2.

 物心ついた時から、俺は一人だった。周りは大人ばかりで、子供はいなかった。
 およそ家族と呼べる存在はなかったが、それを苦痛に思うことはなかったのだ――あの日までは。
 俺はあの時、五歳になっていたかどうか。とにかく、まだソルジャーになるための訓練も始まっていなかった頃だ。
 いつもは研究所で過ごしていた俺が、その時はどういうわけかミッドガルの本社ビルに連れて来られた。何かの実験のためか、プレジデントへの報告のためか? 俺は覚えていない。ただ、幼い子供にとって本社ビルはあまり居心地のいい場所とはいえなかった。
 科学部門のある67階に、多分いたのだと思う。歩き回ってはいけないとは、言われていなかった。どちらにしても、カードキーを持っていないし、神羅のIDカードも持っていない。そのフロアから出ることは不可能なのだから、見張る必要もないと思われたのだろう。
 ただ椅子に座っているのも退屈で、俺はフロアを見て歩いた。それは、本当に偶然のことだったのだ。
 ――何かの声がした。聞いたことのない声。弱々しい、保護欲をそそられる声。好奇心の赴くままに、声のする方へ歩いていった。やがて、実験用サンプル監視ルームにたどり着いた。ドアは開きっぱなしになっていて、ひょいと中をのぞくと、中では人々が忙しそうに動き回っていた。
「宝条さんから頼まれたサンプルの搬入、もうすんだか!?」
「こっちはOKだ。――おい! 修理課はまだか? ドアが故障してるの、一体いつになったら直るんだ?」
 大人達は、いつものように忙しがっていた。不思議な声は、隅のソファからしていた。
 そっと部屋に入る。誰も気づかなかった。――それは、初めて見る生き物だった。小さくて、柔らかくて、熱くて。
 手足は妙に短い気がしたが、どうも人間のように思えた。
 コロコロとしたその生き物は、突然俺に触れられてびっくりしたようだった。大きな青い目で、まじまじと俺を見つめる。
 やがて、そいつは急にキャッキャッと言って笑った。俺に向かって、もぞもぞと手を伸ばす。初めてのことに困惑している俺のことなど、全くおかまいなしに意味のない声を上げ、嬉しそうに髪をつかむ。
 いきなり髪をつかまれて、遠慮えしゃくなく引っ張られて。呆然とする俺は、手を離させようとそいつに手をかけた――その時だった。
「坊やに触らないで!」
 金切り声が、頭上から降ってきた。ビクッとして、全身が凍り付いた。俺の髪を引っ張って遊んでいた生き物も、同じように身動きしていない。目を丸くして、ぜんまいの切れたおもちゃのようにまばたきすらしないで凍り付いている。
「その手を離しなさい! この化け物!」
 その時まで、俺にもそいつにも全く注意を払っていなかった大人達が、あわててわらわらと寄ってきた。
「奥様! どうかなさいましたか!?」
「――セフィロス! 何故こんなところに!?」
 顔面蒼白な彼らに向かって、金切り声を上げた女はキッと睨み付けた。
「わたくしが用があってほんの少し目を離している隙に、この化け物が大事な坊やにいたずらしようとしていたのですよ?」
 そして女は、うって変わって優しい声を出した。
「ああ坊や……大丈夫だった? あなたを一人にして、ごめんなさいね。いい子ね、ルーファウス。よしよし」
 女はその小さな生き物を胸に抱くと、頬ずりしてあやしている。女とその生き物とは、よく似ていた。日の光を思わせる金色の髪も、研究所のそばにある海を思わせる青い瞳も。
「――まあ、セフィ! 探したのよ。迷子になったのかと心配したわ。さ、こちらへいらっしゃい」
 そう言って、いつも俺の世話をしてくれている研究員のミランダが手招きした。
「あなたがこの子のお守り役なの?」
 女は、今度はミランダを睨み付けた。振り返った女の顔を見て、ミランダはあっと叫んだ。
「プ、プレジデント夫人……!」
 なすすべもなく立ちつくしている俺をかばうようにそっと後ろへ押しやり、ミランダは平身低頭謝りはじめた。
「申し訳ございません、キーヤ様。あの……セフィがお坊っちゃまに何か……?」
「何かじゃないわ! これだから、本社に来るのは嫌なのよ――。ああ、あの人に呼ばれて、ほんの少し目を離しただけなのに。もう化け物が、坊やに……!」
 涙声で、女は生き物を抱きしめている。生き物は不思議そうに女に向かってわけのわからない声を上げ、顔をのぞき込む。
「まあ、坊やったら。心配してくれるの? ――ありがとう。お母様にはお前だけよ。かわいい、大切な坊や。わたくしの宝物――」
 女はミランダに向かって、威圧的な口調で命じた。二度と坊やに化け物を近づかせるな、と。部屋を出ていく時、女に抱かれた生き物は俺を見て笑った。手を伸ばそうとしてだぁ、だぁ、と言って身をもがく。すかさず、女は生き物をあやした。
「ほらほら。もうご用はすんだわ。お家に帰りましょうね、ルーファウス」
 女が出ていったあと、ミランダはスタッフに詫びた。
「申し訳ありませんでした。セフィロスの報告書を、宝条博士に渡しに行っただけだったんです。まさか、こんなことになるなんて」
「いやあ、こっちも何が何だかわからなかったよ」
 ポリポリと頭を掻きながら、スタッフの一人が言った。
「博士から指示はくるわ、役員会議の追加資料は至急揃えなきゃならないわで――。奥様が下の階に行っていらっしゃる間だけ、坊っちゃんをここに預けていかれたんだけどな。こんな騒ぎになるとは、思いもしなかったよ」
 別のスタッフが、声をひそめて言う。
「69階の役員秘書達が、ちょうど出はらっていてさ。奥様のご用の相手ってのが、マズイことに兵器開発部長だったんだよ。愛人のとこに正妻が息子を抱いていくわけにもいかないだろ? それで、うちで預かったんだけどな」
「あいにく、都市開発部長は新しい魔晄炉の建設現場に出張中なんだよ。――まあ偶然に偶然が重なった、ってとこだな」
 彼らの言葉を聞きながら、ミランダは悲しげに言ったものだ。
「奥様の事情はよくわかりましたわ。けれど、だからといってセフィをあんな言い方で傷つけるなんて。この子は、父親も母親も知らないのに。まだこんなに幼いのに」
「仕方ないだろ? 奥様の魔晄嫌いは、あんたも知ってるだろう。その子の目、魔晄を浴びた目じゃないか。その不思議な輝き――」
「人間なのよ。化け物なんかじゃないわ。かわいそうに……セフィ。ご覧なさい、ショックでまだ震えてるわ」
 かすかに細かく震える肩に手をおいて、ミランダは俺を連れて部屋を出た。あてがわれた部屋に戻った時、俺はミランダに尋ねた。
「……さっきの生き物、なに? 坊や、って呼ばれてた」
「ああ。あの赤ちゃんのことね。プレジデント神羅のお子様よ。ルーファウスって名前なの。あなたと同じ、男の子よ」
「じゃあ、あの女は? ぼくのこと、バケモノって言ってた」
「セフィ……。気にしないでね。あなたは他の子供達とは違う存在なの。でも、それはあなたが化け物だからじゃないのよ。あなたは、特別な子供なの。古代種の血を引いているのだから」
「そんなこと、どうだっていい。ねえ、なぜぼくにはあの子みたいにぼくを抱きしめてくれる人がいないの?」
「あなたにも、ちゃんとお母さんはいたのよ。ただ残念なことに、あなたを生んですぐ亡くなってしまったの。ジェノバという名前なのよ」
「……あんな風に、キレイな長い髪をしてたの? 優しい声で、ぼくのこと呼んでくれたの? いいニオイがしたの? 温かったの? ……ぼくは、何ひとつ覚えていない。誰も教えてくれなかった。母さんは、どんな人だったの? 父さんは、どんな人だったの? 誰も、何も……!」
 懸命に涙をこらえようとする俺を、ミランダはかがみ込んで抱きしめてくれた。
「キーヤ様のことは気にしないでね、セフィ。母親というのは、我が子を守るためにひどく神経質になるものなの。あなたが悪いんじゃないわ」
 ミランダには、セフィロスがルーファウスに悪さをしようとしていたようには思えなかった。別れ際、ルーファウスはたいそうご機嫌でセフィロスに向かって笑っていたではないか?
「私じゃ代わりにはなれないけど――でも、子供には抱きしめてくれる腕が必要よ」
 その夜、俺は初めて自分の孤独に気づいて泣きながら眠った。
「あなたは特別なの」
 そんなこと、ちっとも嬉しくなかった。特別な存在なんかに、望んでなったわけではなかった。欲しいものは、ごくありふれたもの。
「母さん……」
 名前だけではなく、顔やぬくもりが欲しかった。――俺は、ルーファウスが羨ましかった。
 ソルジャーになるための訓練が始まったのは、その少しあとのことだった。