2.

「お嬢様! いままで一体どちらにいらしていたんですか? 心配しましたよ。――おや、その帽子はどうなさいました?」
「ただいま、ばあや。ここは日射しが強いから、これ被らなきゃダメだよってくれたの」
「まさかとは思いますが……地元民の子供達と出歩いたりなさってはいないですよね?」
「あのね、聞いて! アルはとっても物知りなの。いろいろなことを教えてくれて、ちっとも退屈しないの。スゴイでしょ?」
「――お嬢様。何度言えばわかるんです? お嬢様は、他の子供達とは違うんですよ。お嬢様の身に何かあれば、お父様がどれほど悲しまれることか。お願いですから、軽はずみな真似はなさらないで下さいまし」
「ねえ、ばあや。わたし、アルともっとお話したいの。一緒に遊んじゃダメ?」
「キーヤお嬢様!」
「初めてできた『お友達』なんだもの。もっと仲良くしたいの」
「いいですか。人にはわきまえるべき分というものがあります。お嬢様とそこらの子供とでは、身分が違うんですよ。属する世界が違う者同士が付き合うのは、お互いのためになりません。お嬢様がお友達に選んでいいのは、同じ階級の子供だけです」
「向こうで断ってくれたみたいだけど?」
 この言葉に、乳母の顔から血の気が引く。とっさに言葉に詰まる乳母に、キーヤは熱っぽく懇願する。
「お願いよ。素性がわかってもわたしに普通に接してくれたの、アルが初めてなの。絶対ヘンな人じゃないからっ! 会えばばあやもわかってくれるわ」
「ですが……」
 色良い返事をしない乳母に、キーヤはひどくがっかりした様子で口をつぐみ、それ以上は何も言わずに自分の部屋へと歩き出す。その後、夕食の時間になってもキーヤは食堂に姿を現さなかった。乳母はやれやれと首を振り、部屋へ呼びに行く。
「キーヤお嬢様? お夕食の時間ですよ。――お嬢様?」
 ドアをノックしても返事がない。シンと静まり返っているのが気がかりで、そのままドアを開ける。
 キーヤは着替えもせずにベッドに横たわったまま、泣き疲れて眠っていた。大切そうに握りしめた指からは、色とりどりの貝殻がこぼれている。中でもお気に入りなのは巻き貝らしく、これだけは眠っていてもギュッと掴んだまま離さなかった。
「……まあ」
 絶句していた乳母だが、すぐに我に返るとそっと貝を片づけ、キーヤを着替えさせて寝かせ直してやった。
 フワリと掛け布団をかけてやりながら、乳母は警備の責任者に会って話をしなければ、と考えていた。

 翌日。アルはいつものように漁網を繕う手伝いをしようと浜へ出かけた。現金での小遣い稼ぎには不向きな仕事だが、とりたての魚が手間賃代わりにもらえるため、これはこれなりにありがたいアルバイトといえた。
 鼻歌混じりで作業をするアルの前に、突然黒服の男達が現れた。
「君がアルフォンソ君か?」
「せやけど……あんた何モンや?」
「キーヤ様を知っているな?」
「昨日一緒に遊んだ子やな。勝手に抜け出してきた、っていうからそれはアカンで。みんなが心配するやろ? って言ったんや。そしたら大人しくうなずいていたけどなー?」
「――わかっているなら、話が早い。我々と一緒に来てもらおうか」
「これ、まだ途中やさかい。終わってからじゃダメやろか?」
 すると、頭が痛い……と言いたげに、黒服の男達のリーダーとおぼしき者が額に手を当て、低く呻いた。
「魚の網など、後にしろ。あの方をお待たせするな」
 有無を言わさぬ男の迫力に、アルは仕方なく漁師に事情を話す。
 漁師は快くアルが仕事を途中で放棄するのを許してくれ、おまけに手間賃代わりの魚は家に届けておいてやろう、とまで言ってくれた。
「えろうすんまへん。今度はちゃんと働くさかい、カンニンな」
 ぺこりと頭を下げ、黒服の集団に囲まれて去っていくアル。噂は瞬く間に島の人間へ広がっていった。

「入りたまえ。くれぐれも、粗相のないようにな」
 評判の豪奢な別荘の中に足を踏み入れてからというもの、アルは視線をさ迷わせっぱなしだった。
 磨き抜かれた床は大理石。屈み込んだら、顔が映りそうだ。邸内のあちらこちらに飾られた花は、花粉がキーヤの発作の引き金になってはいけないと、注意深くおしべが摘み取られている。別荘の周囲も、雑草一本生えてはならぬとでも言うように整然と手入れされていた。
 花壇には園芸種の美しい花々が艶やかに咲き乱れ、庭園は人工美の極致を示していた。樹木すら、ここでは何らかの形に刈り込まれている。
 それを見て目を丸くするアルに、黒服のリーダーはおかしそうに笑った。
「トピアリーというんだ。見るのは初めてか?」
 ぶんぶんと首を縦に振るアル。彼にとって、この邸の中は異次元の世界だった。
 門にはインターホン、周囲の塀には高圧電流。黒服達は無線で連絡を取り合い、邸の中にいる者同士が連絡を取るのに電話を使うなど――。
 キーヤの私室に通される前、既に十分過ぎるほど住む世界が違うのだと思い知らされた。部屋に入ると、キーヤの乳母だという女性が現れた。
「そう、あなたが――」
 と言ったまま、アルをしげしげと見る。
「あのー、何やヘンなモンでも顔に付いてまっか?」
「ああ、ごめんなさいね。そう……ね。あなたは……大丈夫のようね。申し遅れました。私はメアリ・バートン。ようこそ、アルフォンソ・リーブ君。私のことはミセス・バートンで結構です」
「あ、どうも。自分のことはアルでええ。みんなそう呼んでるさかい」
「そう。では、アル。せっかく来てくれたのに、残念ねえ。いま、キーヤ様は眠っていらっしゃるの。実は昨日の夜中、かなり激しい発作を起こされてね。一晩中眠れなかったのよ。それで、疲れてしまわれて」
「それって、昨日引きずり回して疲れさせたから……?」
 不安な表情をするアルに、ミセス・バートンは微笑んでみせる。
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。ストレスが原因ね」
「ストレス?」
「要するに、自分の言いたいことを我慢し過ぎてしまわれたのね。あなたと遊びたいって、それは熱心に頼まれたのよ。それが、私があまりいい顔をしなかったものだから……。もうあなたには会えないかもしれない、と思われたのね。夕食もとらずに泣き疲れて眠っていらしたのだけれど、夜中に目を覚まされてね。あなたと自由に話ができるようになりたいと、また懇願されたの。警備責任者の意見も聞かなければなりませんし、私の一存では決められないのですよ、と申し上げたら――発作を起こされてね。お医者様の話では、心理性ヒステリーからくる発作だろうと」
「ヒステリーって、あの……」
 言い淀み、もじもじとするアルをミセス・バートンはおかしそうに眺めている。
「女性がイライラして金切り声を上げる方じゃなくて、心の中の行き場のないモヤモヤが喘息の症状を引き起こした。それを医学用語で言うとそうなるらしいわね」
 モゾモゾと音がして、キーヤが寝返りをうった。まだ起きる気配はないらしい。すやすやと眠ったままだ。
「ご覧なさい。こんなに丸くなって眠ってらっしゃるでしょ? これはね、不安や寂しさを抱えて眠りについた証拠なの。人がこうやって背を丸めた姿勢で、何の不安もなく完璧に守られて眠っていた場所――それは、お母さんのお腹の中。まだ生まれてくる前のことなのに、人はちゃんと覚えているものなのね。こういうのを本能的行動というのかしら」
「……起きるまでここにいたら、迷惑やろか」
「まあ、どうして? そんなことはないと思うわ。そういうわけで、とても会いたがっていらしたもの」
「じゃあ、ここにいる。目が覚めたら一人ぼっちじゃ、可哀想や」
「まだ大分かかりそうね。お茶にしましょう。少し待っていてね」
 部屋からミセス・バートンが出ていった後、アルは改めて室内を見回す。
 幼い少女が主とあって、絵本やおもちゃが多いのが目を引く。机の上には、家族の写真が飾られていた。
 セシリア・アースディース夫人は特別な美貌の持ち主ではなく、感じの良い人柄なのだろうと思わせる微笑みを浮かべていた。いかにも良家の奥様という雰囲気を漂わせている、栗色の髪に茶色の瞳の女性だ。
 これを見る限りでは、キーヤは父親似のようだ。もっとも、父親の方は彼女ほど見事な蜂蜜色の金髪ではないが。
 内面は優しい母親の気性を譲り受け、外見は父親似なのだとしたら。彼女が父から溺愛されるわけが、わかるような気がした。
「あれ?」
 部屋の中を眺める内に、ある物がないことにふと気づいた。普通、こういう幼い少女の部屋にはぬいぐるみがあるものだが。それに、ペットの姿も見えない。島で一人っ子の家は珍しいが、たいてい何かの動物を飼っていた。
 もちろん、兄弟のいる家でもペットを飼っている家は多いが。必ずと言っていいほど、一人っ子はペットを飼っていた。
 だが、どうやらキーヤは違うらしい。そんなことを考えていると、トレイを抱えてミセス・バートンが戻ってきた。
「お待たせ。これでキーヤ様が目を覚ませば、素敵なお茶会になるのにね。――あら。何か聞きたいことでも?」
 カップに紅茶を注ぎながら、ミセス・バートンは尋ねた。
「なあ、どうしてペットを飼わせないんや? 友達と遊べないんなら、犬か猫でも飼えばいいのに。そうすればこの子も寂しい思いをしなくてすむやろ、いまよりは……。何でや? ぬいぐるみ一つ、この部屋にはない。町でも島でも、女の子の部屋にはたいてい何かあったもんや。この部屋は、子供のいる部屋やない。こんなキレイに片づいてて、殺風景な部屋。息が詰まるのも無理ないで?」
「だんな様が、お許しにならなかったのよ」
「ホントの家じゃそうかもしれないけど、ここは別荘やろ? キーヤのしたいようにさせても、ええんちゃうか」
「――アル。一つだけわかってちょうだい。私は、いえ、この家の人はみんなキーヤ様が好きよ。あの方のためなら死ねる覚悟のある者だけが、ここに来ているの。これは本当。でもね、私達を雇っているのはキーヤ様じゃないの。だんな様なのよ。そして、私達はキーヤ様の他に自分の家族を守らなければならないの。それに、だんな様のお怒りを買えば、キーヤ様のお側にいることも叶わなくなるし。あなたがキーヤ様のことを心から心配してくれてるのはわかるのよ。でも、大人には大人の事情があるの」
「ごめんな。考えたら、それもそうや。できることだったら、とっくにそうしてるはずやな。余計な……生意気なこと言って、本当にごめんな……」
「だんな様は、奥様のことを愛してらしたわ。それに気づくのが、遅かったのね……。生きていらっしゃる間に寂しい思いをさせてしまったこと、それは後悔していらっしゃるみたいなの。それで、キーヤ様に愛情を過度に向けられていらっしゃるんでしょうが。独占欲は、愛情とは別の物なのにね」
 苦笑して、ミセス・バートンはソーサーにカップを置く。
 アルはそれを受け取りながら丸くなって眠るキーヤを見て、切ない思いに駆られるのだった。

 こうして、アルは晴れてアースディース家の別荘へ出入り自由の身となった。
 島の人々は望外の幸運を手にしたアルを羨んだ。だが、アルの態度は少しも変わらなかったので、じきに人々は彼を妬んだことを恥じるようになった。
 アースディース家のプライベートビーチで遊ぶキーヤは、たいそうご機嫌だった。監視役の見張り付きなど、生まれてからずっとのことなので気にはならないらしい。
 それよりは、外で人と遊べることの方がずっと嬉しいのだろう。いままで図鑑でしか知らなかった生き物が、本当にいる。生きて、動いている。そんなことも嬉しかったようだ。
 それに何より嬉しいのは、アルが自分と遊んでくれるのは誰かに強制されたせいではなく、彼自身の意志であるのがキーヤにもわかったことだった。
 何気ない仕草、言葉の中にそれを確信する瞬間がキーヤは大好きだった。彼女は言う。
「あのね、わたし、アルのこと大好き。お母さまも好きだったけど、もういらっしゃらないから……。お父さまも好き。ばあやも好き。アルのお母さんもお父さんも好き。みんな大好き!」
 これを聞いて、アルは嬉しいと思う。こんな愛らしい少女に好かれて、悪い気のする人間などいないだろう。だから、素直にこう答える。
「僕もキーヤのこと好きやで? だから、おあいこやな」
「ホント? ……ありがと、アル。とっても嬉しい」
 だが、少女の心には言えない言葉があることをアルは知らない。
 ――みんな好き。でもアルは違うの。特別なの。お母さまを好きなのとは何かが違うの。
 自分でもわからない感情を味わうのは、これが初めてだった。しかも、それは日を追うごとに膨らんでいく。
 一方、自分を見つめる少女の瞳に浮かぶ色が、出会った頃とは違っていることにアルは全く気づいていない。
「近くで見ると、天使みたいに可愛らしい子だねえ。アル、お嬢様に悪さするんじゃないよ」
「苛めたりしてないでー。心配しなくても、大丈夫や」
 言いたかったのは、そういうことではないのだが。
 アルの母は少々頭痛を覚えながら、その位ならかえって安心だとも思い直し、胸を撫で下ろすのだった。

index * back * next