2.

 満たされきって安らかな寝息を立てているルーファウスの目にかかった前髪を、ツォンはそっとかき上げた。
 羽毛のようなその感触に、ルーファウスが目の前から露のようにはかなく消えてしまいそうな不安に駆られて、思わずぎゅっと抱きしめる。だが、ルーファウスはすやすやと眠ったまま意識を取り戻す気配はない。
 二人が身体を重ねるようになって、まだ日が浅い。ルーファウスの華奢な身体は、いまのところツォンの求めにこたえるだけで精一杯のようだった。
 人前では決して肌を見せない彼が、こうしてしどけない姿を晒して眠っている――。つい少し前までなら、考えられないことである。
 目も眩むほど白い裸身にしばし見入ったあと、寝具をかけ直してやるツォンだった。
「ずい分無理なさってましたからね。お疲れでしょう――」
 ここ二週間ほどのルーファウスの仕事ぶりを思い出し、微笑が浮かぶ。
 何としても休暇を取る。他人に不審を抱かせず、公明正大に長期休暇を。しかも、自分と同じ時に……。
 そう決意してからのルーファウスの行動は、徹底していた。まずは役員が率先して休暇を取得する必要性を、データで裏付けなければならない。いい迷惑を被ったのは人事課だ。有給休暇の消化率、超過勤務の実態についての状況報告、労働災害の発生件数と、果ては医務室の利用状況まで調べさせられたと聞く。
「今日は、健康と家庭を考える日です。皆様、定時退社にご理解とご協力をお願いいたします」
 そんなアナウンスが流れる中、人事課の面々は我が身の不運を呪っていたらしい。
 副社長のおかげで、ご理解しててもご協力できないってーの! と。
 しかし、どんなに夜遅くなろうとも資料を提出しに副社長室へ行くと、ルーファウスが書類と格闘しているのを目の当たりにして、不平はいつの間にか立ち消えとなった。やがて。
「おい、聞いたか? 今度の役員会議の議題」
「ああ。副社長が提案するんだろう? まあ、俺達にとっちゃいい話だよな」
「休みが増えて文句を言うサラリーマンは、いないよな」
「でも、他の企業はあまりいい顔してないみたいだぜ? ――神羅がリフレッシュ休暇を導入したら、後追いせざるを得ないだろう。プレジデントにずい分あったらしいぞ、問い合わせ。広報課のヤツから聞いたんだけどな」
「何で会議の前から?」
「神羅新聞の取材。ありゃ意図的にリークしたんだな。坊っちゃんだと思ってたけど、どうして。なかなかやることがあざといじゃないか」
「役員で味方してくれそうなのは例によって都市開発部長くらいだから、一般社員を味方に付けようってわけか」
「そういうこと!」
 そんなルーファウスに、プレジデントは意外にも上機嫌だった。相手を内部から切り崩し、自分の地盤を築き上げる。まだ力を十分に得ているわけではない自分の立場を、よくわかっているじゃないか。私があれなら、同じ事をするだろうよ。そもそも乗っ取りというのは、家臣団から推戴されて行う裾野の広いものでなければ成功しないものだ。さすがに、あれはそのあたりのことを承知しているらしいな。またそうでなければ、神羅を切り回していくことなどできはせんが――。
 そう言って笑っていたものだ。聞かされている自分とリーブ部長は、冷や汗をかいていたのだが。それもプレジデントにはお見通し、ということなのだろう。
「しかし、一つわからんことがある」
 葉巻に火を点けながら、プレジデントは薄笑いを浮かべた。
「よりによって、何故この時期に? ――何か知っているかね、ツォン」
 この方は、何もかもご存じなのだ。知っていて、仕掛けられたゲームを楽しんでいる。何という余裕なのか。
 この狡猾で抜け目のない、抜群の政治力を誇るプレジデントに、ルーファウス様は絶望的な戦いを挑まなくてはならないのか。――ハンデが有りすぎる。まともに渡り合ったら、キーヤ様の二の舞だ。きっと心が壊れてしまう。
「いいえ。私は、あの方を警護するのが仕事です。それ以外のことは存じません」
「ふん。では、しっかりと守ってやることだな。悪い虫がつかないように。ハッハッハ……!」
 その瞬間、リーブ部長の刺すような視線を感じた。いつかはわかることだと思っていたが。話さなくてはならないとも思っていたのだが――こんな早くにとは。
 心の準備が、全くできていなかった。心拍数が上がる。プレジデントの前から下がると案の定、腕を掴まれた。
「――話がある。内容は、もう察しがついていると思うが」
「どこでお話したらいいでしょうか」
「今晩、お前のところに行く。――それでいいだろう?」
「わかりました。では、またあとで」
 とは言ったものの、何をどう話せばいいのだろう。リーブ部長の心情を考えると、思いは千々に乱れた。
 その日は、全く仕事が手につかなかった。

 夜になって、約束通りリーブ部長がコンドミニアムを訪れた。
 部屋に入ってからも、椅子に座ったまま黙り込んでいる。私の方が沈黙に耐えられなくなって、口を開く。
「言い訳はしませんし、後悔もしていません。ただ、あなたには――そうなったことを自分で伝えたかった」
「私は、責めるつもりはない。あの方が拒めば、それまでだからな。つまり、そういうことなんだろう。ただな……何というか、ショックでな……。いや、うすうす感じてはいたんだが。ここのところ、急に眩しいほど綺麗になられたからな。デスクから上目遣いで書類を渡された時、あまり艶やかなんで思わずドキッとしたほどだ。いい年した、この私がな」
「部長……」
「私は、あの方が幸せならそれでいい。あの方は、キーヤ様じゃない。わかっているつもりだ……」
 リーブ部長は振り絞るようにしてそれだけを言うと、大きく息を吐き出した。仰向いて、両手で顔を覆う。
 その様子が痛々しくて、私は部長から目を逸らした。部屋を再び沈黙が支配し始めた時だ。インターホンが鳴った。
「こんな時間に、一体誰が――?」
 思い当たる節はなかった。銃を手にして、立ち上がる。だが、聞こえてきたのは緊張してかすれているが、よく知った声だった。あわててドアを開ける。
「ルーファウス様! どうして――」
「……迷惑だったか?」
 不安そうにこちらをうかがっている。頼りなげなその表情に、見ているこちらの胸が締め付けられそうだ。
「そう思いますか?」
「会いたかったんだ。……とても」
 泣き濡れたような青い瞳に見つめられて、理性が陽の光を浴びた朝露のようにはかなく消えていく。思わず抱きしめたくなるのを、必死でこらえなければならなかった。
「とにかく、中へどうぞ。――いまリーブ部長がいらしてるんですよ」
「――!」
 ひどく動揺している。無理もない。部長は、ルーファウス様にとって父親も同然なのだから。
 蒼白な顔。罪の意識に苛まれたのか、目を伏せる。
「何て言えばいい……? どんな顔して会えっていうんだ」
 そのまま背を向けて帰ろうとしたところを、部長の声にその場に凍り付く。
「私は、怒っていませんよ。いままで黙っていらしたのには、少し気分を害してますけどね。そんなところで立ち話してないで、お入りなさい」
 思いの外、優しい声だった。伏せていた顔が、おずおずと上げられる。さまよう視線を受け止めて、部長は穏やかに微笑む。
 ――そして、ドアが閉じられた。
「そんな顔しないで下さいよ。私は、怒っていないと言ったでしょう?」
 ルーファウス様にソファをすすめながら、私に紅茶をいれるように言う。私がキッチンでお茶をいれる準備をしている間、静かに諭している部長の低い声と、どうして自分を責めないのかと問うルーファウス様の昂ぶった声とが交互に聞こえてきた。やがて、ひときわ高い声が響いた。
「何故お前は微笑んでいられるんだ!? ――私は、お前の信頼を裏切ったんだぞ!」
「ええ。よくおわかりでいらっしゃる。ですが――。では、私が『しっかりした良家の女性と結婚して、早く跡継ぎを。あなたの後にも同じ世が続くのだという、目に見える保証を』と望んだら、あなたはそれを聞き入れて下さいますか?」
「それは――できない。私は、オヤジのしでかした間違いを見て育った。愛のない結婚で、お母様がどれほど苦しんでいたか。同じ思いは、もう誰にもさせたくない」
「無理なことは、初めからお願いしませんよ。あなたを責めても、仕方ない。――本気なのでしょう、ツォンのこと」
「……どうしようもないんだ。ある日、気づいてしまった――それでも、何度も何度も否定して。『そんなはずない。そんなこと、あるわけがない』って。でも、一度気づいた自分の心に、ウソはつけない。他の誰かに、こんな思いは味わわない。――あいつじゃなきゃ、ダメなんだ。代わりなんていないんだよ」
 こんなストレートな告白は、初めてだった。初めて自分に身を委ねた時でさえ、これほど素直には心情を吐露しなかったというのに。
 物心ついてから、いかにこの方が部長の期待に応えようと努力してきたかが痛いほどわかった。
「そこまで思われているものを、私がどうこう言う筋合いはありませんよ。ただ、淋しかっただけです。――あなたが私の手から離れていくのが」
「リーブ……」
「あなたはいつまでも子供ではないんです。もう立派な大人だ……その判断に対して、とやかくは言いませんよ」
「ごめん……でも、どうしようもないんだ。細胞の一つ一つが、叫んでる。あいつのこと『愛してる』って」
 いまこの瞬間、死んでもいいと思った。思わず、手にしたティーカップが震えてカチャン、と音を立てた。
「――どうやら、お茶が入ったらしい。さあ、泣き出しそうな顔はやめにして下さい。この話は、二度と蒸し返しませんから」
 私が紅茶を注ぐと、部長はおいしそうに一口飲んでこう告げた。
「そういえば、今度の議題……聞きましたよ。通るかどうかはともかくとして、いいことをお考えになられましたね。取材をうまく利用なさったようで。見事な根回しでしたね」
 ルーファウス様は、うつむいている。部長は黙って紅茶を飲んでいたが、やがて立ち上がった。
「私は、あなたのことが可愛い。昔も今も、それは変わりません。そして、あなたに可能な限り協力したいと思っています。――たとえプレジデントに逆らうことになっても」
「それは――」
「私は例の件、賛成票を投じますよ。さて、と。そろそろ帰ります。これ以上いたら、ツォンがご機嫌斜めになる」
「私は――ワガママだな。すまない、リーブ。お前には、いつも何かをしてもらうばかりで。私がお前にしてやれることは、ないんだな」
「そんなことはありませんよ。あなたが幸せでいること、いつも笑っていて下さることが何よりの生きる支えですから。幸福とはいえなかったあの方の分まで……あなたには、幸せでいて欲しい。そういうわけだからな、ツォン。ルーファウス様のこと、泣かせるような真似をしたら承知しないぞ。――わかったな?」
 部長が帰ったあと、ルーファウス様は泣いて泣いて――それは大変だった。
 予想通り、役員会議でルーファウス様の提案は否決されたのだが、プレジデントは全くの反対というわけではなかった。いまは時期尚早だとして保留する、というのが彼の結論だった。
 ルーファウス様にしたところで、初めから通るとは思っていない。これで長期休暇を取ることができる上、社内の改革派の支持を得たのだから……一石二鳥というわけだった。
 転んでも、ただでは起きない。そういう所は、実はプレジデントによく似ている気がするのだが。言ったら、頭から湯気を出して怒りそうだ。
 夢でも見ているのか。瞼がひくひくと動く。口元が、笑っている。
「いい夢をご覧になっていらっしゃるようですね。――お休みなさい」
 私は額にそっとキスすると、荷物を片づけようと階下へ下りた。