Millennium



1.

「このところ、やけにお金持ちの別荘が増えたねぇ。まあお陰で、あたしらみたいな貧乏人も職にありつけるわけだけど。一体どうしたっていうんだか。ねえ、お父さん」
 縫い物の手を休めて、女はため息をつく。
 いま彼女が手にしているのは、夜会用のドレスだった。シルクサテンの黒のドレス。彼女自身は一生着ることのない代物だ。女は手先が器用だった。
 メイドとして働くよりもドレスメーカーとして働いた方が実入りがいいので、富裕な人々の別荘に出入りしては服の仕立ての注文を取ってくるのを生業にしていたのだ。
「都会は空気が悪いからな。――さて、これで大丈夫かな」
 男も手先が器用で、時計の修理やら電気製品の修理などで生計を立てていた。
 元々おもちゃの会社を経営していたのだが、彼は製品のアイディアを生み出すのは得意だったが、事業経営の方はさっぱりで――会社は負債を抱えて倒産した。家財道具の一切を売り払い、貯金をはたいて何とか借金は返済したものの、新たな人生を都会でやり直す気力は男には残っていなかった。
 そこで、夫婦はミディールに移り住むことにしたのだ。
 ミディールはこの世界で最も南にある町で、リゾート地として名高いコスタ・デル・ソルに比べて自然が豊かで、鄙びた保養地といった雰囲気を漂わせるのどかな所だ。いままでは暖かい南の島で余生を過ごそうという老人達が移り住むことが多かったのだが、ここ二、三年はコスタ・デル・ソルの高級別荘群にもひけを取らない瀟洒な別荘が建ち並び始めていた。
 今年に入ってからは、もう別荘建設のラッシュだ。お陰で、大工や左官屋は左うちわの好景気である。
「今度できた別荘、いやに警備が物々しいねえ。どちらの奥様がいらっしゃるんだか」
「あれか? ありゃあお前、大きな声じゃ言えんが……EE社の社長のお嬢さん用だぞ。何でも医者がここの空気が身体にいいと言ったとかで、えらい突貫工事だったってジューリオの奴がこぼしてたな」
 ジューリオというのは、大工の親方をしている男だ。夫婦がミディールに移ってきた時、何くれとなく世話をしてくれた親分肌の人情家だった。
「EE社の! 身体が弱いなんて、お気の毒だねぇ」
「ふん。自業自得さ。自分の所の工場が垂れ流す煙のせいで、娘が喘息持ちだっていうんだからな。――脱硫装置を付けたって、この間ニュースで言ってたろう? 可愛い一人娘が苦しむ姿を見なけりゃ、今頃まだ垂れ流しのままだろうさ」
「娘さんには罪はないんだ。そんな言い方可哀想だよ、お父さん」
「本当に可哀想なのは、転地療養する金も無くてヒューヒュー喉を鳴らして苦しんでいる子供達だよ。うちのアルみたいに元気なのが、親にとっちゃ一番ありがたいね」
 これには女も異存がないらしく、うんうんと首を縦に振っている。
 EE社は、電力供給を一手に引き受ける世界最大の企業である。
 全世界に散らばる事業の拠点を統括するために、早くから通信手段の研究をしていたこの企業は、いまでは世界の通信網を牛耳る巨大複合企業体になっていた。
 コレルから産出する石炭を使った火力発電、それが生み出す電気はジュノンの海沿いに工場群を発生させ、ジュノンは田舎の漁師町から急速にその姿を変貌しつつあった。
 工場は、多くの人々に職を提供した。生活の安定を約束する工場は、その一方で住民の健康に多大な被害をもたらした。効率と利益のみを追求するEE社は、深刻な大気汚染について何の措置もとらなかった。
 結果、ジュノンの街には喘息持ちの子供が溢れ、医者達は呼吸器系統の疾患ばかりを診なければならないのにため息をついていた。
「引っ越せば、それで済む話なんだがなあ」
 EE社を非難することもできず、目の前で苦しむ子供に対症療法しか施すすべがない医者達。他の土地で暮らせれば、もちろん親だってそうしたいだろう。だが、空気の良い田舎には職がない……。
 汚れた水、汚れた空気。そして、食物に添加された化学物質。近頃は子供ばかりでなく、大人の間でもアレルギー体質の者が増えていた。
 諸悪の根源ともいうべきEE社の社長には、娘が一人あるだけだった。妻は前年、EE社の企業活動に抗議するテロの犠牲となって亡くなっており、彼に再婚する気は全くなかった。仕事にかまけて家庭を顧みなかったことを愛妻の死後にようやく気づいた彼は、残された一人娘を溺愛していた。
 その、目に入れても痛くない愛娘が喘息の発作を起こして苦しむのを見て、彼は火力発電に代わるエネルギー供給の実用化に本腰を入れたのだった。幸い、代替エネルギー源となりうる物は六年前に発見されていた。
 ――魔晄。まだ物理的性質は、完全には解明されていない。
 しかし、これは「クリーン」なエネルギーだと、研究者達は口を揃えて褒めそやしていた。曰く、これが実用化された暁には、EE社は住民訴訟やテロ行為から解放されるであろう、と。
 こうした状況で、一人娘を自分の側から手放さなければならなかったのだ。EE社社長が、どれほど神経を尖らせているか。妻のようにテロで娘を失うのは、絶対に御免だった。
 ミディールに娘を滞在させることは極秘のうちに決定され、実行されたはず――だったのだが。所詮人の口に、戸は立てられなかったということか。あるいは、屋敷の警備の物々しさが逆に人目を引き付けてしまったのか。
 島の人々の間では「EE社の社長令嬢」は、いまや有名人となっていた。
 ――だが、実際に姿を見た者はいなかった。

「何しとるんや?」
 しゃがみ込んで一心不乱に小枝で砂浜をつついている幼い少女に、少年は声をかけた。瞬間、少女はビクッと身を強ばらせて顔を上げた。
 淡いピンクのワンピース、日に当たったことがあるのだろうかと思わせるほどの白い肌。フワフワしたハニーブロンドは肩のあたりで切り揃えられ、ミディールの海のように深い青色の瞳にまじまじと見つめられて、少年はドギマギする。
「あ、びっくりさせたん? もしそうならカンニンしてや」
 凍り付いたように動かない少女に、少年は慌てて手をバタバタさせながらそう言った。その様子がよほどおかしかったのだろう。少女は目を丸くしたあとプッと吹き出した。
 笑った顔はとても愛らしく、少年の鼓動はますます速くなる。真っ赤になった少年に、少女は立ち上がると自分から話しかけた。
「あなたの言葉、ヘン」
「そ、そうか?」
「この島の人達の言葉みたいだけど、アクセントとか言い回しが微妙に違うもん。あなた、ここの人じゃないでしょ?」
「へえ〜、わかるもんやなぁ」
「当たってる?」
「ピッタシや。――そういや、帽子も日傘もささんでこんな所に。ダメやでぇ、そんな色の薄い目や肌をしてるのに。ここはな、紫外線がものすごーく強いんや。あとで火ぶくれ起こしても知らんで?」
 少年は自分が被っていた麦藁帽子を、少女に被らせた。
「ちょっと大きいのは、カンベンな」
 そう言って笑うと、手を差し出して自己紹介する。
「僕はアルフォンソ。みんなはアルって呼んでる。君は?」
「わたし……」
 少女が言い淀んだので、アルは急いで付け加えた。
「あ、ちょっと馴れ馴れしかった?」
「違うの。あのね、知らない人とお話しちゃいけませんって、ばあやにそう言われたの。名前は絶対内緒ですよ、って」
「それなら、約束は守らへんとなあ」
 大真面目な顔でうなずくアルに、少女はしばしの間俯いて沈黙していたが、やがて顔を上げると輝く笑顔で首を振った。
「でも、あなたはいい人みたいだから。特別よ? お願いだから、誰にも教えないでね」
 そして、アルの耳元で名乗る。アルは特に態度を変えるでもなく、少女に向かって笑いかける。
「キーヤかぁ。何や、えらい変わった名前やなぁ。北の方の響きがするけど、どこから来たん?」
 この言葉に、少女は目をぱちくりさせている。
「……知らないの?」
「えっ?」
「――いいの。何でもない!」
 ひどく嬉しそうに笑うとアルの手を握ってしゃがみ込ませ、あのね、あのね、とはしゃいでいる。
 砂浜に空いた穴をつつき、片方だけハサミが大きい蟹が出てきてはハサミを振り上げるのが面白いと言って笑い転げるキーヤに、アルは驚く。
「何や、シオマネキも見たことないんか!?」
「シオマネキ? それがこの名前なの?」
「巣にじっとしとるとこ叩き起こされたら、蟹だってかなわんわ。そんな気の毒なこと、やめとき」
 アルは首を振ると、キーヤを立たせた。あれが巣だなんて、知らなかったの。……ごめんなさい。
 しゅんとするキーヤに、アルはしどろもどろになる。
「い、いや、そんな。何も謝らへんでも」
 砂浜に目を落としたままうなだれているキーヤに、ごめんな、知らなかったんだから悪いことしたわけじゃないで。な、機嫌直してや、と懸命に語りかける。
 それでも顔を上げようとしないキーヤに、そうだ! と手を叩く。
「なあ、生きてる魚なんて見たことないやろ?」
 コクンとうなずくキーヤの手を取って、アルは駆け出す。いいもん見せたる! こっちや! と言ってキーヤを引っ張って走り出そうとするアルに、キーヤが叫んだ。
「お願い、待って! 急に走り出さないで。わたし――」
「どうかしたん?」
「走るの、苦手なの。ここは空気がキレイで冬でも暖かいから大丈夫、って先生は言ってたけど……。発作を起こすと、苦しいから。それに、もう外へ出してもらえなくなっちゃう」
 いまにも泣きそうな表情になるキーヤに、アルは頭をポリポリと掻いて謝る。
「発作って……病気の療養でミディールに来たんやな。知らなくて、ごめんな」
「――ぜんそく持ちなの、わたし。一度発作を起こすと、おさまるまで大変なの。カゼをひくと必ず気管支炎起こすし。お医者さまに診てもらうか、お薬を飲んでいるか。いつもそんな風だから……それじゃいけないよって、お医者さまが」
「かわいそうになあ。そんなんじゃ、友達と鬼ごっこもできへんなあ」
「――わたし、お友達いないの」
 淡々と答えるキーヤに、アルの方が驚く。だが、キーヤは意に介していないようだ。言葉をこう続けた。
「お父さまは、大勢の人のために一生懸命働いていらっしゃるの。だから、一緒に遊んで下さらなくても恨んではだめ。わたし達のことで気を遣わせてはだめ。おうちにいらっしゃる時には、わたし達がお父さまの安らぎになれるようにしましょうね。――お母さまは、いつもそうおっしゃってたの。お父さまのこと、わたし達は誇りに思わなくてはいけないわ、って。それなのに、お母さまはお父さまの身代わりに」
 ポロポロと涙をこぼすキーヤに、アルはおろおろするばかりだ。
 マズイこと言ってしまったんかいな……。
 そう後悔しても、後の祭り。キーヤは泣きやみそうにない。
「セシリアお母さま……かわいそう。あんなにお父さまのこと好きでいらしたのに。いつもキレイな服を着て、いつお父さまがお帰りになってもいいように、すぐにお茶の支度ができるように準備して、ずっと待っていらしたのに。お父さまが出席されるはずだった式典に、急に代理で行かれただけなのに。――テロリストが、爆弾を」
 瞬間、あっと思うアルだった。最近、島で噂になっているEE社の社長令嬢。もしや、キーヤがそうなのでは?
 確かEE社の社長夫人は、昨年テロリズムの犠牲となっていたはずだ。まだ幼い娘が一人いたと聞く。
 EE社の本拠地ジュノンでは、喘息に苦しむ子供達を持つ住民がEE社を提訴して、つい最近脱硫装置を付けさせるのに成功してはいなかったか?
 そして、キーヤは喘息持ちだ……。
「お母さま、最期に言われた言葉は『あなたでなくて本当に良かった』だったって――。それで、お父さまはわたしがお母さまのようにならないために、おうちから外に出しては下さらなくなったの。おもちゃも本も、欲しい物は何でも買って下さるわ。でも、お友達を作るのだけは許して下さらなかったの……」
「何でや。同じような金持ちの家の子とも、付き合っちゃいけないんか?」
「――テロのターゲットにされてるような危ない子供と、大切なうちの子とを遊ばせるわけにはいきません、って。みんなから断られちゃったんですって。ばあやが執事に泣きながら話しているのを、わたし、聞いちゃったの」
 ようやく泣きやんだキーヤ。だが、まだ鼻をくしゅくしゅ言わせている。
 そんな様子を見ていると、アルの胸はズキンと痛む。みんなが一緒になって遊びたがるような可愛い子なのに。家の中でただ一人、ベッドで本を読んでは日々を過ごしてきたというのか。――切なすぎる話だった。
「なあ、友達にならへんか?」
「えっ!?」
 突然そう言われて、キーヤは目を丸くする。だが、アルの表情は真剣だった。
「いままでいなかったのは、しょうがないことや。でも、これから作ればええやないか。僕が第一号や! ――な?」
「お友達……なってくれるの?」
「もうなってる。――そう言ったら、自惚れてる! って怒られるんかな?」
「……ううん……そんなことない。そんなことないわ」
「じゃあ、決まりや! 僕はキーヤの友達第一号。よろしくな!」
「ありがとう……アル。嬉しい」
 はにかんでそっと差し出した右手を掴んで、アルは笑いながら言う。
 友達になった記念に、魚捕ってあげる。この辺は色のキレイな魚が多いんや、ビックリするでー?
 そして、キーヤの手を引いて歩き始めた。キーヤの笑顔を見て、お日様みたいな子や……とアルは思うのだった。

「――なあ、女の子って、砂糖菓子みたいやな」
 夕食時に急にそんなことを言い出す息子に、父親と母親は驚いて顔を見合わせる。
「何だ、いきなり。好きな子でもできたのか?」
「そ、そんなんじゃないっ。そんなんじゃ……。都会から療養に来てる子がいてな、海の生き物のことなんも知らんで。磯場に行ったらフナムシ見て泣き出したんや。怖い! ってしがみつかれて……。その時、ええ匂いがしたなぁと思っただけや」
 ギュッと抱きしめたら、壊れてしまいそうな錯覚を覚えた。恐る恐る撫でた髪の柔らかな感触は、まだ掌にも指先にも残っている。
 服の淡いピンク色と、目に焼き付いて離れない髪の蜂蜜色と、肌のミルク色。その色合いと幼い子供特有の甘い匂いとが相まって、そんなことを思ったのかもしれない。
 だが、何よりも印象的なのはその大きな青い瞳だった。
 雲一つ無いミディールの夏空よりも青く、海よりも深い色合いの瞳は、この世を突き抜けて星々の彼方を見つめているかのように、何を見ているのか捕らえ所が無い。
 例えるなら、宇宙に向かって開かれた窓。目の前の自分に、果たして焦点が合っているのだろうか。時々そんな風にも感じた。
 それほどに、少女の瞳は美しかった。人のものとは思えぬ位、澄み切っていて。
「――天窓って、あのことを言うんかなあ」
 ぼんやりとして、機械的に手と口を動かすアル。
 息子の身に、何が起きたのか。両親ははかりかねて、ただ首を傾げるしかなかった。

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