3. 「お兄さま、何だか最近ヘン」 イリーナ皇女に捕まったリーブはそう言われて、目を白黒させる。 「旅行から戻られて、ずーっと調べ物してらっしゃるの。いままでも本の虫だったけど、それが一層酷くなったみたい。一緒に遊んでくれるっていう約束だったのにぃ……」 半分涙目で訴える皇女に、リーブはやれやれとため息をつく。 確かに、最近ルーファウスの様子が変わったのには自分も気づいている。 だが、その変化が何によるものなのかはわからず、彼自身も戸惑っていたのだ。それに、悪い方向に変わったとは言い切れず、むしろ人々の評判はいいくらいだった。 「近頃の殿下は、人付き合いが良くなられたようだ」 宮廷人達は皇太子の人を突き放したような以前の態度を思い出して、口々にそう言う。 彼の態度を変えるに至った物が、何であるのか。リーブには皆目見当がつかないのだ。 「何を調べていらっしゃるのかご存じですか? イリーナ様」 むくれている皇女に、リーブは屈み込んで視線を合わせ、優しく尋ねる。 「あのね、この間行かれた地方のことが書かれたご本をいろいろ読んでらっしゃるの。何百年も前にあった戦争のお話とか、あの地方の言い伝えとか。何か面白いことでもあったのかしら?」 リーブ大臣は知らない? と、逆に問い返されてしまった。 「言い伝え……ですか?」 国を治める者として、ルーファウスが支配下の民衆の言語や風習、歴史について知識を得たがるのはわかる。 だが、彼はおよそ文学というものには興味を持たなかった。皇后は詩を好み、自らも日記代わりに雑記帳に詩を書き留めていたが、そういう趣味は彼にはなかった。 つまり、彼が昔話に興味を持つには、何か裏があると考えるのが自然なのだった。 「侍女が教えてくれたんだけど、吸血鬼騒ぎがあったんですって? お母さまはバカバカしい、っておっしゃってたけど。何か関係があるのかしら?」 しきりに首を捻るイリーナ皇女に、リーブはルーファウスの寝言を思い出す。 死神に会った……怖くなくて、優しかった。そう言っていたが、まさか本当に? だとしたら、その「死神」というのは――。 「いや……それはあり得ないな」 独り呟くリーブに、イリーナ皇女は焦れて駄々をこねる。 「あっ! 大臣たら、何か隠してる〜。みんなして内緒事だなんて。大人ってばズルい! 大人じゃないのに隠し事をするお兄さまは、一番のズルなんだからっ!」 「イ、イリーナ様。――じゃあこれから、二人で皇太子殿下のところに行きましょうか」 「ジャマだ、って言われないかしら……」 兄に嫌われるのが何より悲しいイリーナ皇女は、不安そうにリーブを見つめる。 「大体、殿下は遊ばな過ぎです。だから、イリーナ様が強引に外に連れ出して差し上げるくらいでちょうどいいんですよ」 「――うんっ!」 嬉しそうに自分の手をグイグイ引っ張っていく皇女の愛らしさに目を細めながら、皇女の性格は間違いなく母の皇后譲りだと微笑ましくなる。 (それに引き換え、あの方は誰に似たものやら。父上の血を強く引いていらっしゃることは確かなんだが。どうも、それだけではないようだ) いまのところ、ルーファウスが弱みを見せる唯一の人間は妹姫のイリーナ皇女だ。 皇太子の態度が変容した原因を探るために皇女を利用するのは、少し心が痛む。 だが、背に腹は代えられない。皇女に悟られぬよう、そっとため息をつくリーブである。 「お兄さまー!!」 「イリーナか。どうした? リーブまで連れて」 「遊びましょ!」 「お前、ちゃんと日課は済ませたのか?」 「そういうお兄さまは、日課以上にお勉強しすぎだわ! お兄さまは学者におなりになるわけじゃないんだから。あんまり物知りな王様だなんて、みんなから嫌われちゃうんだから!」 この言葉には一理あった。御輿として担ぐには外見が重要なのであって、中身があふれていては人は重くて担げない。 昔ならいざ知らず、いまの世では皇帝も国王も「器」としての機能こそ大事なのであって、それには中が空でなければ役目を果たせない。 人心の拠り所。紙に書かれた教典だけでは、人は誰も神を信じない。その教典を実践する血肉を持った人間が存在して、初めて教典を理解できるのだ。また、その人間を信じられるから「彼、彼女が信じるものなら、きっといいものに違いない」と、彼らの信ずる神を信仰できるのだ。 皇帝や国王も、同じことだ。使う言葉さえまちまちな、多様な民族の集合体である帝国。 民には「国民」としての意識など皆無だろう。ただ、皇帝という生きた象徴を目にする時、わずかに「国」というものを意識する。 逆に言うと、皇家はその程度にはまだ十分役に立つということだ。 この点をわかっていたつもりだったが、イリーナの方は頭ではなく、肌で感覚的に習得しているものらしい。 「――そうだな。お前の言う通りだよ、イリーナ。じゃあ、何をしたい?」 「わあっ。お兄さま、ホントに遊んでくれるの!?」 目を輝かせてルーファウスの腕を引っ張り、外へ行きたいとねだる。 「お馬に乗せてっ! みんなが『危ないからおやめ下さい』って反対するの。でも、お母さまは乗馬がお上手じゃない? だから、女の子だって練習すればきっと」 「だからといって、母上のようになるまでには相当がんばらないと無理だぞ。あの人を基準に物を考えるなよ。母上は――全てが規格外の人なんだからな」 「――ねえ、お兄さま」 「うん?」 「わたしはお母さまみたいなステキな女性になれると思う?」 「母上とは全然違う、とびきり素敵なレディになれるよ。保証してやる。――何たって、お前は私の妹だからな」 「うんっ。ありがとう、お兄さま!」 さも嬉しそうにはしゃぐイリーナを見ていると、リーブは皇后の幼かった頃を思い出さずにはいられない。 自分の思う通りに生きることを許されなかった皇后の結婚後の人生は、自我を守るため戦いの連続であり、運命に反抗し続ける彼女の姿は痛々しい位だった。 愛する女性の満身創痍な様を見るにつけ、リーブはイリーナ皇女には幸せになって欲しいと心から願う。 ルーファウスもそれは同じ思いらしく、妹姫には「貴賎結婚でもいい。お前が本当に好きな男を選べよ?」と常々言っている。 二人の思いを知ってか知らずか。イリーナは、天真爛漫な笑顔と予測のつかない行動で周囲の人々を魅了していた。 「張り切り過ぎるなよ。お尻が痛くなっても知らないぞ?」 「大丈夫! さっ、行きましょ!」 ご機嫌なイリーナに、二人は顔を見合わせて微笑むのだった。 乗馬のレッスンといっても、いきなり馬に乗れるわけではない。まずは絶対にクリアしなくてはならないのが、騎乗である。 馬は、とても利口な動物だ。信頼の置けない者をその背に乗せて走ることなどあり得ない。自分で背に跨ることもできない者を、どうして主人として認められようか。 というわけで、先ほどからイリーナはルーファウスの愛馬とにらめっこをしている。 「わたしは怪しい人間じゃないのぉ!」 馬耳東風とは、この事だ。馬はしっぽを揺らして耳をかすかにピクン、と動かす。 だが、それだけのことだ。リーブがイリーナを抱き上げて乗せてやろうとしても、その度にいなないては落ち着きなく動き、騎乗拒否の構えである。 「お兄さまぁ……」 半泣きのイリーナに、ルーファウスは苦笑いする。 「これだけは、私もどうしてやることもできないんだよな。お前、自力で何とかしろ。騎乗ができなければ、先には進めないんだから」 「せめて、コツぐらい教えて〜! これじゃお馬に乗れないじゃないっ」 「そうキャンキャン喚くな。馬の方が驚いてるだろ?」 「だってぇ。このお馬さん、意地悪なんだもん」 「――イリーナ。お前がそんな風に思っていて、馬が気持ちいいはずないだろう? 仲良くしようとする時に、お前は相手に向かって怒鳴りつけるのか? そうじゃないだろう。少し落ち着け」 そして、リーブ大臣に肩をすくめてみせる。 「私より、母上の方が適任なんじゃないのか?」 「恐れながら、皇后様は人に物を教えるのにはおよそ不向きかと存じますが」 「……それもそうか。仕方ないな。おい、イリーナ。後ろから馬に近づくんじゃない。馬は臆病な動物なんだ。臆病というと聞こえが悪いが、要は頭がいいということだ。だから、警戒心が強いのは当たり前だろ? 必要以上にお前がビクビクしてるから、馬も怯えるんだ。少し休んで気分を変えた方がいい」 「……絶対に今日中に乗れるようになってみせるんだからっ!」 イリーナはむくれつつも、やる気満々である。そんな妹姫の様子がおかしいのか、ルーファウスは身をよじって笑っている。 「お前は庶民に混じっても暮らしていけそうだな」 「お兄さま。それ、わたしのこと褒めてるの?」 「もちろん。これからは王族だの貴族だの、そんな肩書きが通用しない時代になる。お前ほどのバイタリティがあったら、どんな風に世の中が変わろうとも安心していられるよな。羨ましいよ」 「それって、この国から私達が追い出されちゃう時が来る、ってこと?」 「――追われるだけならいいんだけどな。最悪、革命を覚悟しないと」 「ルーファウス様! いまのお言葉は」 「父上のやり方が本当に正しいと思うのか、リーブ。私は、そうは思わない」 「あなたのいまの言葉は私ではない者が耳にすれば、父君皇帝陛下への反逆ですよ!? イリーナ様、いま兄君がおっしゃったこと、絶対に誰にも話してはいけませんよ。いいですね?」 真っ青なリーブ大臣にそう言われたイリーナは、コクンと素直に首を縦に振る。 一方、ルーファウスは平然としたものだ。本当のことを口にしたまでだ。そう驚くこともないだろう? などと言っている。 「最近のあなたは人が変わられたと――皆が噂しています。それは、父君を倒そうとする者達とあなたが接触を持たれたからなのですか? それとも……」 「私には、まだ平民の知り合いはいないぞ。いずれは欲しいものだが」 「お願いです、殿下。あなたが改革を志していることは、宮廷中の誰もが知っています。当然、父君もです。度が過ぎなければ、父君もあなたが聡明な証拠だと鼻を高くしていらっしゃるでしょう。ですが、あの方を敵に回すのはおやめ下さい。それは、愚の骨頂というものです。いまのあなたに、何の力があるのです? ――あなたはまだ幼い。ご自分の未来を自ら閉ざすような真似は、お慎みを。陛下はいざとなれば、あなたの廃嫡をなさるでしょう。国を統治する者というのは、そうしたものです」 「……大臣、怖い」 口調の激しさ、表情の厳しさに、イリーナは身を震わせた。 「大丈夫だ。私には、やりたいことができた。だから、暴走したりしない。安心しろ、リーブ」 「お尋ねしたいのですが。その、なさりたいことというのは一体何なのですか? 私には、あなたが変わられた理由がわからない。――不安なのです。こんなことは、いままでに無かった」 「なあ、私はそんなに変わったか?」 「ええ。どこがどう、とは言えないのですがね。何というか……雰囲気が」 「自分ではそんなつもりはないんだがな」 「お兄さまに話しかけやすくなった、ってみんなが言うの。でもね、わたしは……以前のお兄さまの方がよかったの。いまのお兄さま、わたしにはわからないの。何を考えてらっしゃるのか。誰か会いたい人がいるんだな、って……それだけはわかるのよ? だってお兄さまったら窓の外眺めて、ため息ついて。わたしの言ってること、違ってる?」 いまにも泣きそうなイリーナの表情に、ルーファウスは困ったなと頭を掻く。 何か言葉を発すれば、今度はリーブの追求にあいそうな気がする。こちらはイリーナと違って、答えを知るまでは粘るだろう。 「お兄さま、誰を待ってらっしゃるの? その人とは、どこで知り合われたの? わたし、不安なんだもん。何だか、その人にお兄さまを攫っていかれそうで――。お兄さまが、どこか知らない所へ行っちゃいそうで。こんな所に、わたしを一人で残して行かないで。お兄さまがいるから、ガマンしてるんだから。いなくなっちゃったら、宮殿になんかいないんだからっ!」 とうとう泣き出したイリーナに、ルーファウスもリーブもどうしたものかと困惑する。 と、そこへ。タイミングがいいと言うべきか、悪いと言うべきか。乗馬を楽しもうと厩舎へ向かう皇后の一行が通りかかった。 皇后は顔を真っ赤にして泣くイリーナに目を留めると、怪訝そうに首を傾げて尋ねた。 「これは一体何の騒ぎなのかしらね。ルーファウス、あなた、説明してくれない? リーブ、あなたでも構わなくてよ」 「はっ。これはその……何と言いますか……」 「私では教え方が下手らしい。あとはお任せしますよ、母上。――リーブ、お前はイリーナの面倒をみてやれ。私は部屋に戻る」 優雅に一礼して去っていく後ろ姿を見送りながら、皇后はいよいよ深く首を傾げる。 「ねぇ、リーブ。わたくし、あなた方のお話の邪魔をしてしまったのかしら? ルーファウス、様子が変だったわ」 およそ息子のことはどうでもいい皇后にしてからが、彼に異変を感じ取っているらしい。 さあさあ、涙をふきなさい。なぁに? 乗馬のレッスンをしていたの? じゃあ続きをしましょうね。 皇后は、そんな調子でイリーナをあやしている。彼女にとって、イリーナは可愛い我が子なのだ。ぐずりつつも、イリーナは機嫌を直し始め、皇后に甘え出す。 それは傍から見ていても微笑ましい情景で、人々の心を和ませた。リーブも同様だったが、それだけではなかった。 いままでもやもやとして形をなさなかった、漠然たる不安。 それが、先ほどのイリーナの言葉でようやくその正体がわかった気がしたのだ。脳裏に雷が轟いたかのように、鮮やかに。 (私達は、いつか殿下を失う時を迎えねばならないのか?) 暗然たる予感に襲われ、リーブは国の政治の中枢を担う一員として、皇家と国家の未来に思いを馳せないわけにはいかなかった。 寄せ木細工のこの国を、解体せずにひとまとめのまま新たな器に移せる者は、皇太子以外いない。 だが、彼は彼言うところの「死神」に魅入られている……。 (あの方を失うわけにはいかない) リーブは固く決意する。自分は、何としても殿下を守る。宮廷の頑迷な古老達から、皇族とみれば自分達の売名のために害そうとするアナーキスト達から、そして――。 (ですが、私がどんなにお守りしたところで、あなたが呼んでは何もならないのですよ。そして、あなたはずっと呼び続けていらっしゃる。昼も夜も、休みなく……。イリーナ様は聡い方だ。事情はわからずとも、あなたの声なき声を聞かれたのでしょう。そして、不安がっていらっしゃる) 「まあ、リーブ。どうしたの? ずい分怖い顔だこと。そんなに眉間にシワを寄せてばかりいると、老けてみえてよ?」 いつの間にか、皇后が心配そうな表情で自分を見つめていた。麗しの美女は自分より四歳下のはずだが、到底二人の子持ちには見えなかった。 妻のことは穏やかな愛情で愛している。だが、皇后は特別の存在なのだ。生涯ただ一度の、恋の相手。彼女は息子に無関心に見えるが、それでも彼が永遠に失われたら――心に癒えない傷を負うだろう。 自分は、何故彼の悩みに気づいてやれなかったのか、と。彼の悩みは自分の悩みでもあったのに、と。 愛しい人のためにも、ルーファウスを失うわけにはいかない。そう思うと、リーブの苦悩は深まるのだった。 |