学部門専用フロアに来てもよさそうなものなのに。やっぱりオヤジに恨みがあったんじゃないのか、セフィロスの奴?」
「――なかった、とはお世辞にも言えませんね」
 美貌のソルジャーの凍てついた目を思い出して、ツォンは一瞬身震いした。誇り高い彼が、プレジデントの命令に決して唯々諾々と従っていたわけではないことを、知っていたからだ。
「この階が、いままで見てきた中では一番凄まじい状況だな。さて、上はどうなっているやら」
 いきなり69階まで上がらずに、60階から順番に見てきたルーファウスは、暢気な声で言う。
(……あなたがご存じの秘書達は皆、殺されてしまったのですよ。研究員達と違って、どうやら即死したらしいのがせめてもの救いですが)
 見れば、わかることだ。沈黙を守るツォンだった。

 69階に足を踏み入れた途端、いままでとは比べ物にならないほどの血の臭いに鼻腔を支配される。ここに来るまでに慣れていたはずだが、ルーファウスは眉をひそめ、口元を押さえている。
「大丈夫ですか?」
 蒼白な顔色のルーファウスに、ツォンはそっと声をかけた。
「だ…い……じょうぶ……なワケが、ないだろうっ!」
 68階からの階段に、打ち合わせスペースに置かれたソファに、社長室へ向かう階段に、いまも残る血溜まり。秘書室に入った彼が目にしたものは、恐らく席で仕事をしていたまま絶命させられた秘書室長の、血まみれのデスクだった。
 受話器には、血染めの指のあと。危急の難を、とっさにプレジデントに知らせようとでもしたのだろうか。スケジュール帳が、開かれたままになっている。赤黒く変色したページにふと目を落とすと、それは年末年始の欄だった。休暇、旅行。そう無造作に記入された横に、連絡先番号と朱書きされていた。
「……この局番、ウータイだな。そういやこの間、久しぶりに家族と旅行するんだって嬉しそうに話してたな」
 しんみりとするルーファウスに、ツォンはあくまで事務的な話をする。
「もうお気づきでしょうが、プレジデントに仕えていた秘書達は、セフィロスの手にかかりました。たまたま所用で席を外していた、ミス・ステイシーを除いて」
「なら、話が早い。彼女に私の秘書室長をしてもらおう。あのアイアン・レディなら、部下の人選も任せられる」
「ではそのように、人事課長に伝えます」
「その前に、緊急の取締役会の招集だ。まずは私を正式に社長にしてもらわないとな」
 違いない。プレジデントが死んだとはいえ、公的にはルーファウスは副社長のままだ。肩書きは立派だが、社内における権限などたかが知れている。各部門の統括をしている重役達と、ほぼ互角といったところか。
 それにしても、一瞬のうちに個人的な感情を押し殺し、取りあえずやらなければならない事に当たれる、この切り替えの速さ。いくら幼い頃から帝王学を叩き込まれてきたとはいえ、ごく自然にそれができるというのは、やはり持って生まれた才能なのだろう。
「こういう状況だからこそ、キチンと所定の手続きを踏まないとな。あとで何を言われるかわからない」
 ニヤリと笑ったルーファウス。彼が社長に就任するのを望まない勢力が社内に存在することを、ちゃんと心得ているらしい。
(――この方を見くびっている連中は、いずれ高い代価を支払わされることになりそうだな)
 それは、恐らくそんなに遠くない日のことだろうが。そう考えるツォンだった。