Sacrifice


1.

 全ての始まりは、富と権力を手中にしたある男が、お定まりのように名門の血を欲したことだった。
「あの女が欲しい」
 彼の一言に、望まれた女の一門は恐懼し、困惑した。何故なら、彼らの一族は神を始祖とする千年続く家系で、神に仕えるのを役目としていたからだ。
 いままで、長きに渡り家が存続してきたのは、男のような生臭い政治に関わる者と縁を結んでこなかったからだ。この世界の文化と学芸の伝承者であること、学問の中枢であること。それだけを固守してきたからこそ、権力者の交代にも影響を受けずに済んだのだ。
 しかし、いまや男の力は世に並ぶもの無く、その命令一つで国が滅ぶ有様とあっては。到底、拒否できるものではなかった。それでも、一門の人々は懸命に訴えた。
「あの娘は、神に仕える斎姫。一生を神に捧げた身なのです。どうか、あの娘はお見逃し下さいますよう。代わりに、あの娘に繋がる者を花嫁として差し出しますので……」
 だが、この精一杯の申し出を、男は一笑に付してしまった。
「この私が、代用品で満足するとでも思うのか?」
 もちろん、一門の人々もこの答えは予期していた。彼らは言う。
「神には、最高のものを捧げるのが慣わしなのです。一族中の未婚の娘で、最も血筋が良く、美しい者を。だから、あの娘が選ばれたのです。他の者では、神に対して非礼に当たります」
 男の機嫌は当然損ねたくなかったろうが、彼らにしてみれば、神の怒りを買うことも避けたかったに違いない。そんな彼らの哀訴も、男には無駄だったが。
「お前達に聞くが。神は我々の代わりにパンを焼いてくれるか? 戦争をしてくれるか? ――時代は変わったのだ。神の支配する世は去った。いまは、人の世だ。そこのところを、よく考えるのだな」
 男は恫喝するばかりでなく、様々な手段で一門の結束を切り崩しにかかった。買収、職の斡旋、寄付、一族が所有する土地での大規模な都市開発……。
 およそ思い付く限りのことをした挙げ句、彼は娘の周りから、彼女が頼みに足る人間達を次々に排除していった。最後に残ったのは、乳母だった侍女が一人。
 この状態になって、初めて彼は娘に求婚した。相談する相手もなく、心細い日々を過ごしていた年若い斎姫は、流されるままにそれを受け入れるしかなかった。
 こうして、男は望む女を手に入れた。と同時に、世界中に自らの勢威を誇示することにも成功した。彼が望めば、手に入らぬものは何も無いのだと。
 神ならぬ人の妻になった斎姫は、やがて男に子供を与えた。彼女に似て、輝く金の髪と深い青の瞳をした男の子だった。男のただ一人の、必然的に跡継ぎとされた子供の名は、ルーファウスといった。

「――化け物?」
「そうさ。あの子は普通じゃない。あんたも災難だね。本社でデスクワークをしてたんだろ? それが、よりにもよってあの子のお守りだなんて。運が無いねえ」
 派手にため息をつく家政婦に、タークスのツォンは何と返事をしてよいものやらわからず、曖昧な微笑を浮かべた。それをどういう意味に取ったのか。世話好きな中年女は、声を潜めて語りかける。
「あの子は、人殺しなんだよ」
 穏やかならぬ言葉に、ツォンは眉を寄せた。少々変わった子供だとは聞いているが、そのような話は聞いていない。性格に残虐性があるとでも言うのか。
 だが、受け取った資料には「感動に乏しく、無感情に近い」とあったような気がするが。女は、嘘をついているのか。それとも、資料が間違っているというのか。
「人殺し? あんな幼い子供が? まさか、そんな」
 からかわないで下さいと、軽く流して笑った。ところが、家政婦は大真面目だった。
「あんた、冗談だと思ってるんだね? 悪いことは言わないよ。あの子には、気をつけな」
 妙な先入観を植え付けられてしまったなと、ツォンは苦笑いする。
 確かに、ここへ来るまでにいろいろな噂は耳にしていたのだが。家政婦だけでなく、執事やら庭師やらメイド達までが首を縦に振るところを見ると、これはただ事ではないだろう。
 何があったんですか。自分がタークスだとは知らない館の者達に、ツォンは単刀直入に尋ねてみる。すると。
「奥様も、人間離れしたところのある方だったんだけどねえ。あの子は、まるっきりだね。あたしらのことは、多分その辺に転がっている石ころと同じにしか見えていないんだろうよ」
「もし神様だの悪魔だのが本当にいるんなら、ああいう風かもしれないさ。何しろ、常識ってもんがまるで無いんだから」
 要するに、普通の人間とは感覚が異なっている、ということなのか。
 これは厄介な任務を命じられてしまったと、秘かに呻くしかないツォンだった。

「お前が、今度の?」
 幼い主は、何の感情もなくそう言った。間近で見ると男の子であるのが不自然なほど、整った美しい顔立ちだった。
 息子でこうなら、プレジデントが執着したという母親は、一体どれほどの美姫だったのだろうか。ツォンは不躾にならない程度に、目の前の少年に好奇の視線を注いだ。
 見る者の目を奪う、鮮やかな金髪。抜けるように白い肌は、ほんのりとピンク色が透いている。それに、吸い込まれそうな青い瞳。
 ――宗教画に描かれる天使が、そのまま絵から抜け出てきたかのようだ。
 ツォンは、思わず嘆声を上げそうになるのをこらえた。そんな彼に、話しかけるのは自分の義務だとでも言わんばかりに、少年は物憂い一瞥を投げて呟いた。
「お前、変わった名だな」
 だから覚えにくいとか、逆に覚えやすいとか。その後に何かしら言葉が続いたのなら、ツォンも反応のしようがあるのだが。少年は、ただ事実を述べただけのようだった。
 ツォンの顔に、戸惑いの色を見て取ったのだろう。ルーファウスは、続けて言った。
「もう下がっていい」
 別に、自分がいるのが不快なわけではないらしい。というより、側に他人がいるという意識が無いようだ。ツォンの脇を通り抜けて、ソファへと歩いて行く。そして、置いてあった読みかけの本を、寝そべって読み始めた。
 その様子を眺めているツォンを、咎める気はないらしい。静寂が支配する部屋に、ルーファウスがページをめくる時に立てるかすかな音が、規則正しく響く。
 見てはいないのだろうが。ツォンは少年に一礼すると、そっと部屋を後にした。



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