2. 「あれは、少々変わっていてな。何をしでかすか、わからんのだ。そこで、お前にはあれの見張りを頼みたい」 実の息子に、監視の人間を付けようというのだ。何かある、と思ってここへ来たのだが。直接言葉を交わしたのは、着任の時にあいさつをした、その時だけだった。 あれから、少年は特に問題となるようなことをしていない。というより、その気配さえ無い。彼の日常は至って単調で、静謐なものだった。幼い子供には不似合いなほど大量に課せられた日課のせいで、彼のスケジュールは過密だった。 言語、政治、経済、法律、歴史、文学に美術……。 少年に付いている家庭教師の数の多さに、自分なら自閉症になるところだと、ツォンはめまいを覚えたほどだ。 しかし、それを少年が苦にしている様子は、微塵も無かった。かといって、楽しんでいる風でもない。ただ、義務だから黙々とこなしている、ということらしい。 「たまには、嫌になることもあるのでしょう?」 見かねたツォンは、ある日そう尋ねてみた。だが、返ってきた答えは拍子抜けのするものだった。 「嫌になる? でも、他にすることもないし。したいこともないしな」 青い瞳に、一瞬影がよぎった。かすかに小首を傾げたところからすると、どうも質問の意味を掴みかねているようだ。そこで初めて、ツォンは気づく。 (この子には、選択の自由が存在したことが無いのだ) どんな些細なことでもいいのだが。自分の意志で何かをしたことが無ければ、束縛の苦痛も感じないだろう。それは、ある意味幸せなのかもしれないが。 だが、とツォンは思う。自らの不幸に気づかないというのは、人として、最も哀れな状態ではないのかと。 身に着ける物、口にする物、目にする物の全てが最高の品々で。少年の生活は、恐らく他人からすれば羨ましいの一言に尽きるのだろう。 (私なら、ご免だが) 憐れみの表情など、絶対に浮かべるわけにはいかなかった。そんな真似は、この誇り高い少年を傷付けてしまうだろう。そう言えば、「いつも白い服をお召しになっていらっしゃいますね。お好きなのですか?」と尋ねた時も、怪訝そうな顔だった。 ツォンは、思い出して今更ながら納得する。あの時、少年はこう言ったのだ。 「一度だけ、黒い服を着たことがある」 それはいつですか? と何の気なしに問い返した自分に、彼は淡々と答えたのだ。 「ミッドガルから、迎えが来た。オヤジが、目を真っ赤にしていた。それから、黒い服に着替えさせられて、人が大勢いる所に連れて行かれた。みんな、泣いていた。花を渡されて、黒塗りの大きな箱の前に立たされた。『お母様と、最後のお別れを』。そう言われて、初めてこれが葬式なのだとわかった。後にも先にも、黒い服を着たのはあれ一度きりだ」 例によって、だからどう思った、ということが語られるわけではなかった。ただ、事実だけを少年は口にする。――感傷は、一切抜きで。 初めの内は、そうした会話にひどく違和感を覚えたものだが。いまでは、慣れた。聞くところでは、彼は人と話をすることがほとんど無いという。母親とさえ、滅多に会わなかったというのだから。徹底している。 別に、親子の間が上手くいっていなかったわけではない。彼の母親は、幼い頃から世間と隔離されて育った。物心つく頃には、既に斎姫として神殿の奥深くにあった。そのせいなのか。人の妻となって子供を生んでも、母性本能が芽生えることはなかったらしいのだ。 愛妻と子供に会いに来たプレジデントに向かって、「ルーファウスなら、乳母がきちんと世話をしていますわ」と告げた彼女は、結婚してからも生活を変えなかった。神に捧げるために糸取りをし、染め、機を織り、刺繍をする。儀式こそ行わないものの、一日の半分は祈りの時間に充てていたし、屋敷に特別に作らせた祭壇へは、捧げ物を欠かさなかった。 神殿の奥深くからいきなり引き出されて、意に染まぬ結婚を強いられて。何とお気の毒な、と言う人々に、彼女は不思議そうに言ったという。 「いまも昔も、暮らしには変わりありませんわ。何故皆様は、同じことをおっしゃるのでしょう」と。 騒がしいミッドガルに住むのを嫌がった彼女のために、プレジデントは別荘を建てた。緑豊かで、滝や川が近くにある、静かな地。彼女はそこで、いつ訪れるかわからない夫を待ちながら暮らしていた。彼女自身は、神殿にいた時も同じだったと感じていたらしい。いつ訪れるかわからない神のために美しく装い、祭壇に捧げる食べ物を作り、歌を詠み、器楽を奏でる。 むしろ生身で訪れる分、プレジデント相手の方が張りがある。そう、乳母には秘かにこぼしていたのだという。 そんな母親に育てられて――いや、育てているという意識は、恐らく彼女に無かったろうが――しまった彼が、少々感情の起伏に乏しいのは、むしろ当然のことなのでは。ツォンは、そう思い始めていたのだ。 退屈過ぎるほどの、平和で穏やかな日々。自分がタークスであることを一瞬忘れる位、この屋敷の毎日は単調なものだった。 このまま、日々が過ぎていけばいい。漠然とそう思っていたツォンだが、使用人達が何故ルーファウスを恐れるのか。その理由を知って、主の少年が人に交じって暮らすことを許されないのは、やはり計り知れない不幸なのではないかと胸が痛くなった。警護する自分は、仕事らしい仕事をしなくてすむので、とても楽なのだが。 「あれは、少々変わっていてな」 今更ながら、プレジデントの言葉を思い出す。その、少し誇らしげな表情と共に。 「偽善を嫌い、他人の思惑など意に介さぬのが、貴族の貴族たる所以だとか。あれは、いつでもどこでも自然だ。正に、真の王侯と言うべきだろうな」 やはり、血は争えないと見える。そう言って、満足そうにプレジデントは笑っていた。 確かに、少年には気韻がある。それが血筋のせいなのか、性格によるものなのかはわからない。ただ言えることは、彼の自尊心の高さは半端なものではなかった。 子供扱いされるのを極度に嫌い、無断で自分の中に踏み込もうとする人間には、容赦なく攻撃態勢を取る。それは、父親に対しても同じだった。 普段表情をほとんど変えない、人形のようなこの少年が、父親の名を聞く度にかすかに眉をひそめるのを、ツォンは何度も見た。そればかりか、幼い主がプレジデントのやり方を批判するのさえ聞いた。 「何故あんな男が、世界の命運を握る立場にあるのか。よく、わからないな」 お前はどう思う? と問われて、ツォンは曖昧な微笑を浮かべ、逆に問い返した。 「ルーファウス様なら、どうなさいますか。いまのやり方を続けるおつもりは、無いのでしょう?」 すると、少年は秀麗で作り物めいたその顔を、笑顔に変えた。その様は、まるで天から降る花のようだと――ツォンは、思わず引き込まれる。だが、優雅に上げられた唇から漏れた言葉は、笑顔とは裏腹に、苛烈そのものだった。 「支配者が愛されてどうする。私なら、愛されるよりも恐れられる方を選ぶ。私は、世界を恐怖で支配する」 考えてもみろ、と少年は言葉を続けた。人が神々を祭るのは、何のためだ。祟りを畏れるからだろう、と。決して、恵みをもたらしてくれる存在へ感謝するばかりではないはずだ。宗教書を読めば、神々の怒りと赦し、そして奇蹟のオンパレードだろう? と。 (この方は、聡い。それがこの方を不幸にするほどに) 少年は、自分がただの子供ではないことを十分過ぎるほど知っている。その上、プレジデントの後を継ぐ以外に選択肢が無いことも。 逃避しないで自らの運命を受け入れて、真っ向から一人で戦いを挑むその姿は、痛々しいものに見えた。この位の年頃なら、友達と遊んで笑い転げたり、ケンカをしたりで忙しいはずなのに。ルーファウスには、それは決して許されない日常なのだから。 (例の事件があった時、プレジデントは気づくべきだったのだ。彼の息子が、人としての心を封印されてしまっていることに) ツォンは、目を伏せて家政婦から聞かされた話を思い出す。 「あの子は、お母さんの乳母で自分の世話をずっとしてきてくれた人間を殺したんだよ」 「以前にも、あなたはそう言われた。だが、あの方はまだ子供だ。そんな真似ができるはずが」 「ない、って言いたいのはわかるけどね。あの子は別格さ。恐ろしく頭がいいからね」 「一体、何を――」 「病気だったんだよ。長患いでね。ずっと苦しがっていたんだ。タチの良くない腫瘍が、胃にできててね。それを、あの子は」 「――ツォン?」 急に黙り込んだ自分に、不審を抱いたのか。ルーファウスが、じっと自分を見つめていた。あんな話を聞いた後でも、青い瞳に暗い影を見出すことはできなかった。 ツォンは意を決して尋ねる。 「ルーファウス様、お尋ねしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか?」 何を突然言い出すのかと、大きな目が瞬きをやめ、一層大きく見開かれた。彼がこんな風に驚くこともあるのかと、ツォンは興味深く思う。 「お母様の乳母に、一体何をなさったのですか。この館の皆が、あなたをひどく恐れています。私は本当のことが知りたい。聞かせてくれませんか。真実あったことを」 「僕はただ、望みを叶えてやっただけだよ? 早くお母様のところに行きたい、楽になりたいっていつも言ってたから。だから、そうしてあげた」 嫌な予感がした。やはり、人々の言うことは正しかったのか。 しかし、それにしては少年の瞳は澄み切っていて、一点の曇りも無かった。彼に疚しいところが無いのは、明白だ。 「楽にですか。それは、どうやって?」 「薬をすり替えたんだ。いろいろ調べた。できるだけ効き目が速くて、確実に死ねるような、苦痛を感じないですむ薬を見つけようと思って。それを手に入れるのに、ちょっと苦労したよ。まあ、結局宝条に頼んだけどね」 天を仰ぎたくなるツォンだった。方法を知ったとして、それを実行できる環境が無ければ、ルーファウスは人殺し呼ばわりされずに済んだのだ。 いくらプレジデントの息子とはいえ、子供が劇薬、毒薬の類を欲しがるのに、何の疑問も持たずにそれを渡すのは――。 大人の側に、非常に問題があるのではないだろうか。 「つまり、毒を使って殺したわけですか。ルーファウス様、人殺しはいけないことだと教わりませんでしたか?」 およそ、タークスの自分が言うには一番ふさわしくない言葉だと、ツォンは自嘲の思いに囚われる。一方、ルーファウスの方は困惑した表情を浮かべていた。彼のそんな顔を見るのは、これが初めてだった。 「でも、ケガをして走れなくなったレースチョコボは、薬殺するだろう? 以前ゴールドソーサーに行った時、オヤジが自分のチョコボにそうさせるのを見たよ。『これはもう走れないから、楽にしてやらないとな』って言ってた。だから、僕もそうした。……それは、いけないことだったの?」 ツォンの顔を不安そうに見上げているルーファウスには、罪の意識が全く無かったらしい。いまいけないことだと言われて、初めて自分のやったことが正しくなかったのではないかと思い始めたようだ。 (この子には、人が普通に持っている善悪の基準が無いのだ) 何と痛ましいことだろうかと、ツォンは目の前が暗くなる。どう育てれば、こうなるというのだろう。 「レースチョコボは、プレジデントの持ち物です。だから、生かすも殺すもプレジデントの自由にしていいんですよ。しかし、人間は違う。誰かが誰かの命を奪うことは、決して許されない。あなたが純粋に善意からしたのだということは、よくわかりました。でも、約束して下さい。もう二度と、そんな真似はしないと。いいですね?」 ただならぬツォンの様子に、少年は怯えているようだった。コクコクと首を縦に振り、消え入りそうな声でもうしないよと呟く。 なるほど、とツォンは納得する。あの子は普通じゃない、常識がまるで無い、化け物だと使用人達が口々に言うのは、こういうことかと。 (要するに、人の情を知らないのだ。神々が、人間の願いを叶える時。それは、こんな風なのだろうか) 治らない病気の苦痛から、解放を願ったのだから。確かに、願いは叶えられたわけだ。――恐ろしいほど、正確に。 だが、ルーファウスは人の子だ。神々ではない。この性格では、この先苦労するだろうなと思う。神羅のプレジデントという立場は、神を気取るにはあまりに生臭く、敵が多過ぎるのだから。 「ルーファウス様……。私は、何があってもあなたをお守りします。約束します。あなたを傷付ける一切のものから、あなたを必ず守ると」 声に悲痛な響きを滲ませたツォンに、少年は不思議そうに目を瞠り、笑った。 「何を当たり前なことを。お前は僕のボディーガードだろう? まあ、仕事熱心なのは認めてやるけどね」 最後に付け足された生意気な口が、ツォンには嬉しかった。まだ間に合うのだ。この子は、人としての心を失ったわけではないのだから。 ありがとうございますと頭を下げながら、ツォンは幼い主への忠誠をそっと心中で誓ったのだった。 |