3.

 僕を引き取ってから、ツォンは泊まりがけの出張をしないようにしていたらしい。
 でも、そうは言っていられないこともある。海外の取引先に出向かなければならないというので、彼が家を一週間留守にすることになった。
 そしていま、僕はあの薬臭い男と顔を突き合わせている。憂鬱だ。
「お前が何を思おうと勝手だがね。衰弱死でもさせてみろ。間違いなく、私は殺されるな」
 何でよりにもよってこいつなんだろう? ツォンと同じ目の色なのに。髪だって、同じ色をしてて同じようにまっすぐなのに。
 ――何か違う。泣きたいくらいに。早く一週間が経たないかなぁ。
「だから、出された物はきちんと食べろ。いいな?」
 わかったってば。こいつの声を聞いていると、陰々滅々としてくるね。
 ツォン。まだ飛行機の中? それとも、もう向こうの空港には着いたかな。
 声が聞きたい。膝の上でうたた寝したい。
「しかし、不機嫌だな。連れて行けるものなら、もちろんそうしただろうさ。できないから、私がここに泊まっているんだ。諦めろ」
 こいつが出発前のツォンと交わした会話を思い出して、僕は涙が出そうになった。
「どうでもいいが、必ず無事に戻ってこい。万一、お前の身に何かあってみろ。これは私を責め立てるに違いないからな。『まだ帰らないね。どこに行ったのかな? ずい分遅いよね。寄り道してるのかな。連絡は無い?』そんな調子でな。目の前で死ぬのならともかく。自分の知らないところで死なれても、理解はできなかろう。毎日そうやって鳴かれるのかと思うと、ゾッとするぞ。大体、これにとっての一週間は、我々が感じているのとは全く違うはずだしな。長くて二十年、普通は十五、六年しか生きないんだ。そう思えば、可哀想だろう? 早く戻ってやれ。この小さな脳みそには、お前のことしか無いんだからな」
 そんな不吉なこと言わないでよ! ツォンが戻ってこないだなんて。
 この状態がずっと続くなんて。悲しくて、辛くて。僕には耐えられない。
「お前達は環境の変化に弱い生き物なんだぞ。住み慣れた家にいるのが一番いいんだ。ストレスを受けると、病気になりやすいからな。ツォンの判断を恨むんじゃない」
 別に、彼のことは恨んでないよ。一緒に行動できない自分に、嫌気が差しているだけ。
 僕がもし人間だったら、彼のためにいろいろなことがしてあげられるのに。どこへでも、一緒に行けるのに。
 もう毛糸の玉を追いかけたりしない。ツォンの揺れる髪に飛びついたりしない。尖った耳なんて、いらない。自慢の長いしっぽもいらない。だから、お願い。
 カミサマ。僕を人間にして下さい。

「あら、博士。もうお帰りですか?」
「ああ、ご苦労様。何、フレックスタイムという奴でね。今日は朝が早かっただけだ」
「そうですの。実は、ルーちゃんなんですけどね。餌を全然食べてくれなくて。困りましたわねえ……。何しろだんな様になついているから。寂しいんでしょうね。窓から外を眺めて、人が来る度に起き上がるんですけど。だんな様じゃないとわかって、がっかりしてまた丸くなるのが可哀想で。何だか、気が気じゃありませんよ」
「やれやれ。あの男も、電話ぐらい寄越せばいいものを」
「とても大事な商談だと、秘書さんが言ってらしたんですよ。隙がないんでしょうねえ」
「とにかく、あなたには責任は無い。その点は安心して下さい、ミセス・ダーシィ」
「お友達がいれば、気が紛れるのかしら。秘書さんが、ルーちゃんはアビシニアンのソレルねって。スタンダードと言ってもいいくらい、綺麗な子だそうで。その気になれば、キャットショーで賞も取れるんじゃないかってお話でしたわ。それが、まあ。このままじゃ、病気になっちゃいますよ」
「あれは既に病気だよ。手遅れだ、ミセス・ダーシィ。自分のことを、猫だと思っていないんだからな。いま具合が悪いのは、単なる恋患いだ」
「ルーちゃんは、男の子ですよ?」
「別に問題無かろう? 人間だって、同性同士で結婚できるご時世だ」
 ミセス・ダーシィは、宝条の言葉を僕が具合悪いのをからかった冗談だと思ったようだ。
 一瞬目を丸くしたあと、まあ、嫌ですよ博士! と言って笑い転げている。
 そうだよね。人間にしたら、僕の思いなんて本気には感じられないんだろうね。
 ……ツォンも? ツォンもそうなの?
 確かめたくても、彼はいまここにいない。嫌なことがあっても、毛繕いをすれば大抵気分が落ち着くのに。どうして全然効果が無いんだろう。
 僕は毛繕いするのにも疲れて、そのまま窓辺で眠ってしまった。

 朝目覚めても、僕を優しく撫でてくれる手があるはずもなく。
 僕はずっと使っていなかった自分専用のベッドで目を覚ました。眠っている時も、僕は人間の姿で泣き続けていたから。すがすがしい気分とは言えなかった。
 意外だったのは、不機嫌そうな顔で宝条が起きてきたことだ。
「夕べは一晩中、子供の泣き声に悩まされたぞ。察するに、お前だな」
 そんなこと言われたって。まさかあれが聞こえるなんて、思ってもみなかったもん。
「いい加減にしてくれないか。お前、ツォンに会う前に餓死したいのか?」
 博士の意地悪! 一日や二日食べなくたって、死なないもん。
「まあ、いい。とにかく、私は仕事だ。あまりミセス・ダーシィを心配させるんじゃない」
 今日は金曜日だったから、明日明後日と丸二日間こいつと過ごすのかと思うと。いまから気が滅入ってくる。
 まだ帰って来ない日なのはわかってる。それでも、窓の外を眺めずにはいられない。
 食べてないせいかな。それとも、すきま風のせい? 寒い。身も心も。
 ミセス・ダーシィが食事を持ってきた。昨日大好物のチキンを食べなかったから、今日は僕が次に好きな紅鮭をお皿に盛っている。
 ちょっと悪い気がして、一口二口食べてみた。全部食べなかったことは残念らしかったけど、それでも何も食べないよりはいいかと満足してくれたみたい。
 いい子ね、と頭を撫でてくれた。ごめんなさい。おなかはすいてるんだよ? 本当に。
 でも、食べたい気にならないんだ……。
 あとで食べたくなるかもしれないから。いつもの所に置いておくわね。
 最後にそう言ってミセス・ダーシィは帰って行った。僕はツォンの部屋へ行き、ベッドに丸くなって寝た。
 寂しくて、不安で。僕はまた夢の中で泣いていた。すると、不意に声。
「今晩も私を寝させないつもりか。全く。もう帰って来ないわけでもあるまいに。少しは落ち着け」
 あ。忘れてた。そういや、僕の泣き声が聞こえたって言ってたっけ。
「何がそんなに不安なんだ? 私には、さっぱり訳がわからん」
「博士には、好きな人いないの?」
「質問をしているのは私だ。お前じゃないぞ」
「大好きな人が、自分をどのくらい好きなのか。博士は考えたこと無いの?」
「無いな。お前、ツォンを信用していないのか? だとしたら、奴もずい分可哀想だな」
「そんなことないよ。でも、確かめたい時にいてくれないのって辛いよ。こんなに長く離れているのって、初めてなんだもん。飛行機は時々落ちるって言ったの、博士じゃないか! 僕、心配で心配で。余計に不安なんだよ」
「奴がお前のことをどれほど思っているかは、私が保証してやるよ。安心しろ」
「……博士に言われても、あまりピンと来ないや」
「お前も、かなりハッキリ物を言うな。ところで、一つ聞きたいんだが。奴のどこがそんなにいいんだ?」
「顔! それに、綺麗な髪。指の形も、声も好き。引き締まった身体もね」
「外見だけか?」
「最初はね。いまは、どんな風になっても彼のこと好きだと思う。手足が無くなっても、顔に火傷したとしても。中身は変わらないもんね」
「また極端から極端に。やれやれ。お前は賢いが、愚かだな」
「それ褒めてるの? それともけなしてるの?」
「哀れだなと思うだけだ。お前は猫にしては賢いから、忠告してやる。あの男のことは、きっぱり思い切れ。お前がどれほど思ったところで、所詮対等な存在にはなれないだろう? いまお前は奴の手足が無くなっても、と言ったな。だが、そうなった時。奴の世話はお前には出来ん。――違うか?」
「はっ……博士の…意地悪……。僕が猫なのは…僕のせいじゃないもん。僕だって……人間になりたいよ。だから、カミサマに毎日お願いしてるのに。一生懸命お願いしてるのに。人魚姫みたいに声と引き換えてでもいいから、人間になりたいよ。一足ごとに剣で足を切り刻まれる痛みを味わってもいい。人間に……なりたい」
「そう泣きじゃくるんじゃない。恋は狂気というが、その通りだな。激しい感情に溺れず、猫らしくのどかな日々を満喫して一生を終えたらどうなんだ。世の中には、飼い猫になって優雅に暮らしたいと思う人間も大勢いるぞ? お前は人間の四、五分の一しか生きられないんだ。撫でられて喉をゴロゴロ鳴らし、日がな一日勝手気ままに過ごした方がいいと思うが。悩み、苦しむ暇があったらな」
「ツォンじゃなきゃ……やだもん。ダメなんだもん。ツォンはただの飼い主じゃないよ!」
「お前は去勢されているはずだろう。何で奴にそう執着するんだか」
「それがわかれば苦労しないよ。博士なんて、嫌いだ!」
「そこまで言うのなら、いい事を教えてやる。奴が悩んでいたぞ。夢の中で、お前に犯罪的行為をしでかしそうだとな。それは人として問題ではないか、とな」
「それって……。本当!?」
「告白するのもいいが、何をされても泣くなよ。念のために言っておくが、人間は年中発情期だ。お前にはもう、関係ないことだが」
 ありがとう! と飛び付いた僕に、気軽にこんなことをするなと宝条が苦笑いした。
 猫に人間の心を入れるとは、神もよほど退屈していたに違いない。お前も災難だなと。
「そんなことないよ。僕はいま、幸せだもん」
 人間になれなくてもいい。この気持ちに、変わりはないから。
 そう思ったら、急に眠くなった。寝てるのに眠くなるってのも変な話だけど。
 薄れていく意識の中で、宝条の声が聞こえた。
「やれやれ、これで私も眠れるな」
 ……いろいろごめんなさい。そして、お休みなさい。

 翌日。待ちに待ったツォンからの電話があった。
 宝条はこちらの様子を報告すると、僕の顔に受話器を近づけた。
「ルーファウスかい?」
 ツォン! 良かった。ちゃんと向こうに着いてたんだね!
「元気そうだね。宝条は、ちゃんと面倒を見てくれているかい?」
 チラリと仰ぎ見たが、宝条はいつものポーカーフェイスだった。
 うん。まあね。合格ってとこかな?
「それなら良かった。いたずらしないで、いい子でいるんだよ。もう少しだから」
 わかってる。寂しいけど、我慢する。でも、なるべく早く帰ってきてね。
「私も寂しいよ。おみやげを持って帰るから。楽しみにしておいで」
 無事に帰ってきてくれれば、それが何よりのおみやげだよ。気をつけてね。
 そう言うと、僕は話が終わったことをわからせるために脇へどいた。
「お前に聞かせる鳴き声は細くて高い、いかにも甘えた声だな。私が聞く声とはえらい違いだ」
「ハハハ……。それでも、君はなかなかルーファウスをうまくあしらってくれているようだ。大人しく甘えて鳴いていたろう? ということは、さしたる不満が無いことの表れだ。これが、少しでも気に入らないとなったら。それこそ喉が張り裂けんばかりに鳴き喚くぞ」
「あれは悪魔か?」
「何を馬鹿なことを。あの柔らかな温もりの無い日々など、もう考えられないね。あれは私をモノクロの世界から命あふれる、色鮮やかな世界へ導いてくれた天使だよ。そんなわけで、引き続きよろしく頼むよ」
 電話を切った宝条が、呆れた顔で僕に言った。
「聞こえたか? 奴曰く、お前は天使だそうだ。馬鹿はお前だけじゃないようだな」
 わーいっ。――ところで、天使って何?

 それからの数日は、あっという間に過ぎていった。
 僕は窓から外を眺めながらひなたぼっこをし、丹念に毛繕いをした。久しぶりに会うのに、綺麗じゃないのは嫌だからね。宝条は笑っているけど。
 車の止まる音がした。僕は窓におでこをくっつけるように身を乗り出した。果たして、車から降りたのは長い黒髪の持ち主。ツォンだ。
 一目散に玄関へと駆けていく僕を見て、ようやく宝条も気づいたらしい。後からゆっくりと歩いて来る。
 走ったのと、ようやく会える嬉しさとで。僕の心臓は早鐘を打っていた。
 深呼吸して、一息つく。ドアが開いた。スーツケースを片手に、ツォンが現れた。
「ただいま、ルーファウス」
 お帰りなさい! 待ちくたびれたよ!
 足元に頭をこすり付けて甘える僕を、ツォンが抱き上げた。そこへ、宝条が来た。
「やあ。ご苦労様。これのお守りは大変だったろう?」
「何。コツを飲み込めば、そうでもない。とにかく無事で何よりだ。ホッとしたぞ。これで私も帰れるというものだ」
「もう? 礼を言う暇もないんだな」
「水入らずで過ごしたかろう? お互いにな。邪魔者はさっさと消えることにするよ」
 そして、宝条は荷物をまとめて帰ってしまった。嬉しいけど、何もそこまで。徹底してる。
 荷物を整理して片づけ始めたツォンのそばを、僕はウロウロと歩き回ったりこれは何? と問いかけてみたりして過ごした。
 意味なんて無かったけど、声が聞きたかったから。ツォンは時折手を休めて、僕を撫でてくれた。真面目な顔で僕のくだらない質問に答えてくれるのは、やっぱり嬉しい。
 やがて、食事の時間になった。僕のお皿にはいつものチキン。一人で食べるのは味気ないけど、ツォンと一緒だと本当にご馳走になる。不思議だね。
 リビングのソファで、食後の紅茶をツォンが楽しんでいる。僕は彼の膝の上で久しぶりに紅茶の香りを嗅いで、戻ってきた日常と我が身の幸せを噛みしめていた。
 やっぱり、この香りでないとね。宝条はコーヒー派だったんだよね。嫌いじゃないけど、僕はこっちの方が好きだな。しっぽを大きくゆっくりと、波打つように振っているとツォンがカップをソーサーに戻し、テーブルに置いた。
「おみやげがまだだったね。ちょっと待っておいで」
 僕を膝からソファに下ろし、喉を撫でてから彼は行った。一体何だろう?
 気持ち良くなごんでいたのを中断されて、僕は何となく手持ちぶさたな思いだった。仕方なく、毛繕いして気を紛らわせる。
 戻ってきたツォンの手には、一枚の紙とスタンプ台。何これ?
 首を捻る僕を抱き上げて、彼は僕の右の前足をスタンプ台の上に下ろし、次にその足を紙の上に下ろした。
 紙の上についた自分の足跡を見て、今更ながら猫でしかない自分が悲しくなった。
 そんな思いを知ってか知らずか。インクを落とさないとな、と言ってツォンは僕を抱いたままキッチンへ行く。
 ねえ、あれ何? さっぱりわからないよ。説明をしてくれないので、僕はひたすら尋ねた。でも、ツォンは微笑むばかりだった。
 汚れを落としたあと、僕達は再びソファに戻ってきた。
「宝条から聞いたよ。君は人間になりたいと泣いていたそうだね」
 だって。ツォンのために役に立ちたいもん。猫じゃ何もできないよ……。
「どうも誤解しているようだな。私は、君に何かをして欲しいわけじゃない。ただそばにいてくれるだけでいいんだよ」
 何だかそれって、不公平な気がするよ? 僕ばかりいい思いをして。気が引けるんだ。
「私が君のことをどれほど思っているか。何か形に表したら、君は安心するんじゃないか。そう考えて、これを取ってきたんだよ」
 この紙が、ツォンの僕への思い? ねえ、これ何なの?
「実際に出すことはできないがね。これは、婚姻関係を結ぶ時に役所に出す書類だよ。君が人間なら、問題無く有効なんだが。つまり、そういうことさ。輝く金の被毛のルーファウス。ずっとそばにいて欲しい。――愛しているよ」
 明日額縁を買ってきて部屋に飾ろうと言ったツォンに、僕は喉を鳴らし、頭をこすり付けてそれに答えた。
 僕もツォンのこと大好きだよ。いつか彼を残していかなければならないのかと思うと、胸が張り裂けそうだけど。でも、その日までは。――ずっとそばにいるよ。
 夢の中での僕との会話を、いつの間にかツォンに知らせていた宝条に感謝しながら、僕は喉を鳴らし続けたのだった。
 僕らの新しい生活が、いま始まる。
= END =


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