2.

「私、もうダメです。耐えられません。……あんな社長、見ていられない。お気の毒すぎます、こんなの……」
 そう言うイリーナも、泣き腫らしたせいでぼってりとしたまぶたに、充血したせいでエメラルド・グリーンの瞳は輝きを失ってしまっている。眠れない日々が続いていることが容易に想像できる、目の下の隈。
 食事もロクにとっていないんじゃないのか? お前、フェイスラインが鋭角的になったぞ。
 ――レノは、イリーナが倒れるのではないかと気が気でなかった。しかし、それを言葉にしたくても当てはまる文句が浮かばない。このところ、まるでルードの無口がうつったかのように静かな彼である。
「……今日はもう休め、イリーナ。社長の見張りは、俺達だけで十分だろう」
「ルード先輩……。いいんですか?」
「その代わり、頼みたいことがある。『魔女の大釜』でシチューとパンを四人分調達してきてくれないか?」
「四人?」
「――お前、目の前で見張ってないと食事をしそうにないからな。それに、俺達野郎だけで食べるのも味気ない」
「わかりました。……やっぱり優しいんですね、先輩って」
 微笑もうとして、涙が頬を伝うのに驚くイリーナ。
「やだ……何でだろう? おかしいですよね、私」
 その様子を見て、ルードは呟いた。
「おかしいのは、ここにいる者みんなだろう」
 無口なレノに、よくしゃべるルード。ふさぎ込んで笑わないイリーナに、人間らしい感情を全て無くしたかのようなルーファウス――。
 行ってきます、と涙をぬぐいながらイリーナは出て行った。
「――参ったな」
「まだ口をきけたのか」
 今日初めてしゃべったレノに、ルードは皮肉げにそう答えた。
「俺は、自分では器用な人間だと思ってたんだ。――自惚れだったぞ、と」
「……そうか」
「好きな女が泣いていても、何もしてやれないからな。あんたとは大違いだ」
「……本気だからさ」
「え?」
「レノ、お前いままでに本気になったことってあったのか。仕事でも、女でも」
「……でもなあ、俺はあの人の下で働くの、気に入ってたんだぜ。それに、坊っちゃんのことも嫌いじゃない。ずっと続いていくと思ってたんだ、変わらない毎日が。そんなこと、絶対にあり得ないのにな、と」
「……気づいて良かったな」
「坊っちゃん――立ち直れるのか?」
「さあな。だが、俺達はそう信じるしかないだろう。またそう信じるから、こうしてそばにいるんじゃないのか」
「そりゃそうだな、と」
 古代種の神殿で、ツォンはセフィロスの凶刃に倒れた。神殿の鍵を開けるために向かったのは、ツォンとイリーナの二人。レノとルードは本社にいて、ルーファウスと共に報告がくるのを待っていた。
 いまにして思えば、あの時ルーファウスは後の悲劇を予感していたのか、ツォンが神殿へ赴くことに大反対したのだった。
「お前がわざわざ行くほどのことなのか!?」
「セフィロスが絡んでくるかもしれませんし、クラウド達が来るのは確実です。彼らを出し抜こうというのですから、自分がすべき仕事だと理解しています」
「セフィロスは昔の彼じゃない――。そう言ったのはお前だぞ? そんな危ない所へ、何故お前が行く必要がある!」
「ではルーファウス様はそんな危険な場所へは部下を行かせて、私は本社にいろとおっしゃるのですか。それは、私達が目指したやり方ではないのではありませんか」
「とにかくだ。お前一人で行くなんて、絶対に許さない! ――どうしても神殿に行くと言い張るのなら、せめて誰か連れていくことだ。わかったな!?」
 ツォンが危険を感じていなかったのは、イリーナを同行させたことからもわかる。彼は、イリーナの身が少しでも危険に晒される可能性のある仕事を、絶対に彼女にさせようとはしなかったからだ。
 泣きじゃくりながら、イリーナは語った。
「私……何であの時そばを離れたの……? もう二度と会えないなんて、こんなの……イヤ……!」
 神殿の扉を開け、中に入って進んでいくうちに二人は大壁画のある部屋にたどり着いたのだそうだ。
「私達、それに見とれてました。『ツォンさん、これは? これで約束の地がわかるんですか?』って尋ねたら、軽く肩をすくめて。『……どうかな。とにかく社長に報告だ』って。私、うなずいて走って行こうとしたんですけど、何となく――このまま行ってしまってはいけないような気がして。それで、振り返ったんです。『気をつけて下さいね。ツォンさん』って。そしたら、『ああ……』ってうなずかれて。そして……そして」
 ここでイリーナは堰を切ったように激しく泣き出して、レノとルードを困らせたものだ。
「『イリーナ、この仕事が終わったらめしでもどうだ?』って――!」
 二人には、その情景が目に浮かぶようだった。長年の想い人から、自分の気持ちを肯定する言葉をかけられて。イリーナがその瞬間どんな風だったか、言われなくてもわかる。真っ赤になって、心臓は爆発しそうな勢いで早鐘を打っていただろう。恐らく、まともにツォンを見ることはできなかったに違いない。立っているのさえ危うかったのではないか? その時、彼女の足がちゃんと地面についていたとは到底思えない。フワフワと空中を漂いかねなかっただろうな――。
 そう思うと、彼女が礼を述べたあと「それじゃお先に失礼します」と言って全速力でダッシュしてツォンの前から消え去っても、不思議ではないな……とも思う。そのあとに、まさか――あんなことになるなんて。どうしてイリーナにわかるだろう。
 イリーナから報告を受けていたルーファウスは、聞き終わったあとすぐに尋ねたものだ。
「――それで? お前がこうして報告しているということは、ツォンはまだ神殿を調査しているのか?」
「はい。壁画の意味を、考えていらっしゃるご様子でした」
「一人でか!?」
 その瞬間のルーファウスの顔を、レノもルードも一生忘れることができそうにない。
 怖いくらい真剣で、見ているこちらの胸が締めつけられる不安な光を湛えた、彼の美しい青い瞳を。
 ――その時だ。別室でケット・シーを操るリーブからの連絡が入ったのは。
「レノか!? 一刻も早くこちらに来てくれ! ルーファウス様を連れて、早く! ツォンが……ツォンが!」
 都市開発部のあるフロアに降りるまでの時間が、永遠に感じられるほどの焦燥感。蒼白な顔で唇を噛みしめているルーファウスには、声をかけることさえためらわれた。