2.

 到着して一週間が経った。実は皇后の一行が着く少し前から、この地方では奇妙な事件が起こっていた。
 外傷はどこにもないのだが、まるで全身の血を抜かれたように蒼白な肌の死者が続出していたのだ。
 死者達はみな一様に恐怖や苦痛を感じた気配はなく、中には微笑みすら浮かべて事切れている者もいた。
 迷信深い農民達は「吸血鬼の仕業だ」と言って騒いでいたのだが、噂が広まってその結果旅行が取りやめになり、皇宮を離れるのを楽しみにしていた皇后の不興を買うのを恐れたこの地方の行政長官が噂を口にすることを固く禁じたため、このやんごとない一行の耳には入らずにすんだのだ。
 しかし、人の口に戸は立てられない。下働きの下男下女から小間使いへ、小間使いから侍女へ、侍女から皇后・皇太子の耳に、いつしか噂は流れていく。
「――吸血鬼!?」
 ホホホホ……と笑い、怯える侍女にさも呆れたように皇后は言う。
「そんなものがいるわけないわ。退屈な日常に飽き飽きした農民達が、ちょっと彩りを添えようと思ってでっち上げた作り話。まずそんな所よ」
 合理的な精神の持ち主である皇后は、旧い慣習を固守しようとする皇太后と対立して、遂に宮廷内の諸規則を大改革したという実績がある。派手好きですぐに奇矯な行動を取り、浪費家だと見られがちな皇后だが、内実は違っていた。
 気に入った物は何年でも大切に使い、補修を施すことをためらわなかった。皇宮では何をするのにも実家にいた時の数倍の費用がかかる、ということに気づいた時から、皇后は革命家とあだ名されるほどに無意味な規則の撤廃に力を注いだ。
 新しい技術を応用した物を使うのも、大好きである。皇帝から贈られたお召し列車は、殊の外お気に入りだ。
 こういう女性であるから、幽霊や妖精やまじないの類は全く信じていなかった。吸血鬼など、問題外だ。
「第一、もし本当に何か事件が起きているのなら、行政長官がそのような報告をするはずです。何も問題がないから、こうしてわたくし達はここにいられるのじゃなくて?」
 上機嫌でそう結論づけると、皇后は身支度をするために食堂を出ていった。
 後に残された皇太子は、ため息をついた侍女に尋ねる。
「その話、いつ頃からあるんだ?」
「それが、皆様の滞在が決まってからほどなく事件が起きたそうです。――申し上げにくいのですが、長官は事実を隠していらっしゃるのでは」
「それはあり得るな」
 キッパリと言い切った皇太子に、侍女はああ、やはり……と言いたげな顔をする。
「誰が好きこのんで、あの女の機嫌を損ねたいものか。私だってごめんだ」
 冷笑を浮かべ立ち上がる。何と答えて良いものかわからず、ただ目を伏せる侍女にはこの話を広めないようにな、と言い遠乗りに出かけたのだった。

 いつもなら部屋で本を読むところなのだが、今日はダンスの好きな皇后のためにごく内輪でささやかな舞踏会が催されることになっており、近在の領主達が宮廷へ伺候できる身になれる絶好の機会、とばかり参集することが予想された。
 皇太子にとって、そうした乱痴気騒ぎは最も忌むべきものだ。
 皇宮での生活なら、こういう時にはリーブ大臣がお供兼護衛についてきてくれる。
 しかし、人手の足りないここではそうはいかなかった。皇后は接待の準備を気心の知れたリーブに任せたがり、彼もそれを断ることができなかった。田舎の館、離宮とさえ呼べないほどこぢんまりした所で皇后を飽きさせないように毎日催し物を考えるのは、はっきり言って容易なことではなかった。
 その自覚が、皇后自身にはあるのかどうか。彼女は婉然と微笑みながら一言で片づける。
「お願いね、リーブ」
 お可哀想に。皇后様が想い人だったのがあの方の身の不運、ってとこだな。
 そんな風に、口さがない宮廷人達は囁きあっていた。元々、皇后は隣国の王家の連枝の家系の出である。
 とはいえ父公爵に王位が回ることなどまず考えられない状況で、彼女はまた従兄弟に当たるリーブと婚約しているも同然の間柄として育ったのだった。
 リーブは代々帝国の柱石として皇家に仕えてきた大公家の次男で、身分はあるもののそれに伴う財産がなかった。
 だが、それはさして問題にされなかったのだ。――あの日までは。
 前皇帝が病に倒れ薬石効無く崩御した後を継いだのは、当時十八歳だった皇太子――現皇帝だった。
 即位後の彼を待っていたのは、周辺諸国との戦争。彼が若いのを侮って、政権が固まらない内に仕掛けてきたのだ。幸い、何とか対等な立場で休戦条約を結ぶことに成功したのだが、それには隣国との同盟が大いに物を言った。そこで休戦条約を締結した後、皇帝は謝辞を述べるために隣国の宮廷に赴いたのだ。
 即位後五年、皇帝二十三歳の時である。
 彼はそこで、咲き初めるバラの花のような、明けゆく空に眩く輝く明星のような美少女を知った。
 少女は身分高い姫君には似合わぬ野性的な面を持っていて、乗馬が大好きな跳ねっ返り娘だった。宮廷の窮屈な礼儀作法は、最も苦手とするところだ。
 皇帝からダンスを申し込まれた時の彼女の顔といったら、いまに至るまでの語りぐさだ。
「何故私がそんなことしなくちゃならないの?」と言いたげに瞳を見開いてそれから渋々手を差し出したのだが、恋に落ちて盲目状態の皇帝には、そんなことは全く問題ではなかったらしい。
「陛下は、未来のお妃と踊られたらしい」
 その夜歓迎パーティーに出席していた人々の、共通の感想である。
 それが誤りではなかったことは、すぐに実証された。帰国するのを一週間も延ばした挙げ句、皇帝は国王に申し出た。
「あなたの姪に当たる姫君を、皇后として迎えたいのだが」と。
 同盟関係を確固たるものにするのに、これほどうってつけな話があろうか。少女の気持ちは、国家の利益の前に完全に無視された。皇帝と大公家の次男とでは、最初から勝負にはならなかったのだ。
 少女と皇帝との婚約が布告され、国中が喜びに沸き返る中、当の本人は荒れ狂う感情に身を任せて泣き叫んでいた。
「嫌よ! あんな方と結婚したら、私は息ができなくて死んでしまうわ!」
 まだようやく十七歳になろうかという少女には、皇后の座など鬱陶しいだけである。権力など、何の興味もない。
 少女にとっては豪華な衣裳や煌めく宝石を与えてくれる皇帝よりも、子供じみた自分の詩を大真面目な顔で聞いてくれ、森や野山へ一緒に遠乗りに行ってくれる優しい、幼なじみのまた従兄弟のリーブの方が好ましい存在なのだった。
 木イチゴを摘んできた時、またドレスを汚されて……! と嘆く侍女を横目に、「よく熟れてる。リーズは見つけるのが上手だね」と言って美味しそうに食べてくれた。
 嫌いな修辞学のレッスンを抜け出して遊びに来ても、決して怒らずに迎えてくれた。もちろん、後で彼女がお小言をくらわないように、自分が招いたことにしてくれるのだ。
「今度だけだよ」
 とは言うものの、一体それは何度目の「今度」だったことか。
「あなたみたいに教えてくれれば、私でもわかるのに」
 その度に、少女は決まってそう言い訳した。少女は愚かではなかったが、一つの事に対して飽きっぽいのだ。
 それがよくわかっているリーブは、目先を変えて色々な方法で説明してやる。たったそれだけのことなのだが、少女に対する理解と愛情が無ければできない技である。
 早い話、皇后はいまだに少女時代と変わらない態度でリーブに接していて、その後別の女性を妻に迎えて穏やかで幸せな家庭生活を営む彼を見る度に、その幸せに自分も与れたものを……! と、苦痛が酸のように身を焼くものらしい。
 皮肉なことに、仲睦まじいリーブと夫人の間には、何年経っても子供が生まれる気配はなかった。
 そんなこともあって、リーブはルーファウスのことを我が子のように慈しんでいたのである。
 皇太子としての自分を必要とする人々はいても、ただのルーファウスである自分を愛してくれる者など、どこにもいない。
 そう思いつつ成長した皇太子にとっては、リーブ大臣は肉親以上に大切な存在だった。
 逆に言うと、リーブ以外の人間は皇太子に対して親愛の情を感じていない、ということである。

 遠乗りに護衛として付いてきた従僕は、いつの間にか皇太子を見失ってしまい、狼狽してあたりを必死に探していた。
 一方話し相手にもならない退屈な従僕をまいてしまった皇太子は、一人でいるのを不安に思う様子もなく馬を駆けさせている。普段は必死になって日課をこなしているが、まだ子供なのだ。時にはウンザリして全てを投げ出したくなることもある。
 それを絶対にしようとしないのは、皇太子が自分でも持て余すほどの高いプライドを有していたからだ。
 いま、こうして義務から解放されて何も考えずに馬を駆けさせるのは、素晴らしく爽快な気分だった。
「あれ、皇太子様がお一人で」
 見事な馬に乗り、見るからに高価な衣服を身にまとい、鮮やかな蜂蜜色の髪を風に靡かせている少年など他にはいない。
 彼が通りかかると農民達は一瞬茫然と見とれ、次に慌てて平伏する。貴人の顔をじっと見つめるのは、大層無礼なこととされていたからだ。
 人々の素朴な感情は、凍て付いた皇太子の心を僅かに溶かす。国のあり方や身分制度について大いに疑問を抱く彼は、抜きがたい罪の意識めいた強迫観念に囚われていた。
 身分に伴う特権は、本来国を支えるという義務を果たすために与えられた物。それを、近頃の皇族、貴族達ときたら。
 奢侈に耽り、爛れた愛欲を満たすことだけが仕事だとでも言うように毎日を過ごしている。そのくせ、そうした醜い行いを取り澄ました顔と華美な衣服で飾り立てて誤魔化す知恵だけは持っている。
 ――全てが偽りの産物でしかない宮廷を、そしてそこに寄生する宮廷人を、皇太子は憎悪していたのだった。
 自分は、人間という生き物が嫌いなのかもしれない。時々そう感じることがある。
 では、何だったら愛せるのだろう。動物は嫌いではない。花はその香りも美しさも大好きだ。
 だが、そうして心を注いだものに取り残されるのは嫌だった。去年飼い犬が死んだ時、もう二度と何も飼わないと決めた。花は好きだが、それが散るところは見たくない。
 自分でも我が儘だと思う。と同時に、何と哀れな……と自嘲したくなる。要するに、自分は臆病なのだ。
 愛に飢えた、暗闇で一人すすり泣く子供。それが自分だった。例え、他人の目からはどう見えようと……。
 小川のほとりにたどり着き、愛馬に水を飲ませてやる。ずい分長い距離を走らせた後のことで、馬は嬉しそうに水を飲んでいる。それを眺めながら、今頃は着飾った人々でごった返しているだろう館の様子を思い浮かべ、首を振る。
 人形のように着飾って大人しく椅子に座り、人々に平等に愛嬌を振りまき、言葉をかけねばならないのは苦痛だった。
 何が嬉しくて、人々は自分の空々しい言葉を求めるのか。
 ルーファウスには自分が皇太子だから、という理由しか思いつかない。
 服が汚れるのも構わず、草の上に寝転ぶ。
 ――疲れた。本当に、何もかも終わりにしたい。
 そう呟いた時、ふいに人の気配を感じた。誰だ!? と問う暇もなく、穏やかな声が上から降ってきた。
「こんな所にお一人で。従僕は今頃真っ青になってあなたを必死で探しているでしょうに。――いけない皇太子殿下だ」
 驚いて跳ね起きたルーファウスに、青年は優しく微笑む。
「ここはあなたの来る所ではない。今ならまだ間に合います。お帰りなさい、殿下。光が支配する世界に属するお方――」
「何故……私のことを」
 青年には、一種独特の威圧感があった。ひどく若いようにも見えるが、黒檀の如きその黒い瞳には、幾星霜もの年月を経てきたのではないかと思わせる、老成した光が宿っていた。一言で言って、青年の年齢は全く見当がつかなかった。
 肩を過ぎるほど長く伸ばされた漆黒の髪は、全く癖がなかった。象牙色の肌といい、切れ長の目といい。
 帝国内には数多くの民族が存在したが、目の前の青年のような身体的特徴を持つ民族の心当たりは、ルーファウスにはなかったのだ。
(昔絵本で見た死神って、こんな風に黒い髪と目をしていたな。でも、こいつは全然怖くないけど……。何者なんだろう?)
 ルーファウスは、青年が少し悲しげな表情で自分を見つめているのに気づいた。
 何故そんな顔で見る!? と問い詰めようとした瞬間、青年は隣りに腰を下ろし、さも愛おしそうに髪を撫でて言った。
「この国で、あなたのことを知らない者などおりません。アラバスターのように白い肌、真夏の空のように真っ青な瞳、日の光を集めて編み上げたような金の髪……。これほど美しく、そしてこの世に絶望している方を、私は他に知りません」
 まるで、心の虚無を見透かされた気がしたのか。視線を合わせるのに耐え難くなったらしい皇太子が、プイッと横を向く。
 そんな仕草は年相応で、本人に自覚はないだろうが、とても愛らしい。青年はあやすように尋ねる。
「何か、嫌なことでもあったのですか。それとも……?」
「別に何もない!」
 自分の心の中を覗き見ることは、絶対に許さない。そんな激しい意思が感じられる。
 幼いながら、この個性の手応えはどうだろう。振り返りざまにキッと自分を睨み付けた皇太子を、青年は抱きしめた。
「そんな風に肩肘張らなくてもいいんですよ。あなたは、いまいくつだと思っていらっしゃるんです。――来月誕生日が来て、ようやく十歳ですよ? 例え何ヶ国語が操れようと、大人も舌を巻くほどの知識と頭の回転の速さを有していようと、あなたが子供だという事実に変わりはありません。時には誰かに寄りかかって甘えたくなったとしても、それは何ら恥ずべき事ではないんですよ」
 いつものルーファウスなら即座に「放せ!」と叫ぶところなのだが。あまりに突然のことで、驚いたまま硬直している。
 そんな皇太子が痛々しくて、青年はそっと背を撫でて語りかける。
「そうして一生の間何物も信じず、誰にも頼らないで神経を張りつめて生きていくおつもりですか? それは無理です。張りつめた糸は、いつか必ず切れるものです。それに、もっとよく周りを見渡してご覧なさい。あなたの役に立ちたいという人間が、必ず見つかるはずです」
「そんなの……わかるものか」
 声に含まれる絶望の響きに、青年の表情が翳りを増す。
「いいえ、わかります。いまのあなたでは、例え手を差し伸べられたところでそれに気づかないでしょう。無視されるか、あるいは拒否されるだけだとわかっていて、それでも手を差し出す者はいませんよ。違いますか?」
 あくまで穏やかに、自分を子供扱いしないで話しかける青年の態度に、ルーファウスがほんの少し心を開く。
「……違わない。でも、それならどうしたらいい? いままで…そんな者には出会わなかったんだ……」
 消え入りそうなか細い声。自分に預けられた身体の頼りない重さに、青年は小さくため息をつく。
「あなたに頼られて、悪い気のする人間はまずいないでしょう。少しは母君を見習うことです。あの方の笑顔を見るために、人々は争って意を得ようとしているでしょう?」
「私に、あの女のマネをしろと言うのか!?」
「身に備わった武器を利用しない手はないと思いますが?」
「――武器」
「いまのあなたが、父君に対して持ち得る最大の武器です」
 青年の言葉に、ルーファウスはハッとした表情になる。おわかりいただけましたか、と言って青年は微笑んだ。
 こんな風に下心なく自分に笑いかけてくれるのは、妹のイリーナ皇女の他にはリーブ大臣くらいのものだった。
 見知らぬ他人だというのに、何故彼の言葉は素直に聞けるのだろう。それに、話していると心が落ち着いていく。
 赤の他人に対してこんな気持ちになれたのは、生まれて初めてだった。
「……もう少しだけ、こうしていてもいいか?」
 およそ人に甘えることを潔しとしないルーファウスが、青年にもたれかかってそう言った。
 リーブ大臣が聞いたら、卒倒するに違いない。
「酷くお疲れのようですね。――しばらくお眠りなさい」
 柔らかな髪をサラサラと撫でて、優しく声をかける。
「こうして、側にいて差し上げますから」
 その言葉に安心したかのように、ルーファウスは眠りに落ちていった。

「――良かった。お疲れだったんだろう。よく眠っていらっしゃる」
 皇太子殿下が、どこにもいらっしゃいません。方々お探し申し上げたのですが……!
 真っ青になって報告に来た従僕を内心罵りながら、リーブは皇后や宮廷人、それに招待客達に悟られないよう捜索を開始した。
 手分けして聞き込みを行い、姿を見かけたという農民達の話から、かなり遠出をしているらしいことはわかったのだが。
 吸血鬼騒ぎの話は、当然リーブの耳にも入っている。まさかとは思うが、万一それが事実だとしたら。
 ――そう思うと、従僕を一人付けただけで遠乗りに行くのを許した自分の迂闊さを呪わずにはいられない。
 夜になっても行方がわからず、いい加減焦りを感じ始めた時。
 ふと部屋を覗いたら、ルーファウスがすやすやと眠っていたのだ。リーブはもちろんのこと、皇太子の身に何かあれば自分の首が飛ぶのだと気が気でなかった従僕は、思わずその場にへたり込んでしまった。
「これに懲りたら、次からは職務に精励することだな」
 呆れた視線を投げ、手を貸して従僕を立たせた時。
「……う…ん。……リーブ…?」
 眠そうに目をこすりながら、ルーファウスが身じろいだ。
「よくお休みのところを申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
 慌てて謝るリーブに、ルーファウスは不可解なことを言い、再び眠りに落ちていった。
「ねえリーブ……死神に会ったよ。でも…怖くなくて……とても…優しかった……」
 次の瞬間には幸せな眠りを貪っているルーファウスに、リーブは夢でも見たのだろうと考えた。
 一方、眠りに落ちる寸前、切れ切れの意識でルーファウスは不思議な青年のことを思っていた。
「あなたは、私の――」
 あの時、彼は何と言ったのだろう。どうしても言葉が思い出せない。覚えているのは、髪や背を撫でる青年の冷んやりとした掌の感触。子守歌のように優しく低く穏やかに話しかける、耳に心地よい青年の声。
「あなたはまだ幼い。――私のことは忘れてしまいなさい。二度と会おうとは思わないことです」
 嫌だ。絶対に嫌だ。そう言うと、青年は寂しげな声色でこう答えたのだ。
「それが、あなたのためなんですよ……」
 名前を聞けなかったのに気づいたルーファウスは、寝返りを打ちながら決意する。
 いつか必ず探し出してやる。そして、聞き取れなかった言葉の続きを尋ねたい――。
 翌日から身体がだるいと言って数日間寝込んだルーファウスに、さすがの皇后も心配になったのか。
 予定を全て取り止めて、ルーファウスの枕元で大人しく本を読んで日々を過ごした。
 それはルーファウスにとって初めて味わう親子の団欒で、時折額に手を当てて「熱は無いようね」と微笑む皇后に、どう接していいのかわからず戸惑った。決して、悪い気分ではなかったが――。
「そう言えば、例の騒ぎ」
 寝込んでいて退屈だろうと思ったのか。皇后が笑いながら話しかけた。
「やっぱり農民達が面白がって流した出鱈目だったのよ。このところ出ていないそうよ、吸血鬼」
 当たり前だわ。そんなもの、いるわけないのですもの。
 華やかな笑い声を立てる皇后に、ルーファウスは黙って首を横に振る。
 真実は、自分だけが知っていればいいことだ……。
 ルーファウスが起き上がれるようになった翌日、皇后の一行は皇宮へと出発した。
 以前のように痛烈な皮肉を口に出さなくなったルーファウスに、側仕えの者達は皇太子殿下はこのところ急に大人になられた、と喜んでいたが、リーブ大臣は不安なものを感じていた。
 いままでは心の有り様が手に取るようにわかったのに、まるで不透明な覆いが被せられたように感じる。美しい青い瞳は、どこか遠くを見つめていることが多くなった。
「何かあったのですか?」
 リーブは思い余ってルーファウスに尋ねたが、ルーファウスは笑って何でもない、と答えるばかりだった。




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