3.

「――よくお休みになれましたか?」
 大きく伸びをしながら姿を現したルーファウスに、ツォンは夕食の準備をする手を休めて尋ねた。
「うん。ずっと夢を見ていた。子供の頃……まだお母様が生きていらした頃の夢。コスタ・デル・ソルの別荘で、お前とお母様と三人で暮らしてた。あの頃は私を傷つける物は何もなく、私も何かを傷つけることなどなかったのに。どうして、人は変わらなければ……大人になれないんだろうな?」
 寝起きとは思えない、その深刻な言葉。ツォンはハッとしてルーファウスを見つめたが、本人は至って暢気だ。ソファに敷かれている毛皮が気持ちいいと、子供のように寝ころんで毛足の長いその感触を楽しんでいる。
「ダーネィ、今頃どうしてるのかな。レノの奴、ちゃんと世話してくれてればいいんだけど」
 敷物の毛皮を撫でながら、自分の側を絶対に離れようとはしなかった黒い獣のことを思い出している。
 ダークネイション。科学部門を通りかかった時に見つけ出した、ルーファウスの大切な友人。彼以外でダークネイションが自分に触れることを許すのは、ツォンだけだった。
 いよいよ出発という時、ダークネイションは自分が置いていかれることに納得がいかないようだった。その金色の瞳でルーファウスを見つめ、前脚でスラックスの裾を引っ張ったものだ。結局、ツォンが同行するらしいとわかって大人しくなったのだが……。
「あれは賢いですから。いたずら心を起こしていなければ、まあ大丈夫でしょう。気になるのなら、お連れになればよろしかったのに」
「冗談じゃない! ――お前とあんなことしてるのを見られるなんて。人に見られるより恥ずかしいじゃないかっ!」
 顔を真っ赤にして跳ね起きたルーファウスに、ツォンは笑いながら言う。
「おや。人ならいいんですか?」
「……意地悪だぞ、その言い方」
 スラリとした長い足を抱えて、拗ねたふりをしている様子も可愛らしい。普段なら、見ることはできないだろう。
 ええ、私は人が悪いんです。今頃気づかれたんですか? とからかうと、軽いため息混じりで返事をする。
「こんなヤツだとわかっていたら、好きになるんじゃなかった」
「私は、あなたのそういう所も大好きですけどね」
「子供みたいだ、って思ってるんだろう。どうせお前は大人だよ。――初めて会った時から、ずっと」
「あなたを一人で放っておくなんて。いろいろな意味で、そんなことできませんよ。もっとも、それは私の我が儘なのかもしれませんが……」
「その通りだ。だから、ちゃんと責任は取れよ?」
 立ち上がったルーファウスはツォンの首に手を回して、極上の微笑みを浮かべる。
「もうお前なしでは、私は生きていけないから。お前のいない世界だなんて、そんなの考えられない――」
「殺し文句ですよ、それは」
「ずっと側にいて。……離れないで」
「離しません」
 ルーファウスを抱きしめる腕に、力がこもる。
「だから、あなたも私を一人にしないで下さい。時々、不安でたまらないことがあります。ルーファウス様が、泡雪のようにはかなく消えてしまいそうで――。あなたは、物にも生きるということにも執着があまりないので」
「わかったから、二人きりの時はせめて『様』はやめてくれないか?」
 ルーファウスは笑っている。ツォンは思わず苦笑したが、すぐに真剣な表情になった。
「約束ですよ。私の望みは、あなたが幸福になること……そして、あなたの笑顔を見ることなんですから」
 ルーファウスは言葉で答えず、黙ってツォンにもたれかかる。ツォンはルーファウスの髪を撫でながら、ふと思った。
 もしもある日突然に、この腕の中の温もりを失ってしまったら?
 ――想像するだけでゾッとした。すると、ルーファウスが低い声で呟いた。
「お前に出会う前、私は広い屋敷の中で孤独を味わっていた。お母様は、きっと長くは側にいて下さらない――。そんな予感に、いつも怯えていたんだ。実際、お母様は私を残してあんな早くに逝かれてしまった。独りぼっちになるところを、お前が救ってくれたんだ。ずっと満足していたんだ、ただ側にいてくれるだけで。それなのに、いつからだろう? それだけでは物足りなく思うようになったのは。――お前を知りたかった。全てを知れば、心が満たされると思った。安らげると思った。一人取り残される不安に訣別できると思ったんだ。でも、そうじゃなかった。知れば知るほど、苦しみが増していく。何故だ? お前を信じてないわけがない。裏切られることなんて、露ほども考えたことはない。それなのに……。私は、どうかしている。お前に愛されれば愛されるほど不安になって、もっと愛情を求めてしまう。何てワガママなんだろうな――」
「違います。それは、我が儘のせいじゃありませんよ」
 ツォンは優しく微笑んだ。そしてうつむくルーファウスの顔を上げ、顎に手をかける。
「言葉では、思いの全てを伝えられない。だから、私達はこうするんですよ……多分ね」
 そっと唇に触れるだけの、軽いキス。
「あなたが不安を感じるように、私も……あなたに触れる度に切なさを感じているんです。あなたが私を裏切ることなど、絶対にあり得ないというのに」
 ツォンの意外な言葉に、目を瞠るルーファウスだ。
「お前が……!?」
「ええ。ご存じなかったでしょうが」
「だって、お前はいつも――変わらない態度で私に接してくれて、昔から大人で。そんな風に思っているなんて、考えもしなかったよ」
「でも、事実です」
 黄金の髪を指で梳きながら、ツォンは答える。
「あなたを見つめているだけの時に感じていた切なさと、愛されていることをこうして実感できるようになってから感じる切なさとでは、いまの方が遙かに辛い。もちろん、愛される喜びは例えようもなく大きいですが……。人は、一度手にした幸福を失う苦痛には弱い生き物なのかもしれませんね」
「ツォン……」
「何て顔してるんです。――私は、あなたの前からいなくなったりしませんよ。安心して下さい」
「どうして別々の器に心が入れられているんだろう。同じなら、こんな思いはしなくてすむのにな」
「初めから一つだったら、愛する人に触れる喜びも愛する人から触れられる喜びも、こうして味わえないでしょう?」
「言いたいことはわかるけれど……それでも辛い。お前は知らないんだろうな。私が何度、朝が来るのを呪ったことか。どれほど隙間なく肌を合わせても、どんなに心を繋いでいても――時間がくれば離れなければならない。過ごした時間が素晴らしければ素晴らしいほど、別れた後の空虚さは耐え難いものになる。これじゃあ、まるで苦しむために愛し合うようなものじゃないか。それとも私だけなのか? そんな風に感じるのは」
「いいえ。だからこうして、あなたを独り占めできる時を作り出したんです。――あらゆる手を使ってね」
「全く、敵には回したくないヤツだよな」
 思わず笑い出したルーファウスを、ツォンはギュッと抱きしめた。
「あなたを手に入れるためなら、私は何でもできる――。また、ずっとそうしてきました。その青い瞳に自分だけを映していて欲しいと願う私は、何と傲慢で独占欲の強い、醜い人間なのでしょうね……」
「――少し力を緩めてくれないか。苦しいよ」
 ルーファウスの言葉に、ツォンは慌てて彼を解放する。
「申し訳ありません。つい――」
「緩めてくれとは言ったが、腕を放してくれと言った覚えはないんだがな」
 さもおかしそうに身をよじって笑っていたが、やがて再びツォンに抱きついて囁く。
「少しこのまま――こうしていてもいいか?」
「どうなさいました?」
「幸せ過ぎて、不安なんだ。これは夢じゃないよな。――でも、夢でもいい。このまま時を止めてしまえるのなら」
「こうして体を抱きしめるように、あなたの心も抱きしめられたら……そう思いますよ。あなたの心に潜む孤独から、私はあなたを守りたい。その心が壊れてしまわないように」
「私がこんな風に触れたいのは、お前だけ……こんな風に触れられたいのもお前だけだ。こんなに好きなのに、私は……どうしたらいいのかわからない。愛し方が、わからないんだ……」
「その気持ちだけで、十分ですよ。こうして生きてこの世にいて下さるだけで、この腕の中にいて下さるだけで――。私があなたを愛したのは、あなたが私を愛して下さったからじゃない。見返りなど、求めてはいなかった。この思いを、死んでも打ち明けるつもりはなかったんです。それが――。夜空に輝く星を掴めないように、吹き渡る風を捕らえられないように、決して手には入れられないと思っていたあなたが、私だけを見つめてくれる。これ以上、望むことなどありません。愛しいルーファウス――」
「ツォン……。人の命さえ売り買いされるミッドガルが、全ての物に値札をつけていくシステムを作り上げたオヤジとその世界が、私は大嫌いだった。残酷な現実を見据えること、そして私を縛る鎖をほどく方法を教えてくれたのはお前だ。羽に糸が絡まったまま飛ぼうとして羽ばたいて、傷ついて血を流していた鳥も同然の私を、お前だけは笑わないでくれたろう? ――お前と一緒なら、私はいつまでもどこまでも歩いて行ける。何でもできそうな気がするよ。本当に大切な物は何なのか。それを見失わないで生きていける気がする。お前のことを思う度、お前に触れる度に感じる胸の中に湧き起こる暖かな感情。これを愛と呼ぶのなら、私はお前を愛してる――」
 どちらからともなく、唇が重ね合わせられる。
 二人の行為を邪魔する物は、ここには存在しない。長くて短い夜が、更けていった――。