4.

 あれから数年が経つが、帝国内の民族独立の動きは激しさを増しこそすれ、衰える気配など皆無だった。
 皇帝暗殺未遂事件、政府閣僚への誹謗中傷文書が後を断たない。
 遂に、皇宮にいるのを嫌って各地へ旅行を繰り返す皇后が投石されるという嫌がらせに遭うまでになった。
 詩を好み、繊細な感受性を有する皇后の神経は大きな衝撃を受け、深く傷付いた。
 元々人嫌いの傾向があった皇后だが、この事件以後は民衆の前に姿を現すことを避けるようになったのだ。
 いままでは貴族達の虚飾に満ちた儀礼に付き合うのを厭うことはあっても、宮殿のバルコニーから民衆に手を振ったり、折々の儀式の際に彼らの歓呼に応えて手を挙げ、微笑むことは忘れなかったのだが。
 例え政治向きのことは一切わからなくとも、その場に存在するだけで空気を和らげ、敵対者を魅了してしまう皇后は、誰よりも有能な大使であり皇帝と民衆とを繋ぐ架け橋だった。
 それが失われたいま、帝国では反政府主義者達が画策する暴動が多発していた。
 また、国外に目を転じれば、領土拡張の野心に燃える近隣諸国の不穏な動静が油断ならぬものとなっている。
 混沌とする状況の打開に頭を痛める父の皇帝を冷ややかに眺めていた皇太子は、旅行と狩猟に目のない皇后の耳にある国の風聞が入るよう仕組んだ。
 その国は帝国から遠く、島国だった。旅行好きの皇后だが、本格的な船旅はまだしたことが無かった。その国の田舎には古い境界の石垣や藪がたくさんあり、平野が続く帝国とは違い、ゆるやかな丘が連なって起伏に富んでいるという。これは、馬術に優れた皇后にとっては願ってもないことだった。ただ馬を速く走らせるのにも飽きた皇后は、障害を飛び越えることに夢中になっていたからだ。
 島国だったことが、大陸での領土争いから幸いにもその国を遠ざけた。大陸諸国が互いに戦争をして国力を疲弊させる間に、その国は遠く離れた土地を植民地にすることに全力を挙げた。この百年に植民地経営を軌道に乗せたその国は、いまや世界に冠たる大帝国を形成していた。
 皇后の気まぐれは有名だったので、馬のためにその国にしばし滞在したいと言い出しても誰も怪しまなかった。そして皇太子は何食わぬ顔で自分も同行すると言い、皇后を一人で行かせるのをためらっていた皇帝は渡りに船とばかりそれを許した。
 皇后はイリーナ皇女も連れて行きたかったのだが、これはさすがに皇帝が許さなかった。それでは何かあった時、家族が人質にとられたも同然ではないか、というわけだ。
 また自分は留守番なのかとむくれる妹姫に、ルーファウスは苦笑いする。
 どうせ母上は公式行事をすっぽかすに違いないから、その後始末はみんな私が引き受けることになるんだよ。お前、父上よりお年を召した女王陛下と面白くもない話をしながら、キュウリのサンドイッチを食べたいのかい?
 これにはイリーナも怖じ気づいた。
 彼の国の女王陛下は即位から三十年近くが経つ。早くに御夫君を亡くされたため、その年月のほとんどをお独りで過ごされて来たのだが、非難の余地の無い生活ぶりは人々の尊敬と称賛の的だった。
 大勢の王女が大陸諸国の王室に嫁いでいた。そんな女王の教育方針がわかる有名な逸話がある。
 王女の一人は娘にあてた手紙にこう記した。「とにかく、お行儀良くすることです。王女は優雅に退屈することを学ばねばなりません」。
 イリーナも、もちろんこの話は知っている。自分は女王陛下のお気に召さないお転婆娘だが、お兄さまは違う――。
 諦めて納得した妹姫がしゅんとするのを見て、ルーファウスはお土産を楽しみにしているんだなと笑い、お前は私と違っていい子だよとなぐさめる。
 手紙を書くから、お兄さまもお返事書いてね。いろいろお忙しいとは思うけれど。
 健気にそう言う妹姫に、約束するよと言ってルーファウスは旅立って行った。

 初夏という、その国では一番過ごしやすい季節に訪れた皇后の一行。
 いろいろな意味で評判の皇后に会った女王は、風変わりだが大層魅力的だと感想を漏らした。
 周囲が案じた通り、皇后は到着早々に女王の招きを断ってキツネ狩りに出かけてしまった。これにはさすがに驚いたようだが……。
「あなたの母上は、とても活動的でいらっしゃること」
 皇后がすっぽかした女王のお茶会に、代理で皇太子が来る。しかも、まだ少年だというのにその会話は大臣達を唸らせる内容のものだった。
 母親はともかく、息子はまともなようだ。そう思ったのか、女王の機嫌は意外にも麗しく、皇太子の伴をしてきた人間達は一安心していた。
「私なら、彼女に王冠を被らせたりはしないのですが」
「まあ。父上とは意見が違うということね?」
 にこにこと笑い、女王は機嫌良くお茶やお菓子を勧める。あなたは華奢なほど細いのだから、もっとお食べなさいと。
 これは体質で、もっと良い体格になりたいとは思うのですが、なかなか。
 そんな調子でかわしつつ、それでも断ってばかりいるのは失礼なので、適当な間隔でサンドイッチやらスコーンやらをつまむ。
 その手付きがひどく優雅だというので、女王の閣僚達は皇太子が外見だけ皇后に似たというのは、帝国にとって何と幸福なことだろうかと秘かに囁き合っていた。
「そのようです。私は伴侶の女性には、自分の義務を果たすという責任感のある人を望みます。王族として生まれた者には、負わねばならない重荷がある。それを理解し、私のために安らげる場所を作ってくれる方が、皇太子妃としてふさわしいと思います」
「一国の王女でなければ、妃には迎えたくないとお思いか?」
 この質問には帝国側も女王の閣僚達も、もちろんルーファウス自身も耳をそばだてた。
 女王には彼に嫁がせられるような年頃の王女はいないが、孫に当たる姫君ならいるのだ。あるいは、姪に当たる姫君なら。
 遠回しに、自分の血縁の娘を娶る気は無いか、と女王は尋ねているのだった。
「いいえ。そのようなことは考えておりません。我が母のように、王女であっても王冠の重さに耐えられぬ者もいる。大事なのは、国を支える身だという自覚ではないのでしょうか」
「――あなたのお考えは、よくわかりましたよ。父上はさぞご安心でしょうね、立派な後継者に恵まれて。手紙を書いて、皇帝陛下とはよくお話をする必要がありそうです」
 おおっ……! というざわめきが、静かにテーブルに広がっていく。
 もし本当に縁組みがなされれば、大陸諸国の勢力に変動が起こるのは間違いない。
 女王は皇太子のことが気に入った様子だし、皇太子は皇太子で女王との連携を望んでいる。正に、問題は「皇帝が女王との同盟を結ぶ気があるか」なのだ。
 出席者全てにとって実りの多い茶会の後、皇太子の随行員は皇帝に緊急の暗号電文を打たねばと思うのだった。

 政治向きのことは全て皇太子に任せたと言わんばかりに、皇后は田舎へと出かけて行った。
 元々、そのためにはるばる海を越えてやって来たのだ。彼女を止める気はルーファウスになく、他に誰も止められる者はいない。遊びに行く皇后と異なり、連日政財界の間に人脈を作るべく孤軍奮闘している皇太子を補佐しようと思う人間も多く、皇后には護衛のために女王から近衛兵が差し回されるという配慮がなされた。
 そんな点をとっても、二国の間に婚姻の絆が結ばれるのではという観測をもたらすらしく、皇太子のスケジュールは過密になる一方だ。
 世界の工場を自負するこの国の進んだ産業に、学びたい。夜はパーティー、昼間は工場見学に世界一の大都市であるこの国の首都の様々な施設を回るという、休む隙もない状態だ。
 リーブ大臣がいたら間違いなく「そんなことをなさっていたら、倒れてしまいますよ」と、眉をひそめるに違いない。
 そんな日々が続いた、ある夜。パーティーから帰る途中、突然御者が馬車を止めた。石畳に、車輪の軋みが悲鳴の如く響く。
 何があったのか? お付きの武官達と顔を見合わせ、ルーファウスは首を傾げた。
「私が様子を見て参りましょう」
 一人が馬車を降りて、御者に何事かと質しに行く。後の者は、非常事態に備えた。
 何しろ本国では、皇帝暗殺未遂事件があるほどだ。旅先の皇太子がアナーキストに狙われないとも限らない。
 一同の間に、緊張が走る。やがて、それは戻ってきた武官の言葉でほぐれた。
「人が行き倒れていたので、轢いてはいけないと思って慌てて止めたそうです」
「行き倒れ?」
 この華やかな大都市には、想像を絶する富を所有する者と言語に言い表せない貧困に喘ぐ者と。その両者が、ごく近くに存在していた。
 市中を流れる川を境に彼らの住まいは分かれていたが、後者がこんな夜中にこの地域をうろついているなど、まず考えられないことなのだが。
「どんな様子だ?」
 不審を感じたのだろう。ルーファウスは武官に尋ねた。
「はっ。それが……行き倒れと言いましても、乞食の類ではありませんで」
「何?」
「何と申しますか、貴族とはいかぬまでもブルジョワ階級に属することは間違いないと思われる、まだ若い娘が事切れております。ですが、死因に見当が全くつかないので。それでいま、御者と首を捻っておりました」
「死因に見当がつかない? どういう事だ」
「外傷が一切無く、あるいは質の悪い薬に中毒したのかもしれませんが……。それにしては健康そうなご令嬢で。第一、ご覧になればわかりますが、あのような薄着で外に出るなど。正気の沙汰ではありません。誰かに誘拐されて、ここに捨てられたのか。そうだとしたら、この時間まで発見されなかったということは、まだここに置かれてから時間が経っていないということなのでは? 身に着けていた物は絹でした。我々より先に誰かが見つけたのなら、剥ぎ取られるなり通報を受けた警察がここへ駆け付けているなりすると思うのですが」
「それは気になるな。見てみたい」
 止める隙もなく、ルーファウスは馬車を降りる。慌てて警護の武官達も後を追った。
「妙に肌が白いな。まるで血の気が無い」
「それも気になったことの一つです。全身から血を抜かれただなんて、まさか吸血鬼じゃあるまいし。まあ、このお嬢さんがキレイなのは認めますがね」
 とっさに、ルーファウスは数年前のことを思い出した。
 あの時も、確か外傷がどこにも無く、全身の血を抜かれたように蒼白な肌の死者が続出していた。その上、死者達は恐怖や苦痛を感じた気配も無かったと聞く。
 ――いま目の前にいる、若い娘のように。
「吸血鬼か。面白いが、それを調べて決めるのは我々の仕事ではないな。朝になったら、警察に知らせよう。このご令嬢は、それまで我々が預かることにしよう。このまま朝までここにいたら、まず間違いなく着物を剥ぎ取られてしまうだろうからな」
 そんな不名誉を、この可哀想なご令嬢に味わわせるのも酷だしな。
 そう言うと、ルーファウスは馬車へと乗り込んだ。死者と一緒に道行きなど、あまりありがたい事態ではない。だが、皇太子の言う事はもっともで……。
 少々狭くなった馬車に軽くため息をつき、一行は帰りを急ぐのだった。

 翌朝。知らせを受けた警察が遺体を引き取りに来た。
 気の毒な令嬢の身元は、すぐにわかった。今朝起きたら姿が無い、と家人から捜索願が出されていた、さる富裕な貿易商の娘だった。
 警察で遺体を待つのが待ちきれずに同行してきた父親は、娘の変わり果てた姿に号泣した。
 ルーファウスは何と言ってなぐさめたらいいのかわからず、苦しんだ様子が無いのがせめてもの救いですと声をかけた。
「殿下が見つけて下さらなかったら、娘は一晩中冷たい石畳の上で」
 ぬぐってもぬぐってもあふれ出る涙を隠せず、父親はハンカチで目を押さえながらルーファウスに礼を述べる。
「我々が通りかかった時、ご令嬢に既に息は無かった。怪しい人影らしき物も周りに無く、何もお役に立てず申し訳ない」
 目を伏せ、頭を下げるルーファウスに、滅相もないことを。こうして見つけて報せて下さった殿下に感謝こそすれ、他の感情など覚えるはずがございません。本当に、ありがとうございました。
 何回もそう言い、不幸な父親は帰って行った。
 遺体を引き取りに来た警察は、ルーファウスに丁重な礼を述べると共に、ここ数年断続的にこうした事件が起きているのだと、そっと告げた。
「吸血鬼なんて物はいるわけもないので、報告書にはそう書けませんが。しかし、これだけではないのですよ……こうした事件は。私がこういう事を口にした件は、どうかご内密に願いたいのですが」
 死体を見たことのない人間には、まるで自分達の捜査が進まないことの言い訳にしか思えないでしょうからね。
 そう言って笑い、引き揚げて行った。
「何という名だ、あの警部は」
 ルーファウスの問いに対し、すぐに答えが返ってくる。
「何かご不満でもお有りでしょうか?」
「いや。面白い話題を提供してくれたなと思っただけだ」
 優雅な微笑を浮かべると、ルーファウスは部屋に戻った。そのまま外出予定の時間まで静かに過ごしていたが、お時間です、と迎えに来た侍従に一通の手紙を渡す。
「朝のあの警部宛に、これを届けてくれないか」
 恐らく迅速に対処してくれたことへの儀礼的な礼状なのだろうと、侍従は気にも留めずにかしこまりましたとそれを預かった。
 ルーファウスは昨夜のアクシデントなど無かったように、いつもと変わりなくスケジュールをこなしていった。そうして夜中に戻ってきた彼に、お手紙でございますと侍従が銀盆に載せて厚みのある封筒を差し出す。
 チラと目を走らせたルーファウスは、差出人の名前を確認すると嬉しそうにそれを手にした。
 いよいよ眠るだけという段になってお付きの者が下がり、ようやく一人になれた時。ルーファウスは先程の手紙を読み始めた。灯りは消されてしまったので、窓に寄って文字を追う。幸いにも満月が近いため、窓越しの月明かりでもかなり明るい。
 やがて読み終わったルーファウスは大きく息をつき、白く輝く月を眺めて一人呟く。
「あれからずっとここにいたのか」
 自分は何を望んでいるのか。栄光? それとも――。
 議会や工場を見学することと、「彼」について調べることとは矛盾していないだろうか。忘れた方が自分の身のためだと、彼も言っていた。
「それでも、私は……」
 物思いに沈むルーファウスを、月の光が皎々と照らしていた。




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