5.

「――彼から連絡があったら、午後からでいいと伝えてくれ。私は、これからプレジデントと打ち合わせだ」
 心なしか、そう言うツォンの声に張りがない。だが、レノはそれをからかう気にはなれなかった。
「わかったよ。終了予定は何時ですか? と」
「それは、部長に聞いてくれ」
 苦笑いを残し、ツォンは70階へと去っていった。
「ツォンさんがああじゃ……あいつはどんなことになってるやら」
「……だから睡眠薬を飲ませたんだろう」
「そりゃそうだな、っと」
 昨日、ツォンはルーファウスに彼の素性とこれから彼が手に入れる諸々のことについて話して聞かせる、という実に気の重いことをしなければならなかったのだ。
 個人的な話がある、と言われたルーファウスは、自分のコンドミニアムにツォンを誘った。彼が紅茶をいれて姿を現すまで、ツォンはひどく殺風景な室内に呆れたような視線を巡らせていた。
 生活感がないわけではない。クローゼットには、きちんとクリーニングされたスーツがかけられている。机には、読みかけの本。ソファには今朝の新聞が投げ出されていた。
「――ん? これは」
 机の上には、一人の少女の写真が飾られていた。数年前のものらしく、少し色褪せている。だが、ルーファウスがそれを大切にしているらしいことは、ガラスに埃がついていないことでよくわかった。
「ティファ・ロックハート……幼なじみ、いや、ガールフレンドというべきかな?」
 つい二週間前、会ったばかりだった。活発で、素直で明るい少女だった。黒目がちの瞳に、癖のないダークブラウンの髪。肩を少し過ぎるくらいの髪は、ツヤツヤと輝いていたものだ。
 自分が神羅の、しかもミッドガル本社の人間だと知って、あの少女はルーファウスの消息を知ろうと懸命にあとをついて回っていたものだ。
「ルーったら、手紙をよこす度に『またケンカした。今度の所も長くないな』って。始末書を山ほど書いたよって。でもね、いまいる所はすごく居心地いいんだって言ってたの。上司がとてもいい人なんだよって。仕事には厳しいけどいろいろ教えてくれるし、私生活の面倒見が親切だからって。ねえ、今度こそ大丈夫かしら? ルー、こんなケンカばかりしてて。いまに神羅をクビになっちゃうんじゃ」
 少女は、真剣にルーファウスの身を心配していた。そして、ルーファウスの机の上には少女に宛てた手紙がまだ書きかけの状態であった。そのそばには、少女からのものと思われる手紙が山をなしている。
 ツォンは、この幼い、淡い恋が決して成就しないだろうと思うと、胸がかすかに痛むのを感じた。
「お待たせ。――あ、ティファっていうんだ。幼なじみでね。村の子供達の中でただ一人、僕のことを父親がいないって苛めなかったんだよ。ちょっとお転婆なのが玉にキズだけどさ。別れてから五年経ったし。きっと少しはレディになったんじゃないかな?」
 背伸びしている仕事中には見ることのできない素顔は、まだ少年めいていた。自分のことも「僕」と呼んでいる。
 ルーファウスは楽しそうにクスクス笑いながら、テーブルにお茶を置いた。
「ああ。ありがとう」
 ツォンはソファに戻り、出された紅茶を一口飲む。
「――美味しい?」
 ルーファウスの無邪気な笑顔が、いまの自分には辛い。目を伏せて、湯気が目にしみたふりをする。
「ああ。いい香りだ。水色も綺麗だし、渋みも出ていない。とても美味しいよ」
「良かった。こんな風に家でくつろぎながら話をするのって、初めてだから。正直言うと、少し緊張してたんだ」
 優雅な動作でカップを手に取り、薄い白磁に口をつける。しなやかな指は、思わず見とれたくなるほどに美しい。
 総務課の女性達が、手のモデルができそうだと騒いでいたのを思い出す。
 それを聞いて、たまたま居合わせた兵器開発部長スカーレットが、あと5p背が高ければ手どころか、売れっ子のモデルになれるだろうと笑っていた。
 総務課での用をすませた後、外観エレベーターに乗り込んだツォンにスカーレットが話しかけてきた。
「ねえ、あの子結構役に立つでしょ?」
 てっきりスカーレットとの折り合いが悪くて兵器開発部から異動になったものとばかり思っていたツォンにとって、この言葉は意外だった。
「私は、出したくなかったのよ。でもねぇ、プレジデントの鶴の一声であんたにとられちゃったのよ? 苛めたりしたら、許さないんだから。キャハハハハッ!」
 プレジデントが、何故彼に関心を? そう言いたげなツォンに、スカーレットはあくびをしながら答えたものだ。
「ほら。人事が出してる紙のムダ! 何て言ったかしら? ――ああ、『神羅便り』。あれに出てたのよ。新入社員達が新年の抱負を語るヤツ! どんなコト言い出すかわからないから、やめておけ!! そういう声が多かったらしいわ。でも、何せ可愛いじゃない? 配られた瞬間ゴミ箱へ捨てられるのを阻止しよう、っていうんで表紙にあの子がくるようにレイアウトしたらしいのよ。そうしたらね」
 ここでスカーレットは声を潜めた。耳元に囁くために近づいたスカーレットの香水の匂いが、脳髄を侵していく。
 そのせいで聴覚がおかしくなったのではないか、とツォンは一瞬思ったほどだ。
「それを印刷、配付することを伺う決裁を見て、プレジデントが血相変えたらしいわ。何でも、秘書達に人事記録を持って来させて、食い入るように見ていたらしいのよ」
「じゃあ、タークスへの異動は――」
「プレジデントのお声掛かり。人はいろいろに言うけど、大抜擢なのよ?」
 ここで66階に着いたため、スカーレットは降りていった。69階の社長秘書室に用のあったツォンは、そのまま残った。
 そして、プレジデントがルーファウスに目を留めた理由を考えてみたのだが、どうにもわからなかった。
 それが、配属一週間後のことだったのだ。その時は、まさか彼がプレジデントの庶子だとは思ってもみなかった。ただ、珍しい経歴に興味を抱いたのか? ぐらいにしか考えなかったのだ。
「――ツォン?」
 カップを手にしたまま黙り込んでしまったツォンを見て、ルーファウスは不審そうにすんなりとした眉をひそめた。そして、向かい合わせに座っていたのを隣りに移って来る。
 息づかいさえ感じ取れるほどの距離から青い瞳に射すくめられて、ツォンは思わず言葉を失っていた。
「一体、何を知ってるの?さっきから様子がおかしいよ。僕のことで、何か話があるんだろ? どうもいいニュースじゃないみたいだね」
「そんなことはない。栄達を願う君には、この上ないニュースだよ。ルーファウス、君には父親がいないだろう? だが、最近になって君の父親だと名乗りを上げた人物がいるんだ」
「へえ? ずい分な物好きもいたもんだね。さんざん放っておいて、今頃何の用なのさ? 母さんは、とても苦労したんだ。それを、よくもしゃあしゃあと……っ!」
「君が生まれてすぐに、君の父親は政略結婚することになった。その選択は、事業家としては正しいものだった。だが、君のお母さんには耐えられなかった。そこで、君を連れて彼女は永久に彼の前から姿を消すことにした。彼女が彼から得たものはただ一つ、君の名前だけだった」
「それで?」
「君の父親は、自分が築き上げた物全てを君に譲る決意をした。幸福にはしてやれなかった君のお母さんの分まで、君には幸せになって欲しいと思ったんだ――」
「TVドラマでよくやっているような、そんな安っぽい作り話。僕が信じると思ったのかい?」
「では、こう言えば納得するかな。正妻の生んだクラウドは、世界に覇を唱える我が神羅カンパニーの跡取りにはふさわしくない、精神的に脆弱な人間だった。しかし、君は違う。君なら、いずれ誰もが畏怖するような支配者になるだろう。少なくとも、その素質はある」
「勝手なことを! 僕がそれを『はい、そうですか』と尻尾を振って受けるとでも!? 馬鹿にするのも、たいがいにしろ!!」
「そう言うと思ったんだ」
 ツォンは少し困ったような、だが、この答えを予期していたと言いたげな暖かい微笑みを浮かべている。ルーファウスは気勢をそがれたのか、一瞬沈黙した。
 それを見て、淡々とツォンは言葉を続ける。
「明後日、緊急の取締役会が開かれる。その席上、君が副社長に就任することが決議される手筈になっている。――おめでとう。意外に早く階段を登りきったようだね?」
「本気で……そう思っているのかい?」
 心外だ、と言わんばかりにルーファウスは瞳をうるませている。
「明後日になれば、君は私に命令する身の上になる。立場は逆になるが、これからもよろしくな」
 努めて平常心を装うツォンに、ルーファウスは激しく首を振って否定する。
「違うッ! 僕が欲しかったのは……そんなものじゃ……な…い……」
 涙があふれ、声が詰まる。秀麗な貌が心に受けた痛みのために歪んだのを見て、ツォンは激しい後悔の念に襲われた。
「僕は……確かに権力が欲しかった。誰にも自分を壊されたくなかったから。大勢の人間を意のままに操るのは、とても面白いゲームに思えたから。でもそれは、本当に欲しい物が何なのか、自分でもわからなかったからだ。いまは――違う。僕はついに、心から欲しい物を見つけたんだ。たった一つの、他に替えられない願いを。それが手に入らないのなら、例え世界を手に入れたとしても……何の意味もない」
「ルーファウス……!」
「僕が欲しいのは、ある人の心。金や権力では、決して手に入らない物。だから、副社長だなんて迷惑だ。――このまま、ずっとそばにいたいのに」
 わかっていた。だが、こんな風に告白されるとは思ってもいなかった。プライドの塊のようなルーファウスにとっては、まさに血を吐く思いだったに違いない。
「ツォン……」
 吸い込まれそうな青い瞳でじっと見つめられるのは、どんな言葉よりも説得力があった。切ない表情に思わず理性が揺らぎそうになるのを、懸命に踏みとどまる。
「駄目だ。――きっと後悔する」
 そう言いつつ、ツォンは自問自答する。後悔するのは、果たして彼なのか?
 それとも――自分なのだろうか、と。
「好きなんだ……!」
 ツォンの視界を、黄金色の髪が舞った。次の瞬間、唇に柔らかな感触があった。
 このまま抱き寄せて、思うさま貪りたい……。
 そう思う心を必死で抑え付け、自分に回されたルーファウスの腕に手をかけた。ソルジャーにも劣らない腕力を持つツォンに、ルーファウスが力で勝てるはずもない。無理矢理引き離されて、サファイアの瞳に再び涙があふれ出した。
「どうして……?」
 ようやくその一言を口にしたルーファウスに、ツォンは沈痛な声で諭す。
「いけない……私などを相手に選んでは。君には、もっとふさわしい相手がいる」
「会社のために有益な、どこかのご令嬢ってヤツ!? ――そんなの!」
「だが、君はクラウドに同じことをしようとしていた」
「だから? 僕はあいつとは違う。欲しい物があれば、どんな困難があろうと必ず手に入れて見せる。何もしないで最初から諦めるようなことは、絶対にしない!」
 生命力を凝縮したような、強い輝きを放つ瞳。まっすぐに見つめられると、そのまま視線に捕らわれてしまいそうになる。
 いや、もう捕らわれているのだ。出会ったその瞬間から。ただ、自分がそれを認めたくなかっただけで。
 どう言って聞かせても、素直にルーファウスが引き下がるとは思えなかった。ならば。
「私は――きっと君を幸せにはできない。それでも私を望むというのか?」
「何が幸せかは、僕が決める。そうだろ?」
 迷いのない澄んだ瞳に一抹の罪悪感を覚えつつ、ツォンはルーファウスの背に腕を回す。一瞬、ルーファウスは身を固くした。が、すぐに抱き寄せられるままに身を預ける。
 そんな彼を心底愛おしいと思いながら黄金の髪を撫で、その柔らかな感触を楽しむ。
 ツォンの胸にうっとりと顔を埋めているルーファウスには、ツォンがそっと錠剤を口に含んだのがわからなかったろう。
「ん……っ」
 顎に手をかけられ、上向かせられた。そして――優しいキス。
 だが、ルーファウスはすぐに異変に気づいた。
「な……にを…飲ませた……?」
 唇を離し、喘ぎながら潤んだ瞳で問う。
「睡眠薬だ。かなり強い薬だよ。――じきに瞼が重くなるはずだ」
「ヒドイ……よ…」
 薬の効き始めたルーファウスは、ぐったりとしたまま身動きできない。ツォンはそっと抱きかかえると、ベッドまで運んでやった。
「本当に大切なものだから……傷つけたくないんだ。許してくれ……」
 薄れゆく意識の中で、ツォンが自分に寝具をかけて髪を撫でているのを感じる。
「――愛しているよ。この世の何よりも」
 それが、ルーファウスが完全に意識を失う前に聞いた最後の言葉だった。
 ――白い頬を、涙が一筋伝っていった。