Everlasting

1.

 その子供は、母親の陰に隠れるようにして私を見ていた。
 白いドレスをギュッとつかんで離そうとせず、母親がいくら「ごあいさつは?」と言っても、一向にその体勢を変えようとはしない。
「ごめんなさいね。人見知りの激しい子で。あなたの前によく顔を見せてくれていた人に、とてもなついていたものだから……。きっと、あなたのせいで来なくなったとでも思っているのね」
 仕方のない子ね、と言いながら夫人は子供の頭を撫でてやる。すると、子供はさも嫌そうに「よろしくね」と言った。
 澄んだ声。夫人によく似て、ミルクのように白い肌と蜂蜜色した金髪が目をひく、愛らしい少年だった。――外見だけは。
 その転げ落ちそうなほどに見開かれた青い瞳は、さっきから私と母親とを交互に見つめていた。ひどく不安そうだ。他人が、自分のテリトリーに土足で入ってきた。そんな居心地の悪さを、どうやらこの少年は感じているらしい。
(動物に例えるなら、猫だな)
 そんなことを思いつつ、夫人と「仕事」の話をする。
「――では、よろしくお願いね。さあ坊や、行きましょう。ツォンさんのお仕事の邪魔をしては、いけないわ」
 夫人に連れられていく少年が、一度だけこちらを振り返った。その顔には、当惑の表情が浮かんでいた。
(なぜ?)
 と言いたげな、そのまなざし。私はその意味を測りかねて、少年をただ見つめるばかり。
 やがて、少年は母親にしがみつくようにして視界から消えた。こんな調子で、果たしてうまくやっていけるのだろうか?
 ――私は、詰めていた息を吐き出した。

 少年の名は、ルーファウスといった。彼の父は、この世界で最大の企業・神羅カンパニーの社長だった。
 ――神羅カンパニー。それは、国家をもしのぐ存在、この世界を動かす力そのものだ。
 邪魔になる存在は、人だろうと国だろうと踏み潰し、呑み込んでいく。そんなやり方に耐えられなかったプレジデント夫人は、ここコスタ・デル・ソルの別荘にひきこもり、一人息子を夫の手に渡すまいと育てていた。
 ただでさえ、男の子は母親に対して点が甘いものだ。まして、ルーファウス坊やときたら母親と二人暮らしで、耳に入ってくるのは父親の悪口ばかりなのだから。彼が母親の味方をするのも、無理はないだろう。
 それに、母親のキーヤ夫人はたいそう魅力的な女性だった。彼女と一度会って話をした人間は、みな彼女の虜になると言われるのも納得できる。
 高からず低からぬ声は耳に心地よかったし、人を逸らさぬ話術も心得ていた。
 彼女は、いわゆる白痴美を誇るタイプの女性ではなかったのだ。
「一緒にお食事を、と思って呼びに行かせたのだけれど。ちゃんと用件は伝わったのかしらね?」
 自分の姿を見るなり走り寄ってきたルーファウスを夫人は苦笑して眺め、そう言った。
「あ……いえ。何かご用らしいとは、思ったのですが……」
 私も、思わず苦笑した。テーブルに並べられた数々の皿を見れば、いくら何でもその位わかる。だが、先ほど部屋に現れたルーファウスは、何も告げずにいきなり袖を引っ張るのだ。これでは、さすがに何の用件だかわかるはずもなかった。
 何となく状況を察したらしい夫人が、優しく坊やの頭を撫でる。
「お使い、ご苦労さま。今度はちゃんとお話してね」
 母親にすがりついていたルーファウスが、身をよじって私を見た。初めて会った時に見せたのと同じ、当惑の表情。
(なぜ?)
 青い瞳は、相変わらずそう私に訴えていた。
(私の方こそ、聞きたい位だ。この子は、どうして私をそんな目で見る?)
 釈然としないまま、私はテーブルについた。

 何代も続く名家の出であるキーヤ夫人が、厳しく躾ているせいなのか。幼いながら、ルーファウスのテーブルマナーは完璧だった。
 煌めくカトラリー。磨き抜かれたカットクリスタルのグラス。それらが光を反射して、食卓はまばゆいばかりの輝きに満たされていた。
 しかし、それを圧してなお輝いていたのは、二人の日の光を溶かし込んだかのような金髪だった。
 こんな見事な金髪には、そうそうお目にかかれない。思わずぼうっと見とれていると、ルーファウスの声が飛んできた。
「――何だかお前、タークスらしくないよね」
 これには、夫人がハッとした表情になる。
「坊や、そういうことは言わないものなの。まだお仕事を始めて間もないから、無理ないのよ」
 すると、ルーファウスは不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、その前は何をしてたの?」
 無邪気な質問。何も知らない彼に、罪はない。だが、その問いには、私も夫人も答えられそうになかった。
 流れる血、折り重なる死体、燃えさかる炎、断末魔の悲鳴――。
 まぶたを閉じれば、浮かぶのは廃墟の中に為すすべもなくたたずむ自分の姿。耳を塞げば、いまも聞こえてくるのはプレジデントの勝利に酔いしれる高笑い。
「坊や、人には過去があるものよ。ただね、それは本人が自分から言う気にならない限り、他人が聞いてはいけないものなの。あなたのいまの質問は、食事の席にふさわしくない話題だし、ツォンさんに対してとても失礼なことなの。――わかる?」
「……ごめんなさい。もう二度と尋ねたりしません」
 大好きな母親にお小言をくらって、ルーファウスはしゅんとしている。それが悪いことだとは、露ほども思っていなかったに違いない。
 他の人間に対してなら、夫人もここまできつい物言いはしなかっただろう。少し理不尽だったのでは、と思い直したのか。夫人は椅子から立ち上がると、坊やを抱きしめて言った。
「ルーファウス、お前は素直でいい子ね。わたくしに対して向ける優しさを、どうか他の人にも分けてあげてね。お前ならできるでしょう?」
 まるで宗教画のモデルにでもなれそうなほど、この世離れした美貌の親子。リゾート地に建つ瀟洒な別荘で、そんな二人の相手をしていろというのは――プレジデントの好意なのか? それとも、ただ一人生き残った罪の意識に苛まれているがいいという、冷酷な悪意のなせるわざなのか。
 そんなことを考えながら、私は食堂をあとにした。