3.

 数か月が経ち、キーヤは滅多に発作を起こさなくなった。基礎体力がずい分ついたと、主治医も満足そうだ。
 誰よりも、本人がそれは一番よく感じているだろう。遊んでいても、あまり疲れなくなった。走っても、息が苦しくならない。前は笑い転げるうちに発作を起こすこともあった位だが、いまはそんなことも無くなった。
 愛娘が自分から離れて暮らす間にこのように生き生きとしてきたことを聞いたEE社社長は、少々複雑な心境だった。もちろん、ミディールの環境が身体に良かったのだということはわかる。
 だが、主治医は彼にそれだけではないようだ――とも告げていた。
「ミスター・アースディース。あなたはお嬢さんを可愛がる余り、お嬢さんから自発的な意志を奪い去るような過保護な面をお持ちですな」
 主治医曰く、それでは治る病気も治らないのだと。
「とにかく、以前とは目の輝きが全然違う。一度お会いになって、どれほどの変化がお嬢さんにあったのか。それをご自分の目で確かめられることです」
 自分がミディールに赴くのは、人目を惹きすぎる。島内では、いまや公然の秘密らしいが……幸い島民達はキーヤに好感を抱いており、娘はミディールで伸び伸びとした生活を送ることができていることに、EE社社長は大層満足していた。
 自分がそれを乱すことは避けたかったので、少々長旅になるが、キーヤをジュノンに一度呼び戻すことを彼は決意した。
 返事を出す暇は無かったが、キーヤからの手紙は全て目を通していた。それを読んで気になることが、彼にはただ一つある。
 毎日のように寄越す手紙の中に、その名が出ない日は無いのではあるまいかというほど頻繁に登場する少年がいた。
 ――アルだ。秘書を通じて身元を調べさせたが、特に不審を感じるような所は無かった。別荘の人間達の評判もいい。
 何より、キーヤが懇願したのだ。長い船旅は退屈で、お友達がいなければジュノンへ行くのは嫌だと。
 こうして、アルはキーヤに同行してEE社の本社があるジュノンへと旅立った。それは、彼の運命の輪が回り始めた瞬間だった――。

「うわぁっ……! スゴイもんやなあ。広すぎて、迷子になりそうや」
 ジュノンはEE社のお膝元であり、ただの都市ではなかった。
 コレルから産出する石炭の集積地であり、発電所が建ち並び、工場が所狭しとひしめく一大工業都市だった。
 街は居住地区と工場地区とに整然と区画されており、EE社が進出する前は鄙びた漁港があったに過ぎない村の面影は、いまや全く残されていない。
 目に見ることはできないが、この街の大気は工場や発電所から立ち上る二酸化窒素に毒されており、それは脱硫装置が煙突に取り付けられた後も変わっていなかった。
 長年に渡って汚染されてきた空気は、そう簡単に浄化されなかったのである。
 元来避寒地だっただけあって、ジュノンの冬は厳しいものではなかった。大気汚染が深刻になる前は、ここで冬を過ごす富裕な人々の別荘があった位だ。
 アースディース家の邸宅も、そうした区画の中にあった。
 キーヤに言わせると「ここよりミディールのおうちの方が好き」とのことだが――それも無理はないと思うアルだった。
 総大理石の、外装も内装も贅を凝らした華麗な館なのだが人の温かみには欠ける雰囲気で、幼い少女には自分が押し潰されそうに感じられるらしい。
 家族の団欒のために存在するというより、発展し続けるEE社の栄光の具現として存在する建造物。アースディース家の本宅は、そんな趣きを漂わせていた。
 だが、邸宅以上に街には重苦しい雰囲気が漂っている。多発する抗議行動やテロに対抗して、EE社は傭兵を雇って重要施設の警備や居住地区の巡回に当たらせたのだった。
 発電所が爆破でもされようものなら、たちまちその火災は工場群を巻き込んで延焼するだろう。そうなれば、街中が火の海と化してしまう。
 EE社社長のとった措置は少々強引かもしれないが、街の保安という面からは妥当なものと言えた。
 しかし、住民達にしてみれば――街の警察を凌ぐ武装をした兵士が、我が物顔で歩き回っているのだ。不満を表立って口にすることができないだけに、鬱屈した思いが募るのだろう。人々の表情は暗く、街には活気が無かった。
 それは、少年アルもひしひしと感じていた。とはいえ、多忙な身でありながら自ら街や工場を案内して回るEE社社長に対して、ズケズケと物を言うことはできなかった。
 世界一の大企業の社長というから、さぞ傲慢で鼻持ちならない人物なのだろうと思っていたら。
 ――キーヤと一緒にいる時の彼は周囲の人々を魅了せずにはおかない、古くから続く名門の出らしい教養人だった。
 その声は耳に快く語尾は明瞭で、会話は話題が広い上にウィットに富んでおり、彼と話していて飽きるということが無い。
 決して派手な服装ではないが、その仕立ての良いスーツやシャツの布地はどれも極上品で、わかる者にはわかる、といった類の贅沢をしている。成り上がり者では、こういう余裕は持てないだろう。
 まさしく、彼は支配者たるべく生まれてきたのだろう。そして、人を支配することに何の疑問も感じていないのだ。
 アルはそんなキーヤの父に、悪感情を抱けなかった。むしろ、好感すら覚えていた。
 EE社社長の方でもそれがわかるらしく、初めは娘の側に置いておいて大丈夫な人間なのかと探るような目でアルを眺めていたのだが、いつの間にかキーヤよりアルと話をしている方が多くなったほどだ。
「お父さま、ダメよ。アルはわたしのお友達なんだから。わたしが見つけたのよ? わたしから取っちゃうなんて、そんなのヒドイわ」
 精一杯の抗議をするキーヤに、EE社社長は優しく笑いかける。
「お前はアルフォンソ君にずっと側にいて欲しいのかい?」
 力強く首を縦に振る娘に、彼はやれやれとおどけて見せる。
「娘はこう言っているが、君は迷惑なんじゃないのかね。うん?」
「そんなことは無いです」
 恥ずかしそうに顔を赤くしたアルを見て、EE社社長は納得した様子でそうか、と頷く。一方、キーヤの方は勝ち誇った表情でアルの腕にしがみついて、父親に宣言する。
「アルはわたしの物なのっ。でも、お父さまにも貸して差しあげる。……時々よ? ずっとなんて、絶対イヤ」
「おやおや。うちのお姫様は、暴君だな。これじゃ君も苦労するねえ」
 穏やかに笑うEE社社長だったが、彼の目は笑ってはいなかった。

 アルがジュノンに来て数日が経った。初めは目を丸くしていたアルだが毎日出歩く内に街の地理に詳しくなり、自由に外出できないキーヤより、今ではジュノン通となっていた。
 キーヤを屋敷に一人にするのは可哀想なので、朝早い時間に出かけて遅くとも昼までには戻るようにしていたのだが、発電所を初めとして街にはアルの気を惹く物が数多く存在し、その帰宅時間は段々遅くなっていた。
「まぁだ?」
 ミディールから持ってきたおもちゃで遊ぶキーヤが、ミセス・バートンに尋ねた。
 今朝から一体、これで何度目だろうか。時刻はもうじき午後一時になろうとしていたが、アルが戻るのを待って一緒に昼食をとるのだと言ってきかないキーヤに、ミセス・バートンはほとほと困っていた。
 普段は自分の感情を外に出さない分、一度ヘソを曲げたりこうと思い込むと梃子でも動かない。そんな頑固な一面が、キーヤにはあった。
 厳しく躾られて影を潜めてはいるが、その本来の気質はあまのじゃくだった。旺盛な反抗精神とエネルギーを向ける対象が無いため、人はそれに気づかなかったが――。
「キーヤ様、このままお食事をなさらなかったらお茶の時間になってしまいますわ。これだけ待ったのですもの、アルも気を悪くしたりはしませんよ」
 ミセス・バートンの言葉は正論なのだが、それはどうやらキーヤのお気に召さないらしい。プンと膨れて横を向き、手にした人形に話しかける。
 おなかを押したり頭のリボンを押したりすると簡単な言葉を喋る仕掛けになっているその人形は、アルがキーヤのために作ってくれた物だった。
 当然のことながら、それはキーヤの大のお気に入りで、どこへ行くのにも持ち歩いていたのだ。
 ちなみに、名前は亡き母セシリアの愛称をとってセシィと名付けている。同性の友人がいないキーヤにとって、セシィは大切な「お友達」なのだった。
「セシィもまだおなかすいてないって言ってるもん。だから、待つの」
 こうなると、もうお手上げだ。ミセス・バートンはわかりましたとため息をつき、アルの行きそうな場所へ連絡をするために出ていった。
 部屋に一人残されたキーヤは、セシィに話しかけて退屈を紛らわせる。
 母が生きていた時も、キーヤは部屋で一人でいることが多かった。こうした事には慣れていた。――はずなのだが。
「……アル、どこへ行っちゃったの? わたしを一人にしないで。独りぼっちになるのは……もう…イヤ」
 ぽたぽたと涙が落ちた。母のセシリアが忙しかったのは、キーヤにもよくわかっていた。
 何かと敵を作りやすい立場の父に代わり、館に人を招いては接待をしていたからだ。あるいは、そうした接待のお返しにセシリアの方が招かれることもしばしばあった。
 大人同士の付き合いに幼いキーヤを連れ歩くことを、セシリアは嫌っていた。彼女自身は厳格なモラルの持ち主だったが上流社会の人々全てがそうではないこと、いや、むしろ堕落していることをよく知っていたからだ。
 セシリアの出自は最上流の部類に属していたが、その気質は極めて小市民的で健全なものだった。正にそうした点が、夫が彼女を愛してやまなかった所以なのだが。必然的に娘は過保護になるだろう。
 だが、周りから見れば過保護でも、キーヤ自身がそう感じているかと言えば――そうでもなかったろう。逆に、放任されていると感じていたかもしれない。
「うちのお姫様は本当に手のかからない、いい子だ」
 目を細める父親が、何度そう言って褒めてくれたことか。両親だけが自分の世界の全てである幼い子供は、まるで魔法にかけられたかのようにその言葉に縛られてしまう。
 ――いい子にしていれば、お母さまやお父さまに嫌われない。頭を撫でて褒めてくれる。抱っこしてくれる。
 だから、大人しくいい子にしていなくちゃダメ。忙しいお父さまを困らせてはダメ。お母さまを疲れさせてはダメ。
 寂しくても、我慢しなくちゃ。ばあやはわたしの面倒を見るために、自分の子供と一緒に暮らせないんだから。
 いつも笑っていなきゃ。笑えなくても、泣いたりしちゃダメ。そんなの、みんなが心配しちゃうから……。
 こうして、いままでは必死になって自己統制をしてきたのだ。それが幼い少女にとってどれほどの重荷だったか。
「そんな肩肘張らなくてもええでー?」
 自分の本当の姿に気づいて、物心がついた時からの呪縛を解き放ってくれたのは、アルだけだったのだ。
 百年の間眠り続けた姫君を、立ち塞がる茨の生け垣をも物ともせずに救い出す王子。
 キーヤは大好きなお伽話「いばら姫」の王子と姫君に、アルと自分を仮託しているのだった。
 お伽話の最後は「二人はいつまでも幸せに暮らしました」で終わるのだが、現実は違う――。その事が理解できるほど、まだキーヤは大人ではなかった。
 だが、アルを見る父の目に、未来への漠然とした不安を感じ始めていた。
「……アルをここへ連れて来たの、間違いだったんじゃないかしら」
 いくら問いかけてもセシィは何も答えるはずもなく、キーヤは一人泣くしかなかった。

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