2.

 あれから、数日が経つ。相変わらず、ルーファウスは口をきこうとはしてくれない。だが、単に嫌われているというのでもなさそうだ。
「――?」
 気がつくと、物陰から白い服がのぞいている。後ろを振り返ると、サッと隠れる気配がする。口をきこうとはしないくせに、私のあとをついて回っている。
 ――どうにも理解に苦しむ行動だ。
(一人でかくれんぼをしている……というわけでもなさそうだな)
 この状態に耐え難くなって、私はルーファウスを捕まえようと決心した。いつものようにあとをついて来ていることを確かめると、邸内を歩き回ってまいてしまう。そして、先回りして待ち伏せる。
「――あれっ?」
 姿を見失い、きょろきょろとあたりを見回しているルーファウス。首を傾げている彼に、気配を消してそっと後ろから近づいていく。どうやら、成功だ。こちらに全く気づいていない。予定通り、不意打ちをくらわせることにする。
「何かお探しですか、ルーファウス様?」
「うわっ!!」
 心底驚いたのだろう。青い目を見開いて、凍り付いたように動かない。
「どうなさいました? あなたは私に、一体何をして欲しいとお望みなんですか?」
 私は静かに、彼の次の行動を待った。だが、ルーファウスの口から出た言葉は、私の想像の埒外にあるものだった。
「ツォンのばかァッ! お前なんて、お前なんて……大っキライだ!!」
 ポロポロと涙をこぼし、顔を真っ赤にしてそう怒鳴ると、あっという間に目の前から駆け出していった。
 あまりにも一瞬のことで、私は事態がよく呑み込めなかった。どうやら、いま私がとった行動は、いたくルーファウスの心を傷つけたらしい。――何故?
 だが、このままにしておくわけにもいかない。いろいろ考えたあげく、私はキーヤ夫人の私室へと向かった。

 夫人は、書き物机で誰かに私信をしたためているところらしかったが、私の困り果てた様子を見るとその手を休め、優雅な微笑を浮かべてソファに腰をおろすよう勧めた。
「ルーファウス……坊やのことでしょう?」
 どうやら、私が訪れた理由に心当たりがあるようだ。
「もうそろそろだと思っていたの。あの子は、とても不器用だから」
 困ったことだけれど、と言って夫人は優しく笑う。
「それで? あの子、あなたに何と言ったのかしら。いえ、それとも何かされた?」
 私は、ついさっきあったばかりのやり取りを話した。自分の不注意でルーファウスをひどく傷つけてしまったらしいのだが、原因がわからず困っている、と。
「不注意、ねえ……。まあ、そうと言えなくはないのだけれど。わたくしは、あなたが悪いとは思わないわ」
 謎めいた微笑み。夫人が何を言おうとしているのか、私には見当がつかない。
「あなたは、ここに来るまでごく普通の生活をしていたでしょう? ご両親は、仲睦まじかったと聞いていますよ。同じ年頃のお友達も、大勢いたのよね。人との距離というものを、あなたはごく自然に身につけているはずですよ。でもね、あの子は違うの。あの子は、生まれてからいままで他人から放って置かれたことがないのよ。特別な努力をしなくても、人は皆、あの子に注目してきたの。そして、あの子はそれが当然だと思ってきた」
 キーヤ夫人はここで言葉を切り、じっと私を見つめた。決して非難してはいないが、その瞳にはひどく真剣な色がある。私はそれに引き込まれて、まばたきするのも忘れるほどだった。
「あなたの前にここによく来ていたタークスのメンバーがいた、というのはもう知っているわね。彼もね、あの子が自分からなついたんじゃないの。彼の方が面倒見のいい性格だったから、根気よくご機嫌をとってくれて、あの子は我が儘いっぱい振る舞っていればよかったのよ。でも、あなたは違った」
 瞬間、初めて顔を合わせた時のことを思い出す。不安そうな様子で母親の陰からそっと顔をのぞかせていた少年。その人形のように整った顔に浮かべられた、当惑の表情。
 自分に無関心な人間を初めて目にしたルーファウスは、どうしていいかわからなくて困り果てたのだろう。そう気づいて、可哀相になる。感情を出すまいとしたのは、仇であるプレジデントの息子に平静を保ったまま相対することができるかどうか。自分でもわからなかったからだ。
 そんな不安は、ルーファウスを一目見た瞬間に雲散霧消した。深い青色をした、澄み切った瞳。心の底まで見透かされるような――。
 母親に愛されてはいても、周囲は大人ばかり。同じ年頃の友達はいない。遊び相手が一人もいないなんて、子供にとっては寂しすぎる環境だ。こんな幼いのに、もう孤独の影をその身にまとっている。私は、ただの一目で心を奪われたのだった。愛らしい、子供らしい容貌とは裏腹の、ひどく大人びた表情。そのアンバランスさに、目が釘付けになったのだ。もちろん、顔には出さなかったのだが……。
「どうしたら……? そんなつもりじゃなかったのに。ただ、プレジデントの子供だというから……私が勝手に身構えていただけなのに」
 途方に暮れる私を、夫人は抱きしめた。
「言ったでしょう? あなたが悪いとは思わないわ。だって、あなた自身がまだ保護者を必要とするのに、それを無理矢理奪ってしまったのは――わたくしの夫なのですもの。それなのに、あなたはわたくしや坊やに憎しみを向けないでくれるのね」
「――どんなに悲しんでも、なつかしい日々は取り戻せない。プレジデントを殺したところで、現在の世界が変わるわけではない。まして、何も知らないルーファウスに罪はない。貴女にも――。プレジデントが貴女の夫でありルーファウスの父であることは、貴女方が望んだことではないのでしょう? その位、見ていればわかります。私には、お二人を責めることなどできません。復讐心が、全くないと言えば……それは嘘になります。でも、心の闇に囚われそうになる私に、光を投げかけてくれたのはルーファウスなんです。人は、生まれよりも育ちの方が大切なのだと。プレジデントとは全く違うあの子を見ていると、成長して大人になったら、神羅がもう自分のような人間を作り出すようなことはなくなるのでは。そんな気がして」
「あなたは、優しいのね。ありがとう」
 夫人が私の額にそっとキスをした、その時だった。背後に、人の気配がする。
 いつの間に、ドアを開けて様子をうかがっていたのだろう。ルーファウスが、いまにも泣き崩れそうに顔を歪めて立っていた。よりによって、最悪のタイミングだ。くるりと回れ右をして、走り去っていく。
「のぞき見なんて……! あの子ったら」
 私は困惑する夫人にお礼を言うと、急いでルーファウスのあとを追った。

 ルーファウスは、海岸へと続いているバルコニーの階段に座り込んで泣きじゃくっていた。
 私の姿に気づくと、急いで手で涙をぬぐう。逃げられないと観念しているのか。気丈にも、私を睨み付けてくる。
「……あっちへ行けよ」
 嵐の前の静けさ。私を拒絶する言葉の冷ややかさの裏に、膨大なエネルギーが渦巻いているのが感じられる。
「申し訳ありませんでした。私は、あなたに不愉快な思いを味わわせてしまったんですね。これでは、護衛失格です」
 必死で涙をこらえている様子は、痛々しいくらいだった。思わず、私はルーファウスを抱きしめた。
「放せよっ! お前は、お母さままで僕から取り上げるんだ。僕には……お母さましかいないのに。他に、何もないのに! 大切なものを僕から盗んでおいて、謝ったって。――誰が許すもんか!」
 叫びつつ、私から離れようとして身をもがく。
「私は、ルーファウス様にそんな真似をした覚えはありませんよ」
 静かに声をかけ、頭を撫でた。羽毛のような感触の、癖のない髪。そんな真似をされるとは思ってもみなかったのだろう。ルーファウスはもがくのをやめ、その大きな青い瞳で私をまじまじと見ている。
 綺麗な瞳に、一瞬吸い込まれそうな感覚を覚えた。
「ウソだ」
 いまにも涙がこぼれそうだった。自分が犯罪者になったかのような罪悪感で、胸が痛かった。
「嘘じゃありませんよ。あなたのお母様が私を気にかけて下さるのは、同情心からです。あなたへの愛情とは、全く種類の違うものなんですよ」
「……それが本当だったとして、なぜお母さまに同情されるのさ。お前、何者なの?」
 いま真実を全て話したところで、それはルーファウスを傷つけるだけだろう。彼に責任のないことで、その心を傷つけるような真似はしたくなかった。私は階段に座ると、ルーファウスに隣りに座るよう促した。
「いまは信じていただけないかもしれませんが、私はあなたが大好きですよ。だから、あなたにそんな顔をされると――とても辛い。私がここへ来た理由を話せば、あなたはきっと心を痛めるでしょう。いつか心の整理がついたら、必ずあなたにお話しすると約束します。でも、いまは聞かないで下さいませんか?」
「ウソだ……そんなの、ウソだ! 信じられるもんか。だって、お前……笑ってくれたことないじゃないか!」
「ええ。もう二度と笑うことなどできないと思っていました。あなたに会うまでは」
 青い瞳から、涙がポタポタと落ちた。それをハンカチでぬぐってやりながら、努めて微笑もうとする。
「とても辛いことがあって――いまも思い出しては、夢に見るんです。その度に、心が引き裂かれそうになります。絶望と復讐しかない私の心。そんな暗闇に、あなたとキーヤ様が光を投げかけて下さったんですよ。明るくて、素直で、生きる喜びを凝縮したような輝きを放つあなたを見ていると、人間らしい感情を失った私も生きるのが辛くなくなります。死ぬことはいつでもできる。だがその前に、もう一度だけ希望を抱いて、それに裏切られてからでも遅くはないと。何もかも失った私に、神様は再び愛する者を与えて下さった。それがあなただと――そう思いたいんです」
「僕のこと……キライなんじゃないの……?」
「言ったでしょう? 大好きですよ。私は、仕事だというだけであなたに尽くせるほど寛大な人間じゃない」
「ホントに?」
「信頼を得たいと願う人に対して、嘘をつくようなことはしませんよ。安心して下さい。ただ……笑えないのは、決してあなたのせいじゃありません。もう少し、時間を下さいませんか」
「……頭、もう一度撫でてくれる?」
 ようやく泣きやんだルーファウスが、不安そうな眼差しでそう言った。私は、気分を落ち着かせようとゆっくり撫でてやりながら、静かに言い聞かせた。
「あなたは、素直ないい子ですよ。ここへ来る前、癇癪持ちで我が儘だからと――それはひどく脅されたんですけれどね。寂しいのでしょう? 遊び相手もいなくて、ただ一人で」
「お前は、僕の目の前からいなくなったりしない? ずっとそばにいてくれる?」
「そうしたいと思っていますよ。ただ、私の生殺与奪の権はプレジデントが握っています。ですから――」
「僕が守る! 早く大人になって、お前のこと守ってやる! だから、いままでの奴らみたいに急にいなくなったりしないで。お母さまみたいに、いつまでそばにいられるかわからないだなんて、言わないで。独りに……しないで。独りぼっちは、イヤだ……!」
 自分にしがみついてきたルーファウスから漏らされた、悲痛な叫び。聞いている方の心が千切れそうになるほどの、深い悲しみに彩られた孤独。それは、こんな幼い子供が味わうべき感情ではないだろう。
「あなたの気持ちは、わかるつもりです。私には、帰る所もない。私の国は、もうこの地上にないんですよ。肉親も友人も、皆亡くなりました。私は、何故自分だけが生きているのかと、そればかりを考え続けていました。でもこうして、あなたに会った。これがただの偶然だとは思いたくない」
「昔のことは、お前が話してくれるまで聞かないよ。二度と聞かないから……!」
「――約束して下さいませんか? 私は、あなたの前から突然姿を消したりしない。その代わりに、あなたも私の前からいなくなったりしないと」
「約束する。絶対だよ!!」
 あたりの空気まで輝くような笑顔が弾けた。この人には、いつもこうして笑っていて欲しい。この人が涙を流すのを見るのは、私には辛すぎるから――。

 結局、私の口から私の過去が語られることはなかった。
 ルーファウスは約束を守り続けた。私の過去については沈黙を守っているが……自分で調べて、とうの昔に全て知っているのだろう。それを私に気づかせまいとするのは、彼の優しさというものだ。
「――行くぞ」
「はい」
 少し窮屈で退屈な毎日の中で繰り返される、変わらないやり取り。素っ気ない言葉に秘められた願いは、いまも変わっていない。
 ――そばにいて欲しい。ずっとこのまま。そしてどんな時も、あなたの最後の味方でいたい。
 変わらない思い。変わらない願い。そして、もう一つ変わらないのは、あなたとの距離。あと一歩踏み出せば、何かが変わるのかもしれなかった。でもお互いに、そうすることをためらっている。
 それなら、いまはまだ、このままでいい。手の中にある幸福を、失うような真似はするまい。いつか訪れるだろう変化の時まで、もう少しだけこのままいたい。
「いま、何を考えていたんだ? 人の顔を眺めて、急にニコニコして。気味悪いぞ」
「すみません。お会いしてから、ずい分長い時間が過ぎたなと思っていただけです。――いままでもこれからも、こうしておそばにいられればいいのに、とね」
「お前……大丈夫か? ちょっと働き過ぎじゃないのか!? 本当におかしいぞ!」
 呆れ顔でそう言ったルーファウスが、ぷいっと顔を背けてつぶやいたのを聞き逃さなかった。
「全く、今更何を言うんだか……。当たり前じゃないか、そんなこと」
「その当たり前の毎日を、神様に感謝したい気分なんですよ」
「――ツォン。お前、やっぱり疲れてるんじゃないか? 今日のお前は、絶対ヘンだぞ! すぐに休暇を取れ! これは、副社長としての業務命令だからなっ!!」
 私が肩をすくめると、ほんの少し頬を上気させて言葉を続ける。
「一人で休むのも退屈だろうから、私も一緒に休んでやる。いつ取るか決めたら、必ず報告しろよな」
「それは――。そうですか? では、さっそく明日」
「冗談言うんじゃないっ。そんな急に、スケジュール変更できるか!」
「明後日」
「知ってるくせに、嫌がらせか? 役員会議があるじゃないか!」
「明々後日」
「……お前、そんなに私を虐めるのが楽しいのか?」
 その日は、パルマー銀行頭取との昼食会がセットされていた。午後からは、視察が二件入っている。
「困った方ですねえ。休みを取れとおっしゃる一方で、この日は休むな、その日もダメだと難癖をつける。私は、一体どうすればいいんですか?」
 くすくす笑う私に、憮然とした表情を浮かべている。予定がいろいろ入っているのは、私のせいじゃないぞ。そう言いたげだ。
「私じゃなく、ルーファウス様のスケジュールに合わせた方が早いですよ。あとで秘書に確認しておきます」
「……悪かったな、ヒマ人じゃなくて」
「副社長とも思えない発言ですね」
 他愛のない会話。だが、こんな些細なことが幸せの実感を作り出しているのだろう。
 誰かが言っていた。不幸の図は千差万別人により様々だが、幸福な人間のそれは得てして似通っており、単調な色彩で描かれているものだと。こうした会話は、アクセントのようなものだ。
「さっきの話だけどな――私もそう思ってるよ」
 耳を澄まして、やっと聞き取れるかどうかというほどの声でつぶやかれた言葉に、全身の血が沸騰するかと思った。
「ルーファウス様!? いま、何ておっしゃいましたか?」
「――二度も言えるか! 聞いてなかった方が悪い!!」
「そうですか。なら、きっと私の空耳だったんですね」
「ああ、そうだよッ。だから休暇を取れって言ってるんだ。……聞き返すなよ。恥ずかしいじゃないか」
 最後の方は目を逸らして、恨めしそうな声だった。
「そんな風に、変わらないあなたが好きですよ。いつまでも、そのままでいて下さいね」
「それは、私が成長してないって皮肉か?」
 視線が合い、二人同時に笑い出す。屈託なく笑うルーファウスの笑顔に、引き込まれる。それはまるで、冬の日だまりにいるかのようで――とても居心地の良いものだった。
 この先に何があるとしても、いまはそれでいいではないか? 人の世に永遠なるものなど存在しないと言うが、私には一つだけ信じられるものがある。
 それは、他の何にも優る幸福ではないだろうか。ただ一人、自分にそれを与えてくれる人の笑顔を眺めながら、そんなことを考えた。
 私は、満面の笑顔で彼の質問に答えたのだった。


= END =