6.

 昼を過ぎ、そろそろ午後の就業時間が始まろうかという頃になって、ようやくルーファウスは姿を現した。
 いつもは冴え冴えとした光をたたえている瞳が、今日ばかりは腫れぼったい。朝目覚めてから、ずっと泣いていたに違いなかった。
「……おはよう。どうしても起きれなくて」
 消え入りそうな声だった。どう挨拶したものか。何と言葉をかけてやればいいのだろう?
 本人を目の前にするまで、いろいろ考えていたはずなのだが。そんなものは、泣き濡れた青い瞳と視線が合った瞬間に、雲散霧消したレノとルードである。
「――いないんだね。明日の打ち合わせ?」
 ツォンの不在に、少しホッとしたような、どこか残念そうな様子でつぶやく。
「ああ。戻りはいつになるかわからないそうだぞ、と」
「ふうん。……引き継ぎをしなきゃね。二人とも、時間ある?」
 感情が抜け落ちたような、虚ろな声。なまじ悲痛な叫びを聞かされるより、その方がずっとこたえる。
「……大丈夫だ」
 サングラスに手をかけ、ルードが位置をしきりに直している。彼の癖なのだ。心の動揺を静める時は、いつもそうしている。
「そう。じゃあ始めよう。……あまり時間もないことだしね」
 一瞬、口元が自嘲の笑いに歪んだ。仕事より何より、彼にはしたいことがあるだろうに。
 だが、言葉を告げるべき人、思いを伝えたい唯一人の人は、いまこの場にいない。
 昨晩、何もなかったはずがない。恐らくルーファウスはツォンを望み、ツォンは彼に応えることも拒絶することもできなかったために、強制的にルーファウスを眠らせたのだ……。
(ったく。うちのボスも相当不器用モンだぞ、っと)
 ため息をつきながら、しかしレノは同時にこうも思うのだ。
(ま、だから可愛くて好きなんだぞ、と。いい年して、何やってるんだか)
 気の毒なのはルーファウスだ、と同情する。こんな宙吊りのまま放り出されて。
 いっそのこと、思いに応えないツォンを嫌いになれればどんなに楽だろう? だが、この様子ではとてもそんな芸当は期待できそうにない。
(……ツォンさん、あんたわかってるのか? 何かをして後悔するのと、しなかったことを後悔するのとじゃ、後の方が時間が経つにつれて辛くなるってこと)
 まるでロボットのように、機械的にファイルの説明や抱えていた調査の進捗状況を説明しているルーファウスを見ていると、この先彼はどうなってしまうのだろう? と漠然とした不安を覚える。
(人の心を無くした支配者、か。ゾッとしないな)
 誰よりも有能で、合理主義者のルーファウス。もし彼が暖かな感情を一切失ってしまったら? ――モンスターの誕生だ。恐らく、彼はプレジデント以上の独裁者になる。
(あんた、あいつをそんな風にしたいのかよ!? ――違うだろ。俺達が一緒に仕事をしてきた可愛いあいつは、そんな未来を望んでいないはずだぜ?)
 詰めていた息を吐きだしたレノの額に、冷たい汗が浮かんでいた。
「どうした、レノ? ……気分でも悪いのか」
 ルードが不審そうな顔をしている。
「ん? 悪ぃな。――ちょっと一服してくる。全く、部屋で吸えないのは面倒だぞ、と」
 執務室は終日禁煙。それにかこつけて、気分を変えようと席を立つレノだった。

 結局、午後は仕事の引き継ぎで終わってしまった。終業時刻になっても、待ち人は現れなかった。ルーファウスは、全身の神経をドアに集中させている。見た目には、私物を片づけながらのんびりとコーヒーを飲んでいるようにしか見えないが……。
「明日は朝からなんだろ、取締役会」
「十時半からね。議題はそれだけ。十一時からプレス発表。報道機関の情報解禁が正午で、午後一番に全社員へ告知だってさ。いい晒し者だな」
 社長秘書室室長から手渡されたスケジュール表を、ルーファウスは気のない様子で棒読みした。
「全社員へ、告知ィ〜?」
「社内放送を一斉にかけるって話だよ。本社では、生でやるみたいだな」
「……手のあいている者は大ホールへって、あれか」
「私は、まるで道化だな」
 首を振ってヒステリックに笑う。
「副社長といっても、単なるお飾りなのにな。実際の権限は、全てあの男が握っている――」
 その時、ドアが開いた。長時間の打ち合わせで、さすがに疲労の色は隠せないらしい。あるいは、別の原因のためなのか? ツォンの顔色は優れなかった。
「お疲れ様です、と」
「……明日の手順は? 何か変更ありますか、ボス」
 二人から、同時に声が上がる。持ち帰った書類をデスクに置くと、ツォンは指示を手際よく下した。
「じゃあ、俺達今日はこれで失礼させてもらいますよ。誰かさん、あんたのことずっと待ってたんだぞ、と」
「……お先に失礼します」
 出て行く時、一瞬自分の方を見てレノがニッと笑う。がんばれよ! とでも言いたげに。
 ルーファウスの頬が、バラ色に染まる。ツォンは、意を決したようにルーファウスに近づいていった。
「昨日は、すまなかった」
 ルーファウスの肩がピクリと震えた。何か言おうとして唇が動くが、明瞭な言葉にならない。
「あれからずっと考えていた。この手に落ちてきた運命を」
 うつむき加減だったルーファウスが、ハッとして顔を上げた。
 いま彼は何と言った? 聞き間違いではないのか?
 ――運命。彼はそう口にした。この思いは、受け止めてもらえるのだろうか。
 椅子から立ち上がったルーファウスは、切ない瞳でツォンを見上げた。そんな彼に、ツォンは優しく微笑んだ。
「昨日の言葉――あれを信じてもいいの?」
 よほど昨日の拒絶がこたえているらしい。腰に腕を回されても、まだ瞳から不安の色は消えない。そんなルーファウスを、ツォンはそっと抱き寄せた。
「髪の毛一本までも、この身は君のものだ。心は――言うまでもない」
「……っ!」
 信じられない、うわごとのようにそうつぶやいたルーファウスの唇に、ツォンの唇が重ねられた。
 昨日とはうって変わった情熱的なキスに、ルーファウスは最初とまどったようだった。だが、すぐに受け入れて、その行為に没頭していく。
 やがて息が続かなくなったのか、名残惜しそうな表情をしながら唇を離した。
「……立っているのが…辛い……よ…」
 乱れる息で喘ぎながら、ルーファウスは味わった快美を訴えた。その潤んだ瞳と甘やかな声に、ツォンは背筋がゾクッとするほどの快感を覚える。そして、再び深く口づけた。
 どれほどの時間を、そうしていただろう。どちらからともなく離れると、ルーファウスは囁くように言った。
「……抱いて。同じことを明日言ったら、命令になる……。そんなの、嫌だ…っ!」
 声音に、縋りつく響きが混じっている。それは、ツォンの征服欲を煽り立てるのに十分なものだった。
 象牙を彫り上げたかのように白くなめらかな首筋を、唇が滑っていく。
「……ぁ…っ……や…だ。ここじゃ……っ…」
 羞恥に身をよじり蚊の鳴く声で抗議する。それから、うっとりとした顔で見上げて甘える。
「ツォンの部屋に、行きたいな」
「心配しなくても、ここでだなんて。そんな非常識な真似はしないさ」
 そう答え、クスッと笑いを漏らした時だった。突然、電話の受信音が鳴り響いた。
 こんな時間に、一体誰が? 無言で会話が交わされる。
「内線だね。ツォンの席だ」
「仕事なら、今日はお断りだ」
 肩をすくめ、電話に素早く出る。瞬間、ツォンの表情が凍り付く。
「はい、かしこまりました。……いま向かわせます」
 そう言い、受話器を置く。その固い表情に、ルーファウスは首を傾げて目で問う。――誰? と。
「プレジデントからだ。君に話があるから、部屋まで来るようにと」
「気のきかない……っ。でも、無視するわけにもいかないな。ツォンに迷惑がかかるよね?」
 ため息をついてツォンの首に両腕を回し、キスをする。
「戻ったら……この続きを。待ってて」
 部屋を出る瞬間、ルーファウスは振り返って笑った。
「約束だよ。忘れないで」
 その透明な笑顔の残像がまだ脳裏に焼き付いているツォンの耳朶を、電話の受信音が襲った。
 胸騒ぎがした。嫌な予感に、受話器を持つ手が震える。
「ああ、さっき言い忘れたんだがね。ルーファウスは、今夜は帰らん。そのつもりでな」
 ツォンの手から、受話器が滑り落ちた。――世界が闇に染まった。

 絶望に苛まれ、眠ることもできずに来客用のソファでまどろんでいたツォン。
 何かがドアにぶつかる音を聞いた気がして、デスクから銃を取り出す。弾倉を確認すると、撃鉄を起こしていつでも発砲できるようにする。そして、銃を手にドアの横に立つ。
 不審者に備えて、それは当たり前の行動だった。だが機械の正確さで動く身体とは裏腹に、頭は熱病に侵されたようにある思いに囚われ、神経が焼き切れそうだった。
 もどかしい思いで、ドアを開ける。何の物音もしない。危険な気配が全くしないのを確認したツォンは、予想した人物の姿を入口の床に見出して、その酷い有様に息を呑んだ。
「ルーファウス……ッ!」
 ここにたどり着くのが、恐らくは精一杯だったのだろう。入口のIDカードのスリットに、カードを通す気力は残っていなかったらしい。気を失って倒れているルーファウスのそばで、それは空しく輝いていた。
 このままにはしておけない。部屋からコートを取ってくると、ツォンはルーファウスに着せて抱き上げた。血の気のない彼の白い頬には、涙の跡があった。
 あの男を、殺してやりたい……!
 仕事で人の命を奪うことはあっても、彼らターゲットに対して殺意を抱いたことはない。「仕事」に感情など入る余地はなかった。ただ、任務の遂行後にかすかな罪悪感を覚えるだけだ。
 生まれて初めて、この手で人を殺したいと思った。自分の命よりも大切なものを傷つけられた、復讐に。
 激しい怒りに身を任せたかったが、いまは腕の中の傷ついた青年の手当をする方が先だ。そう考え直し、自宅へと急いだ。
 深夜とあって、人には会わないのがせめてもの救いだ。
 バスタブに湯を張り、冷え切った身体を暖めてやる。その白い華奢な身体から陵辱の跡をぬぐってやりながら、よくもこんな酷いことができるものだと涙がこぼれた。
 ベッドで眠り続けるルーファウス。こんな風に寝顔を眺められるのも、これが最初で最後だろう。そう思い、目にかかった前髪を掻き上げてやった。
 カーテン越しに朝日が射してくる。運命の一日の始まりだ。
 ルーファウスの瞼が、ひくひくと動いた。やがて、ゆっくりと開かれる。青い瞳が、自分を見つめた。
 だが、焦点は合っていない。虚ろなガラスの瞳だった。ルーファウスはぼんやりとしたまま、上体を起こす。
「ルーファウス……」
 名前を呼び、それ以上見ているのが辛くなって抱きしめる。――万感の思いを込めて。
 瞬間、ルーファウスから悲鳴が上がった。同時に、自分から離れようとして必死でもがく。その身に起きた事態が容易に推測できる激し過ぎる拒絶に、ツォンは心が引き裂かれる思いだった。
「ルーファウス、私だ。大丈夫だから……もう心配ないから……」
 できるだけ優しい声で呼びかけ、背中をゆっくり撫でる。ルーファウスはもがくのをやめ、転げ落ちそうな大きな瞳が自分をとらえた。いくら見ていても見飽きない、宝石のように美しい瞳。それが、みるみる涙を湛えていく。
「ツォン……?」
「何も言わなくていい。辛かったろう? 守ってやれなくて、すまない……」
「ごめん……ごめ…ん……っ……」
 悲痛な声が、こだまする。一向に涙が止まらないルーファウスを、ツォンは黙ってただ抱きしめるしかなかった。
「あいつ、クラウドのことも…僕をそう扱うのは、息子だと思えないのは……わかるけど。クラウドは、そうじゃないだろう? 生まれた時から……ずっとそばで育ってきたのに。そんなの、酷いよっ……!」
「君は本当に強いな。この状況で、自分より他人の心配をしてるなんて。君の心を支配することは、プレジデントといえどもできなかったらしい」
「あいつがクラウドに手を出すのをやめさせられなくて、その醜行に耐えられなくて――プレジデント夫人は自殺したんだ。そうセフィロスが話してくれたよ」
「……!」
 数年前、謎の死を遂げたプレジデント夫人だったが、裏の事情を知るのはこれが初めてだった。
 もっと早く知っていれば、絶対にルーファウスを一人で行かせはしなかったものを。
「何の抵抗もしないクラウドより、絶対に媚びようとしない僕の方が面白いらしいよ。あいつは、睨み付ける僕を笑いながら何度も抉ったんだ――!!」
「もういい、それ以上自分を責めないでくれ……!」
 自分に取りすがって泣きじゃくっていたルーファウスが、ふいに顔を上げた。
「力が欲しい。誰にも負けないほどの力が。もう二度と、こんな思いをしなくてすむように。いまツォンがあいつを殺したら、僕はツォンを守れない。自分の身だって怪しいものさ。だから、絶対にそんなこと考えないで。――お願い。こんな目に遭ってもまだ生きていようと思うのは、いつか誰にも邪魔されずに、こうしていられる時が来ると信じてるから――」
 身体を重ねるのに躊躇する理由は、もはやなかった。
 ツォンは誘われるままにルーファウスと――ただ落ちていった。