2.

 日が経つにつれ、僕はツォンとの暮らしが気に入った。
 彼は僕のことを決して見下したりしなかった。理不尽に怒るような真似もしない。時々怖い顔で叱ることはあったけど、それは僕の身を案じてのことだったから。本当に、心の底から心配してくれているのがわかったから。
 僕は素直にごめんなさいと謝るばかりだった。だって、大抵そういう時には叱ったツォンの方が辛そうにしていたから。
 時々、自分は本当に馬鹿なんじゃないかと思う。要するに、忘れっぽいんだよね。命に関わるような大事なことは、さすがに一度で覚えるんだけど。
 このところ仕事が忙しいらしくて、ツォンの帰りは遅くなる一方だった。一人で留守番をするのも、もう慣れたけどさ。
 ――やっぱり、寂しい。
 僕が何一つ不自由の無い暮らしができるのは、彼のおかげ。だから、文句は言えないけど。でも。
「ただいま、ルーファウス。遅くなってすまなかったね」
 ようやく帰ってきた彼に、本当は飛びついて甘えたいところなんだけど。
 僕にもわかるなんて、疲れきってるんだね。そう思ったら、まとわりつけないよ……。
 何となく、僕の気持ちを察したのか。ツォンは何も言わずに僕の食事を用意すると、シャワーを浴びに行った。
 僕は一人で食べ始めたものの、あまり食欲が湧かなかった。もちろん、おなかはすききっていた。
 でも、大好きなチキンなのに。何で美味しいと思えないんだろう。
 自分でも不思議で。僕は食べるのを途中でやめ、のこのことバスルームへ歩いて行った。多分、甘えられないまでもそばにいて、温もりを感じたかったんだろうと思う。
 閉じられたドア越しに、お風呂のいい匂いが漂ってくる。石鹸やシャンプーやボディオイルの香りは、大好きだ。
 元から使ってはいなかったみたいだけど。僕がシトラス系の香りは苦手なのを知ると、家の中の物で香りを放つ製品には絶対に選ばないように気をつけてくれた。
 優しいツォン。そういう細かい気遣いって、嬉しいよね。
 ぼんやりとそんなことを考えていたら、突然ドアが開いた。僕はびっくりして、慌ててドアから離れた。
「ルーファウス?」
 まずい。しっかり見つかってるよ……。
 怪訝そうな表情を一瞬だけ浮かべたツォン。そのあと、すぐに穏やかに笑う。
「どうした、そんな所で。おいで」
 手招きされて、観念した僕は中に入った。途端に、湿気が襲ってくる。
 ドレッサーの端に腰を下ろして、ツォンがドライヤーを使うのを眺めることにする。
 いつ見ても綺麗。闇夜の色した、まっすぐで艶やかな髪。
 会社や街で見かける人間達は、みんな適当な色の髪と目をしていた。茶色っていっても、人によってずい分色合いが違うし。てんでんバラバラ。
 彼だけがはっきりと違っている。ツォンはこの街の人間じゃないのかな。
「ちゃんと食べなかったな?」
 うっ。すっかり見抜かれてる。
「駄目だよ。体に毒だ。一緒に食べよう」
 本当に!?
「髪を乾かすまで、少し待ってくれないか」
 嬉しくて、僕は思わず抱きついた。ツォンがドライヤーを止めて僕を撫でる。
「甘えん坊だね。まだまだ子供だな」
 いつもなら、子供扱いされるのは嫌だけど。いまはいいや。こうしていられるなら。
 そして一緒にご飯を食べて、寝室に行く。
 彼がパジャマを着ようとして、バスローブを脱いだ。――瞬間、目が釘付けになった。
 何も覆われていない身体を見るのは、初めてだった。
 均整の取れたプロポーション。適度に筋肉が付いている、エクササイズされた身体。
 毛深くないせいか、その肌は滑らかですべすべとしていた。
 象牙を彫り込んだら、こんな風になる?
 ドキドキしている間に、着替えは終わっていた。いつものように背中をくっつけて眠ろうとしたけど、ドキドキはおさまらなかった。
 すぐ横で規則正しく胸を上下させているツォンを、僕は恨めしく思いながら浅い眠りについたのだった。

 次の日は、雨だった。ただでさえ眠くなるのに、昨日はウトウトとしただけだったから、僕は居心地のいいソファにもたれかかってひたすら眠っていた。
 ミセス・ダーシィが、そんな僕を見て笑っている。でも、抗議する気力も無かった。
 短いけれど深い眠りを貪ったあと起き出したら、彼女は部屋を片づけ終わり、料理も佳境は過ぎたところだった。
 この匂いからすると、今日はブッフ・ブルギニョンだね。赤ワインと牛肉がミックスして煮込まれていくのって、とてもいい香り。どうせ僕は食べさせてもらえないだろうけど。
 ここでひと休みなミセス・ダーシィが、リビングのTVにスイッチを入れた。
 映った番組は、どうやらニュースらしかった。そうだろうね。ツォン、TVなんてほとんど見ないもの。
 街が華やかに飾り付けられ始めたという映像が流れた。すると、ミセス・ダーシィがもうすっかりクリスマス気分ねえ、と言った。
 クリスマス? 何それ?
 多分僕はそう言いたげな顔をしたのだろう。彼女は笑って説明してくれた。
 神様が私達人間を救うために、ひとり子のイエス様をこの世に送って下さった日よ。
 救世主が人としてお生まれになるなんて、何て素晴らしいことでしょう。だから、みんなでお祝いするの。
 ふーん。ところで、神様って何なの? どこにいるの? どんな顔してるの?
 僕は興味津々で彼女に尋ねた。カミサマ。初めて聞く言葉だった。
「神様は信じる者を救って下さるの。目で見ることはできないけれど、いらっしゃるのよ。
 そして、私達の願いを叶えて下さるの」
 どんなお願いでも? 誰の願い事でも? ……僕でも?
「いい子にしていれば、きっとご褒美を下さるわ。いつかね」
 わぁっ……。スゴイ事聞いちゃった! 僕、さっそくお願いしよう。
 ほら、善は急げって言うじゃない? 大勢の人がお願いしてるんだから、もし先着順で叶えてくれるとしたら、少しでも早い方がいいよね!
 あれ? それとも、熱心な順なのかな。よくわかんないや。取りあえずさっそく。
 そして、これからはヒマがあればお願いすることにしようっと。
 そうすれば忘れられないよね?
 これは、僕だけの秘密。誰にも内緒。ツォンには絶対知られないようにしなきゃ。
 ある日突然驚かせるんだ。楽しみだな!
 急にご機嫌になった僕を不思議そうに見ながらミセス・ダーシィはTVを見ていたが、やがてスイッチを消すと仕事に戻って行った。
 その日。僕は一日中ご機嫌で過ごしたのだった。

 夜。ミセス・ダーシィが帰り、ツォンが戻るまで、僕ははしゃいで家の中を走り回っていたせいか、食事をしたらすぐに眠くなった。
 何とかツォンのベッドまで辿り着くと、そのまま丸くなって寝た。いつ彼が眠ったのか、全然記憶に無い。
 それは、唐突に始まった。気がつくと、僕は見知らぬ場所を歩いていた。
 何も無い、音もしない世界。上下左右の感覚も無ければ、地面を歩いている時のような安定感も無かった。ただひたすらに、続くのは無。
 叫び出したいほど怖かった。宙を歩くような、妙な落ち着きの無さが気持ち悪い。
 こんな夢、見るのは初めてだった。不安が募るばかりの僕は、必死でツォンを呼んだ。
 ツォン、ツォン! どこにいるの? いるなら、返事して。お願いだよ!
 パニックを起こして走り回る僕の前に、うずくまっている人影が現れた。僕の悲鳴が聞こえたのか、顔を上げてあたりを見回す。
 視線が合った。探し人にようやく会えた嬉しさで、僕は舞い上がらんばかりだった。
 でも、喜んで抱きついた僕に彼が言った言葉は「君は誰だ?」だった。
「ツォン? 僕だよ。ルーファウス。やだなあ、冗談はやめてよ」
「ルーファウス? ……君が?」
 相当疲れてるのかな。僕のことがわからないなんて。
「私の知っているルーファウスとは、見た目が大分違うようだが」
 言われて初めて気づいた。そう言えば、背もスラリとして。指も長くしなやかで。
 気のせいか、声まで変わっているような。
「まあ、いい。何にしろ、君が可愛い男の子であることに変わりは無いらしい」
 何でツォンは笑ってるんだろう。何がおかしいのか、僕にはさっぱりわからないよ。
「ねえ、ツォン。ここはどこ? さっきまで、何も無くて怖かったんだよ。いまは真珠色に淡く光ってるけど。いきなりツォンが目の前にいて、びっくりしたよ」
「それを言うなら私の方だ。いつものように夢の無い眠りを貪っていた。それが急に、誰かに呼ばれた気がした。気がつけば、君がいた。しかも、ルーファウスだと言う。これが驚かずにいられると思うかい?」
 さっきから、何かが違うと思ってたんだけど。もしかして、僕の言ってることが全部ツォンに通じてる!?
 うわぁ。カミサマ、仕事するのが早いよ。早過ぎて、僕、心の準備ができてないかも。
「ツォン?」
「どうした?」
「あのね、言葉が通じたら言おうと思っていたことがあるんだよ。耳貸して?」
 もう二度とこんなチャンスは無いかもしれない。そう思った僕は、なけなしの勇気を振り絞って囁いた。
 一瞬目を瞠ったツォンがフッと笑い、僕の髪を撫でながら言った。
「私もだよ」
 ――それからというもの、僕達は夢の中で会話した。
 話の内容は、大したことじゃなかった。彼と感覚を共有できるということが、僕にはたまらなく嬉しかった。ただ、それだけだ。
 病院で手術をした僕が帰ってきた時には、ツォンが何だか複雑な顔をしていたけど。
「もったいない気がするよ、今更だが」
 僕をしみじみと眺めた挙げ句、ため息をつく。
「同族の美しい娘との間に子供ができれば、それは優雅で気品のある子になるだろうに」
「僕はツォンさえいてくれればいいもん」
「それとこれとは別問題だと思うがね。いや……君がそう思うのは、私の責任か」
「それを言うなら、ツォンの方こそ。何で奥さんとか恋人がいないの? 人のことあれこれ心配するより、自分の心配しなよねっ!」
 憎まれ口を叩きながら、その実ちょっと不安だった。
 もし「君にもそのうち紹介しようと思っているよ」とか言われたら。とても悲しい。
「自分の心配……ね。これは手厳しいな」
 ツォンは苦笑して、仕事が忙しかったのにかまけて、私は人生のいろいろな物を切り捨ててきたような気がするよ、と言った。味気ない話だな、と。
「じゃあ、いまは? いまもツォンは退屈でつまらない毎日を過ごしてるの?」
「いいや。君がいるだろう?」
 やっぱり大好きだ。ずっとそばにいたい。でも、僕は。
 自分ではどうにもならないことだった。カミサマ、もう一度お願いを聞いて下さいますか?

 それからしばらく経った、ある休日。
「お前に可愛い同居人ができたと聞いたから、冷やかしに来たんだが」
「可愛いだろう?」
 クックックッ……と笑うツォンに、友達だという男は憮然とした表情だった。
 何か失礼なヤツだよね。大体、こいつったら。僕の大嫌いな匂いをプンプンさせてるし。
 あー、やだやだっ! 僕まで薬臭くなりそうだよ。
「名前は?」
「ルーファウス。ああ、この子は人見知りするんだ。愛想が無いのは勘弁してやってくれ」
「全く。女にも男にも不自由はしなかろうに。何でまた」
「さあな。心境の変化というか」
「相変わらず、訳のわからん奴だ。聞いた話じゃ、仕事の方は順調そうだが」
「お陰様でね。――うん? どうした」
「ツォン。ルーファウスが吐いてるぞ」
「ああ、あれなら大丈夫だ。さっき草を食べていたから。毛玉を吐き出しているんだろう」
「毛玉?」
「毛繕いする時、抜け毛も一緒に飲み込むだろう? 毛は消化できないからね。ある程度溜まると、ああやって吐き出すのさ。私も最初は病気かと思って、医者に電話して笑われたよ。飼ってみてわかったが、猫はよく吐く生き物だな。人間に比べると、という意味だが」
「なかなか大変だな」
「あの子は頭がいいからね。好奇心が強いのは仕方ないんだが。何でも食べたがるのには、かなり気をつけたな。知っているだろう? 猫は殆ど全ての哺乳類に備わっている解毒能力が全く無いか、極度に劣っている生き物でね。玉ねぎ、チョコレート、生の卵白。花や観葉植物も危ない物が多くて。面倒なんで、花は飾らないようにミセス・ダーシィにお願いしたよ。最近は、匂いを嗅ぐだけで満足するようになったがね」
「やつらはグルクロン酸包合能が全く無い上に、アセチル化もほとんどできないからな。全く。よく生き残ってこれたもんだ」
「その辺は、君は専門だからな。私よりずっと詳しいだろうが。ほら。もうケロリとしてる」
「マントルピースの棚に寝そべるのが好きなのか?」
「君のことを観察してるんだよ。我々の声が聞こえる所で、高い場所というとあそこだろう。寝た振りをして、ちゃんと起きてるさ。ほら、耳がこっちに向いてるだろう」
「性格が悪いぞ」
「君から言われたくはないだろうなあ、ルーファウスも」
「フン。勝手に言ってろ」
 同時に、二人が笑い出した。何なんだよ。僕のこと、さんざん眺め回しといて!
 ツォン。友達はよく選んだ方がいいよ?
「ところで。君には身辺変化の兆しは何も無いのか、宝条」
「何を意図した発言かはわかりかねるが、科学と真理の探究には不必要な物が私の生活に侵入する気遣いは無いな。ありがたいことに」
「やれやれ。君の人生には、科学と真理の探求以外何も存在しないのか?」
「他に有益なことがあるとでも?」
「例えば、愛とか」
「――熱でもあるのか?」
「ひどいな。だが、少し前までは私も似たようなものだった。人のことは言えないな」
 それから、二人はお互いの近況についていろいろ話し始めた。ツォンの方はともかく、あの宝条とかいう男の喋ることは、僕には全然わからない。
 博士ってからかわれてたけど、薬臭い匂いといい。医者? 何かの研究者?
 どっちにしても、付き合いたくない人種だね。あーあ。トイレに行こうっと。
「君は本当に里帰りしないなあ。たまには帰国してみたらどうなんだ」
「あの狭くて異様に煩い、人口密度ばかり高い地獄にか? 冗談じゃない。未練は無いな」
「ずい分嫌われたものだな。――ルーファウス? ああ。すまなかったね。忘れていたよ」
「何だ?」
「トイレを掃除してやらないと。悪いが、しばらく外すよ」
「お前、そんなことまでしているのか!? それに、いまのは。鳴き声で何を言っているのか、お前にはわかるのか?」
 驚く宝条に何を当たり前なことを、という笑いを浮かべてツォンは立ち上がった。
 僕は宝条をまじまじと見た。向こうも、僕を穴の空くほど見ている。
 何か文句ある? と言ったら、宝条は首を振った。
「言葉はわからんが、どうもあまり友好的な態度を取られてはいないような気がするな」
 それだけわかれば、十分だね。大体、貴重な休日に家に押しかけるなんて。
 気が利かなすぎだね! 僕がどれほど週末を楽しみにしてるか。どう言えばこいつに伝わるんだろう?
 足で頭をバリバリ掻いてみた。次に、絹のペルシャ絨毯に背中をこすり付けた。
 大あくびをする。全身の伸びをして、駄目押しにフーッと唸って犬歯をむき出す。
 案の定、宝条は目を丸くしている。フフン。
 自分が歓迎されざる客だって、これでわかった? 邪魔なんだよ!
「待たせたね。もう大丈夫だよ」
 わーい。ありがとう! じゃあ、行くね。
「おい。いまの甘えた声は何なんだ?」
「私がいない間に、何かされたのか?」
「自分が新婚生活の邪魔をする無粋者になった気がしたぞ。あれは本当に猫なのか? どうにも人間臭いんだが」
「君がそう感じるなら、話すことにする。実は、あれが夢に出てくるんだ。人の姿でね。それも、毎晩のように。初めは良かったんだ。話ができるのが不思議で、面白くて。だが、いまは」
「いまは……何だ?」
「飼い猫が夢の中で見せる姿に欲情するというのは、人として問題だろうな、やはり」
「見た感じからして、あれはこの春生まれた子猫だろう。人間で言えば十三、四歳か? ……犯罪だな。逆に、猫で良かったな」
「十三、四? 道理で。お日様みたいな金髪に、大きな目をしていてね。スベスベした白い肌の、それは愛らしい男の子が無邪気に抱きついてくる。情けない話だが、自分の理性がいつまで保つか。そんな心境だ」
「相当アレだな」
「自覚はあるんだが。どうしたものか、悩んでいる」
 ああ、すっきりした。毛繕いも念入りにしたし。これで綺麗。
 あとは一刻も早く宝条を追い出して、ツォンに遊んでもらおうっと。何ていい考え。
 ――ねえ。何で二人して僕を見てため息をつくわけ? 僕、何かした?
 ツォン。そんな顔しないで。ちょっと悲しそうな、寂しげな笑顔。胸が苦しいよ。
 悪いことをしたのなら、謝るから。だから、許して?
「君は何もしていないよ。安心おし。悪いのは、私なんだ」
 僕には訳がわからなかった。
 宝条が、これはお手上げだとでも言うかのように天を仰いだ。
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