幸せは湯気の向こう 1. 寒い。おなかがすいた。ここはどこ? 震える僕の前に差し出された手の主は黒い髪に黒い瞳の、陶器のような質感の肌をした人間だった。 「行くところが無いのなら、うちにおいで」 穏やかで親しげな微笑みを浮かべて、目を細めて僕を見ている。いままで僕に近づいてきた人間達が見せた優越感を、彼は全く感じさせなかった。 「昨日も一昨日もここにいたね? これから冬になる。雪も降るだろう。このままでは凍え死んでしまうよ」 差し伸べられた手が、僕の頭をそっと撫でた。 「私は一人暮らしなんだ。だから、誰にも気兼ねする必要はないんだよ」 彼の細く長い指で頭を撫でられるのは、悪い気持ちのするものではなかった。 僕は彼を見上げた。よほど心細い表情をしたのだろう。彼は僕の隣りに腰を下ろし、少し困ったような笑顔でこう続けた。 「実を言うと、君のことが気になって仕方なくてね。この三日間、仕事が手につかないんだよ。人助けだと思ってくれないか?」 でも、僕は何も持っていないし。何もできないよ? そう言おうと思ったら、先手を打たれてしまった。 「それに、君のためにいろいろ用意した物もあるんだ」 気に入らなければいつでも出ていっていいから、とまで言われたら断れない。 僕は彼の申し出を受けることにしたのだった。 家に連れて来られた僕は、馬鹿みたいにあたりをキョロキョロと見回していた。 こんな都会の中心部にあるにしては、なかなか広い屋敷だった。一体、部屋はいくつあるんだろう? うっかり出歩いたら、慣れない僕は迷子になるかもしれない。 彼が一人暮らしだというのは、どうやら本当だったようだ。家の中には、人の気配が全くしない。 「冷え切っている上に、汚れているね。まずはバスルームへ直行だな」 衰弱している僕を抱き上げて、彼は早足で廊下を過ぎていく。どこもかしこも綺麗に片づけられて掃除されていた。きっとハウスキーパーを雇っているに違いない。 彼、そんな年取ってる風には見えないけど。若く見えるけど、本当はいくつなんだろう? 年齢不詳だなぁ。それに、職業は何なんだろう。妙な貫禄あるけど。 そんなことを考えていたら、いつの間にか目的地に到着していた。 人に洗われるのはちょっと嫌だったけど、手際よくしてくれたからまあ目を瞑るとする。風邪をひかないように、ちゃんとドライヤーも当ててくれたしね。 コームとブラシを使って乾かしていた彼が、仕上がった僕を見て驚いたのがおかしかった。 「君はずい分ゴージャスな美貌の持ち主だったらしいね」 僕のことライオンに喩えた人間もいるね、そう言えば。あんなぐうたらと一緒にされるなんて、こっちはいい迷惑だけどさ? 疲れている僕を労って、彼はほど良く温めたミルクを出してくれた。 暖まって、空腹が癒されて。安心しきった僕は、すぐにウトウトし始めた。何となく、彼が小さな声で笑ったような気がした。 こうして、僕はこの家にいることになったのだった。 翌朝。前の晩ろくに食事をしていない僕は、空腹に耐えかねて目が覚めた。 取りあえず、起き出して部屋の中をウロウロする。トイレを見つけて一安心すると、今度こそ何か食べたくて仕方ない。 家の中がシンと静まり返っているということは、彼はまだ寝ているに違いない。足音を立てずにその辺を歩き回る。ドアが閉まっている部屋ばかりだったが、やがて開けられている部屋にブチ当たった。かすかに、寝息。 果たして、ベッドには彼が眠っていた。 ねえ、起きて! もう朝だよ? 声をかけてみたけど、反応は無かった。僕の声、聞こえないのかな。そこで、今度は少々手荒な方法で起こすことにする。顔を叩いてみた。次に名前を呼ぼうとして、まだ彼の名前を聞いていなかったことに気づいた。 僕は全然彼のことを知らない。こんなんでいいのかな? 確かに、彼はいい人みたいだけど。それが僕を油断させるための演技じゃないって、誰が保証できる? 警戒しつつ枕元で声を張り上げていると、ようやく彼が眠そうに目をこすりながら身じろいでくれた。ややあって、目が開く。 「やあ。君はまた、えらく早起きだね?」 暢気に笑う彼に、僕は必死だった。だって、おなかがすいて死にそうなんだよ!? ベッドから飛び降りると、彼が起き出すのを待った。どこがキッチンなんだか、僕にはわからないから。後をついて行かないとね。 「ごめんごめん。そう言えば、昨日は結局何も食べてなかったね」 どうやら、僕の情けない状態をようやくわかってくれたらしい。ガウンを羽織ると、さっそく朝食の用意に取りかかってくれた。 ――良かった。これで、飢え死にからは免れた。 朝食は満足のいくもので、僕はすっかり幸せな気分になって窓辺でひなたぼっこを始めた。 彼は何やらいろいろと片づけたり着替えたり、忙しく動き回っていた。僕は見るともなしに時々様子を盗み見ていたが、やがてスーツ姿の彼が来て言うには。 「お昼過ぎにはミセス・ダーシィが来て、家の中を掃除したり夕食を作ったりしてくれる。それまでの間は一人になるが、いい子にしているんだよ」 え? お昼過ぎって、まだ何時間も先だよ!? 不満げな顔の僕を、彼は優しく宥める。 「私はこれから仕事でね。会社へ行かなければならないんだよ。ずっと一緒にいてやりたいとは思うがね」 頭を撫でてため息をつく彼に、僕はあらん限りの抵抗を試みた。 一人でいるのなんて、不安だった。見知らぬところに、ただ一人だなんて。 いま彼から離れるのは嫌だった。少なくとも、彼は僕をいまのところ庇護してくれている。この先のことはわからないにしろ。 通いのハウスキーパーは、いい人かもしれない。でも、万一。そうじゃなかったら? 僕があまりにうるさいので、彼は弱ったなという表情をした。そして、手帳を取り出す。どうも今日のスケジュールを確認したらしい。 次の言葉に、僕は飛び上がらんばかりに喜んだ。 「君には退屈だと思うが。それでも良ければ、来るかい?」 十分後。僕は出勤する彼と共に車に乗っていた。 彼は心配していたけど、僕はそれなりに楽しい一日を過ごしてご機嫌だった。 僕を連れた彼に会う人は皆、僕のことを綺麗だの可愛いだのと褒めた。その度に彼が微笑むのを見て、僕も嬉しかった。 彼の仕事場は、結構広々としていた。家にもいっぱい本やファイルがあったけど。ここには、家の何倍もの書類があった。 いきなり大きな音が鳴り響いてビクッとした僕を見て、彼は笑っていた。これは電話の音だと説明してくれたけど。何も笑うことはないじゃないか! 意地悪。 綺麗な女の人(秘書さんって言うんだね)が出入りして、彼のこと社長って呼んでた。 今日はすごい日だ。彼の名前がわかったし、僕の名前も決まった。 秘書さんが訊いてくれなかったら、こんなに早く名前を貰えなかったかもしれないね。 「それで? この子、何て名前なんですの」 首を捻っていたツォン(これが彼の名前だった)が、悩んだ挙げ句に選んだ名前は。 「ルーファウス。赤い髪、という意味を持つらしいから。この子の華やかな、温かみのある金色の毛にはぴったりの名前だろう?」 それを聞いた彼女はクスクス笑う。 そんな長い名前。この子、覚えられるんですか? だって。失礼だよね! 抗議の声を上げた僕に、ツォンは笑いを堪えきれずに肩を震わせていた。 ねえ。二人とも、もしかして僕のこと馬鹿だと思ってない? ――全く。 家に帰り、ドアを開けた途端にいい匂いが漂ってきた。思わず鼻がひくつく。この匂いは、大好きなローストチキンかな? 他にも甘い香りがしてる。きっとミセス・ダーシィがお菓子を焼いたんだな。一体何だろう。 ワクワクしてキッチンに走り出した僕。ツォンは早足でその後を追ってくる。 目を輝かせて椅子に飛び乗り、テーブルの上を眺めている僕を抱き上げて、ツォンはリビングのソファに連れて行く。 せっかく、美味しそうな匂いを嗅いでいたのにな。つまらないの。ちょっとむくれる僕に、着替えてくるまで待っていてくれないか、と言って去る。 一人で食べても美味しくないし。彼を怒らせたいわけでも困らせたいわけでもないから。そう思って、僕はちゃんと大人しくしていたのに。 何でツォンと僕は食べる物が違うんだよ!? 僕だって、ローストチキンが食べたいんだってば! 自分だけ美味しい物食べるなんて。そんなの、ズルイ! 「そんな恨めしげな目で見ないでくれないかな」 詐欺だ、差別だと訴える僕に、彼は弱り果てた笑顔でそう言う。 「私と同じ物を食べるのは、君の身体に良くないんだよ? 病気になったら困るだろう」 そうなの? でも、ひとくち位くれても、毒にはならないと思うんだけどな。 「その一口が、癖になる。これだけは駄目だ」 えーっ。……ツォンのケチ。何て意地悪なんだよっ。 文句をブツブツ言っていると、最後に残った二切れのうち、一切れをくれた。 余分な味付けがされていない、本当に肉だけを。 食べたら気がすんだけど、やっぱりお菓子の方も気になる。で、じっと見ていたら。 食いしん坊だね。匂いだけ嗅いでみるかい? って、フォークに刺したケーキが鼻先にきた。 何、これ! ヒドイよっ。大嫌いなオレンジの匂いがする! 慌てて逃げる僕を見て、ツォンはおなかを抱えて笑っていた。知っててやったね? やっぱり意地悪だ。何てヤツ! リビングのソファまで逃げてきて、ようやく人心地がついた。全く、えらい目に遭ったよ。 やがて、ティーカップを片手にツォンが来て、僕の隣りに座った。 立ち上る湯気からは、紅茶のいい香りがする。ここに来る前、こんな風にくつろいだ気持ちでこの香りを嗅いだことがあったような気がする。 もうずっと昔のことだけど。あまりよく覚えてないほどに。 「まだ怒ってるかい?」 怒るっていうより、びっくりしたんだよ。あんな不意打ちだなんてさ。 「もしそうなら、謝るよ。すまなかった。だがね」 何だろう? 真剣な顔して。 「君には、塩分もアルコールも御法度だ。私には何でもない量でも、君の体には猛毒なんだよ。他にも、そういう物が沢山ある。これからも、きっと君はいろいろな物を食べたがるだろう。そして、その度に私は止めることになるんだろうが。決して、意地悪をしているわけじゃないんだよ。文句はいくら言ってくれてもいいが、それだけはわかって欲しい」 言い終わると、ツォンは静かに紅茶を飲んでいる。間近で見上げると、端正な顔立ちだよね。初めて見た時にも、綺麗な人間だなぁって見とれたけど。 これは綺麗っていうんじゃなく、格好いいって言うべきなのかな。あの秘書さんも綺麗だった。でも、彼はああいう風に綺麗じゃないもんね。 何だか眠くなってきて、僕はツォンに寄りかかった。乾いた温かい手で頭を撫でられているうちに、いつの間にか意識を失っていた。 自分のベッドに寝かし付けられた時、クスッと笑われた気がした。 翌日。僕をハウスキーパーのミセス・ダーシィに紹介するために、ツォンは午後から会社に出ることにしたらしい。 疲れてぐったりしている僕を見て、彼は苦笑した。 「病院で体力を消耗しきったようだな」 他人事だと思って。検査はされるわ、注射は打たれるわ。――あんなとこ。もう二度と嫌だ。 「さて。今日はこれから病院だよ」 大体ね。車に乗ってから、そういうことを言うなんて。フェアじゃないよ! 仕事しながら、手際よく予約を入れていたなんて。本当に、油断できない。 「彼女はいい人だよ。きっと君も気に入ると思う」 ああ、そう願いたいね。ツォンみたいな意地悪じゃなくてさ。 僕はかなりヘソを曲げた状態で、有能ハウスキーパーにご対面した。 「あらまあ、この子がお話にあった? 何て可愛いんでしょう!」 ミセス・ダーシィは、僕を見るなり目を輝かせた。頭を撫でて、まるで絹のような感触だと感嘆する。まあね。手入れには、これでも気を遣っているからね。 どんな人なんだか、ものすごく不安だったのに。そんな心配は、全然いらなかった。彼女は見た目も中身もふくよかな、感じのいい中年女性だった。 ツォンは彼女にメモを渡して指示していた。その間も、時折僕に視線を走らせては様子を窺っていた。 その結果、僕が彼女を気に入ったらしいのを見届けて、安心した顔で出かけて行った。 一方、僕はと言えば。彼女が軽やかに動いて部屋を綺麗にしていくのが面白くて、邪魔にならないように高みの見物としゃれ込んでいた。 もっとも、掃除機の音だけはどうにも好きになれそうになかったけど……。 「ルーちゃん、ご飯よ。出ていらっしゃい」 ルーちゃん? それ、もしかしなくて僕のこと? 掃除機の破壊的な音が嫌で、日当たりのいいリビングから逃げ出した僕をミセス・ダーシィが呼んでいた。 呼び方はともかくとして。確かに、おなかはすいていた。 僕はあっさりと彼女の企みに乗り、ご機嫌でダイニングへ飛んで行ったのだった。 その夜。多分職場にミセス・ダーシィから僕は大丈夫だと電話があったのだろう。昨日より少し遅くなって、ツォンが帰ってきた。 物音がした途端に、僕は玄関まで走って行った。この家は広いから、結構いい運動になるよね。 まさか僕が出迎えに来るとは、彼は思ってもみなかったらしい。そんなに驚かなくてもいいのにさ。僕、薄情だと思われてたわけ? ……ちょっと傷つくかも。 夕食のあと、僕は今日あったことをいろいろ話した。 ミセス・ダーシィは魔法の手を持ってるんだよ。いた所いた所、みんな綺麗になっていくんだから。洗濯機って面白いんだよ。ゴウンゴウンって音を立てて、中の物が回るんだ。でね? 回ってる間に綺麗になるんだよ。不思議だよねえ。 あ! それから。僕ねえ、クッキー焼くのを手伝ったんだよ。ほら、これ。手形付き。 「手伝い、ねえ」 ツォンは首を傾げてクッキーを眺めていた。それから、僕をしげしげと見る。 恐らく、僕は期待に満ちた眼差しで彼を見つめていたのだろう。いつものクスクス笑いを浮かべて、クッキーを口にした。 食べ終わったあとの感想は、もちろん「美味しいよ」だった。 リビングのソファで食後のお茶を飲むのが、ツォンの日課だった。僕の日課は、そうしてくつろいでいる彼の膝の上で今日の出来事を報告することになりそうだ。 何故って? ――そりゃあ、居心地がいいからね。最高に。 夜中。ふと目を覚ました僕は、家中を歩いてみた。昼間とはずい分感じが違う。 お日様が出ているとあんなに暖かくて気持ちのいい窓辺も、いまは冷たくて。とても長居する気にはなれなかった。動いてない洗濯機は、ちっとも面白くないし。 今日は風が強いみたいだ。家の中にいても、風の吹きすさぶ音が聞こえる。 風の音は嫌いだ。雨も好きじゃない。何だかよくわからない、嫌な感じ。 急に、一人でいるのが怖くなった。どうしよう。お日様が出るまで、ずっとこうやって震えてるのは嫌だよ……。 ふと思いついて、僕はツォンの部屋へ行った。昨日ちゃんと覚えておいてよかった。 ぐっすり眠っている彼の顔をのぞき込んだら、ほっとした。 いたずら心を起こしてサラサラの髪を引っ張ってみたけど、起きる気配は全然無い。 いいなあ、すごく気持ちよさそう。一人でこんな。ズルくない? 僕も交ぜてよ。 ベッドにもぐり込むと、背中を付けて横になった。 ――ツォンってあったかいんだね。まるで、背中にお日様を背負ってるみたいだ。 ふふっ。気持ちいい。安心、安心。 そう思った次の瞬間には、もう意識が薄れていく僕だった。 |