4.

 楽しい時間というのは、どうしてこう矢のように速く過ぎ去るのか。
 明日はいよいよミッドガルへ戻らなければならないと思うと、自然口数の少なくなるルーファウスである。ツォンは沈みがちな彼の気を引き立たせようと、湖の周囲を散歩しようと持ちかけた。特に賛成するでもなく、かといって反対するわけでもなく。大人しく歩いていたルーファウスが、突然こう切り出した。
「知っているか?」
「何でしょう」
「この湖には、もの悲しい伝説があるんだ」
「――?」
「七百年の昔に、ここで入水自殺した姫君がいる。彼女はこのあたりを治めていた王の婚約者で、隣国の姫君だったそうだ。ゆくゆくは結婚によって、二人の国は結び合わされることが約束されていたとか。彼女の美貌は、近隣諸国では知らぬ者はないほどのものだったそうだ」
「それは……知りませんでした。でも、何故自殺など」
「南下政策をとるアースディース家に対抗して、この地方の諸国は同盟を結んだ。その軍を率いることになったのは、ここの王。姫君は当時父王の喪に服していて、喪が明けて結婚できる日を心待ちにしながら、花嫁のヴェールを織って日々を過ごしていたらしい。同盟軍を率いる王は最愛の恋人を残していくことに後ろ髪を引かれながら、アースディース家の軍を撃つために出陣していった。ところが当時のアースディース家の当主、つまり私の母方のご先祖様だな――は、いささか反則ものの手を使うことを考えついた。同盟軍の要である王さえいなければ、寄せ集めの軍隊など烏合の衆だということに気づいたわけだ。そこで、王が溺愛している姫君を攫おうとしたのさ」
「――! 戦術としては、正しいでしょうが。道義的には」
「全く同感だな。姫君の国の軍勢も、王と共に主力は国を留守にしているわけだからな。残された少数の留守部隊を、アースディースの精鋭部隊が急襲したんだ。結果は言わずもがな、だろう?」
「応戦空しく、敗れたんですね?」
「ああ。逃げて逃げて――とうとうここまで来たものの、背後は湖。彼女に、もう逃げ場は残されていなかった」
「それで死を選んだと……?」
「『わたくしが敵の手に捕らえられたら、あの方のご迷惑になる』。そう言って、花嫁のヴェールを身に着けて湖に身を投げたそうだ」
「哀れですね。湖はこんなに美しいのに、何とも陰惨な……」
「どんな思いだったのかな。私なら、そんな死に方死んでも死にきれない。敵の手に捕まったとしても、助け出してくれるのを待つとするぞ?」
「あなたは強いですからね」
「何でそうなるんだ? だって、生きていればいつか会えるだろう。――生きてさえいれば」
「もし攻め寄せた軍勢の中で、彼女を我が妻にと望んだ者がいたとしたら? ――歳月は、人の心を変えるものです。まして、子でも成してごらんなさい。彼女が自分の心変わりを恐れたとしても、そう不思議なことではありませんよ」
「そういうものなのか? ――よくわからないな」
 ルーファウスは湖に向かって歩いて行き、しゃがんで水に手を浸す。
「冷たい……。こんな冷たい水の中で、たった一人眠るなんて。私は嫌だ……!」
 追いついたツォンが、ルーファウスにハンカチを差し出して言う。
「あなたなら、そんな選択はなさらないでしょう? たった今、ご自分でも言われましたよね。『助け出してくれるのを待つ』と」
「当然だろう? 私が同じ目に遭ったら、黙って見てるお前じゃないよな。きっと全力を尽くして救い出そうとしてくれる。それなのに、私が勝手にその努力を無にするようなこと――できるわけがない。それは、お前への裏切りだ。愛しているなら、信じられるさ。違うか?」
 青い瞳に、激しい感情の揺らめきがあった。人を魅了せずにはいない、確固とした個性とまばゆいほどに煌めく生命の輝き。
(人があなたに惹かれるのは、単にあなたが美貌だからなのではありません。人形めいた、無機質で虚ろな美を誇る者は数多い。しかし、これほどまでに見事な、生を完全燃焼しているオーラを放つのは、あなた以外いない――)
 見慣れているはずだが、思わず見とれてしまう。ツォンが何も言わないのに不審を感じたのか。ルーファウスが、水で冷えた指をツォンの首に絡ませた。
 ビクッと身を震わせたツォンに、ルーファウスはさも面白そうに笑っている。人の話を聞いていないヤツにはお仕置きだよ、と。
「――氷みたいですね」
 ツォンは苦笑して、ルーファウスの手を取る。しなやかな、形の良い指。よく手入れされた爪が、健康的なピンク色にツヤツヤと輝いている。
 身体も精神も、極めて健全なルーファウス。本当に、この方には陽光がよく似合うと――その手を包み込んで暖めてやりながら、ツォンはしみじみそう思うのだった。
「――お前は、いつも暖かいよな」
 ポツリと漏らすルーファウスの言葉には、さきほどまでのからかうような調子はなかった。
 おや? という表情をするツォンに、ルーファウスは少し淋しげに微笑む。
「お前は私に何でもくれる。その命さえ、お前は差し出しかねないよな。もちろん、私はそんなこと望まないが……。それに引き換え、私はお前に何をしてやれるというんだろう。私は……お前に十分応えているか?」
 言外に、そうは思えないという自責の念を表しながらルーファウスはツォンを見上げる。
「私じゃ物足りなくないか? その……いろいろと」
 ばつが悪そうに語尾を濁す。その言わんとするところを察して、ツォンは思わず吹き出した。
「何を言うのかと思えば、いきなり……! 気にしてらしたんですか?」
 何とも可愛いことを言うものだと、左手で抱き寄せながら右手で頬に触れる。笑いを堪えているらしいツォンに、ルーファウスは少しムッとしたようだ。笑うなよ、と言いたげに恨めしそうな上目遣いで彼を見る。
「本当にあなたは可愛い人ですねえ。これだから、放っておけないんですよ」
 そう言いつつ、顎に手をかけて上向かせる。
 空と海の青さを湛えた瞳と、視線が合った。素顔のルーファウスをもう少し見ていたくて、ツォンは意地悪く続ける。
「それとも……もっといろいろされたい?」
 途端に、ルーファウスは熟れたトマトのように真っ赤になった。何か言おうとしても、とっさに意味のある言葉を織りなすことができないでいる。お前なあ……!と言ったまま絶句してしまった。
「――冗談ですよ。あなたにそんな経験がないのは、私が一番よく知っています。それに」
「それに……?」
 次は何を言い出すつもりかと、不安な表情が一瞬浮かぶ。全く、こいつは油断も隙もないからな。そんな顔だ。
「何も知らないあなたに、一つづつ教えていくのは楽しいですしね。何にしろ、あなたを傷つけたり壊してしまうようなことはしません」
「よく言うよ。昨日だって、壊れそうなことしたくせに……!」
「あなたがねだったからですよ? あなたに本気で拒まれれば、そんな真似はしません」
「ちょっ……ツォン!…ん……っん……」
 ルーファウスの反論を封じるようにツォンはキスをする。始めは唇が触れる程度に軽く。何度も角度を変えてするうちに、次第にその動きは熱を帯びていった。途中で息が続かなくなったのか、ルーファウスが空気を求めて喘いだ。
 潤んだ瞳、陶然とした表情。上気した顔色は、いつもが白磁を思わせる肌の白さであるだけに、ひどく艶めかしい。少しの間呼吸を整えていたルーファウス。やがて赤い唇がわずかに開かれ、誘うように真珠の如き歯がのぞいた。
「意地悪だ――」
 恨めしそうに自分を見上げる様が、たまらなく愛しい。ツォンは再びルーファウスに口づけた。今度は、ルーファウスの腕が首に絡み付いてきた。自分に体重を預けるようにしなやかな身体を寄せてくる。細い腰を引き寄せると、腿に感触があった。ルーファウスが欲情しているのを確認したツォンは唇を離し、スラックス越しにそれを撫でさする。その中途半端な刺激に、たまらずルーファウスは嬌声を上げ、身をよじった。
 何度聞いてもいい声ですね。もっと聞かせて下さい……。
 それは甘美な処刑宣告だった。下肢から力が抜けていくルーファウスを、ツォンは手近な木にもたれさせかけた。服を脱がせ、羞恥にうつむく恋人の顔を上げると、彼は微笑んでこう言った。
「立っているのも辛いでしょう?しばらくこうしていて下さい」
 ――こんな所であなたを押し倒すわけにもいきませんからね。と言いつつ、ツォンはルーファウスの腕を後ろに回すと、脱がせた服で手首を縛った。後ろ手に幹を抱きかかえ、身動きできないように身体を拘束されたルーファウスは、まるで磔刑に処せられた殉教者のようだ。端正で品のある容貌のルーファウスがそうした姿でいるのは、大層そそられるものがある。樹皮と対照的なコントラストをなしている肌の透き通るような白さや滑らかさが、ひときわ目立った。ツォンは下着ごとスラックスを下へ滑り落とすと、剥き出しになったものを奔り尽くした。高みに昇り詰めさせ、絶頂を迎える寸前で止める。それを幾度も繰り返される方は、たまったものではない。
 身の内を吹き荒れる官能の嵐に耐えかねたのか。やがてルーファウスはすすり泣きを始めた。だが、ツォンの暴虐ともいえる愛撫は止まない。指の一本が中へと消えた。瞬間、ルーファウスは息を呑む。探るように進む指がある一点を捉えた時、ルーファウスの視界は白く霞み、全身を電流が奔った。唇から、絶叫が漏れた。激しい快感に甘い陶酔と五感の痺れを覚え、いまや羞恥心の取り除かれたルーファウスは、喜悦を含んだ声で更なる刺激が欲しいとツォンにねだり、喘いだ。
「熱い……! 熱くて、腰…蕩けそう……。もう、許して……」
 それでもすぐには解放せず、錯乱の一歩手前まで小さな死を引き延ばす。エクスタシーの波に身も心も揉みしだかれて意識を手放す直前、ようやくツォンはルーファウスの望みを叶えてやった。しばらく余韻に浸った後、くたりとしたきり動かないルーファウスを縛めから解いてやり、服を着せる。柔らかな髪を梳きながら、少しやり過ぎただろうかと苦笑する。こんな風に貪ったのは、これが初めてだった。
「あなたにあんな……濡れた目で見つめられて。私が欲しくならないわけがないでしょうに」
 抱き心地は最高だが、少々感度の良過ぎる身体を持つ恋人が早く目覚めてくれないものかと、ツォンは手持ちぶさたな思いを味わうのだった。

 灼け付くような欲望をお互いに満たし合った後、気怠い疲労を心地よいものに感じながら、ルーファウスはツォンにもたれかかって座っていた。湖では、カモの一種が大勢のヒナを連れて姿を現したかと思うと、あっという間に生い茂る草むらに消えていった。のどかな風景だった。都会の喧噪に慣れた身には、この静けさが不気味にすら感じられるのか。ルーファウスは「静か過ぎる」と呟くと、ツォンに向き直って唐突に尋ねる。
「なあ、天国がもし……この地上のどこかにあったら。お前は行きたいか?」
「憎しみも争いも無い、病気も恐怖も悲しみも無い世界……。素敵でしょうね」
「人間が人間を管理する以上、そんな世界はあり得ないけどな」
「夢……ですね。決して地上には根付かない、美しい夢……」
「お前は行きたいのか」
 私を一人残して? そう言いたげに、ルーファウスはかすかに口の端を上げた。その表情は微笑んでいるようでもあり、悲しんでいるようにも見える。ツォンはゆっくりと首を振り、それを否定した。
「いいえ。痛みの無い場所では、こうしてあなたに笑いかけることはできませんから。人が悩み、苦しむのは何のためなのか。――いまでは、その理由がわかったような気がします」
「苦痛は、幸せでいるための代償だとでも?」
「ミッドガルでの窮屈な日々があるから、いまこうしていられる、この瞬間が永遠に続けばいいと願いたくなるのではありませんか?」
「ツォン……」
「あなたをこうして抱きしめていることが叶うのなら――その一瞬、それがどこであろうと――そこが私の天国です」
「ずい分安い天国もあったもんだな」
 思わず笑い出したルーファウスに、ツォンは空を見上げて言った。
「ミッドガルではお目にかかれない澄んだ青空、流れていく白い雲、湖水の煌めきに、いまはただ素直に感動することにしませんか?」
「――それもそうだな」
 幸福な思い出があれば、人は不幸にも耐えて生きていけるそうだから。
 いつか訪れるかもしれないその日のために、いまはひとときの幸福に酔いしれよう。
 ルーファウスは幸福を封じ込めるように瞳を閉じるのだった。


= END =