黄昏、そして……

1.

「――夕べはひどい嵐でしたわね」
「本当に。見まして? 初代の陛下がお手ずから植えられたというあの大木に、落雷が」
「ええ。恐ろしい有様でしたわねえ。焼け焦げた臭いが、まだあたりを漂っているよう。でも、あんな見事な木でしたのに。中は虚ろだったんですのねえ」
「見た目では、わからないものですわね」
 ホホホ……と笑いながら別のお喋りを始めた貴婦人達をまだ幼い皇太子はさも軽蔑したように眺めていたが、やがて鼻で笑うと年に似合わない辛辣な言葉を吐いた。
「この国も、同じだな。外見は立派なものだが、中は腐りきっている」
 皇太子は、まだ十歳にもなっていない。
 だが、その聡明な頭脳には大人が束になってもかなわなかった。いま彼に付けられている家庭教師の数は、優に五十人を超える。
 これだけ詰め込まれればいいかげん重言語障害でも起こしそうなものだが、彼はそれを苦にするどころか楽々とこなし、それどころかまだ足りない、と言っては教師達を困らせていた。
「私は、もっと多くのことが知りたい。叶うものなら、この世の全てを知りたい位だ。それなのに、お前達は何故私にいろいろ隠そうとするのだ?」
 父である皇帝の施策を批判するような発言など、教師達にできるはずもない。
 それがわかっていながら、皇太子は何か事件があるとそれに関する彼らの意見を求めた。
「申し訳ございません。私どもにはそれはわかりかねます」
 そう答えるのがやっとの有様な教師達相手では、物足りなかったのか。
 今度は、それなら同じ身分の者なら気兼ねしないですむだろうと、話相手になれそうな者を探し始めた。だが、彼の相手が務まるほどの者は、皇族にはいなかったのだ。
「末恐ろしいこと。いまからあの調子では、ご成人なさる頃にはどうなることやら。――怪物ですわね」
 そんな人々の中で、皇太子は育っていった。
 外見はあくまで美しく優雅に、だが、内には毒と虚無とをため込みつつ――。
 彼の容貌は、絶世の美女と名高い皇后譲りのものだった。しかし、彼が母から受け継いだのはそれだけだったらしい。問題に取り組む集中力、粘り強い忍耐力、非情なまでの現実主義といった性格は、父皇帝から受け継いだものだ。
 皇帝と皇后は、体のいい別居状態である。
 一つの所にじっとしていられない性質の皇后は、皇宮にいると息が詰まるのだと言っては旅行に出かけて行った。遂に皇帝は、皇后専用のお召し列車まで造らせたほどだ。
 その上皇帝は、そんな皇后の行動を黙認していた。奇妙なことだが、愛人を作りつつもそれはそれ、ということなのか。皇帝は皇帝なりに皇后を愛していたのだった。
 ただ、自分の側では彼女が幸せになれないのだということを認識した結果、そういうことに落ち着いたものらしかった。
 夫婦はそれでも良かったのだろうが、割を食ったのは子供達だ。
 特に皇太子は、生まれ落ちた途端にいまは亡き皇太后が皇后から取り上げて自分が養育する、という暴挙に出たため、皇后にとっては全く愛情の持てない子供だった。
 妹のイリーナ皇女は皇太后が亡くなってから生まれたため、自分の手で育てることができた。そのせいなのか、皇后は皇女のことは自分の子供だという実感があるらしい。よく一緒になって遊び、旅行にも連れて行く。皇太子と違い、明るく素直な皇女は愛らしく、いずれ嫁ぐ身とあって皇帝もイリーナのことは無条件で可愛がっていた。
 しかし、皇太子に対しては自分の跡を継ぐ者として帝国を支えられる者になって欲しい、また、そうでなければ困る。そんな思いがあったのか、つい厳しく接しがちであったようだ。
 こうして、皇太子はまだ幼いのに子供らしい遊びもせず、めったに笑わない屈折した性格になっていくのだった。
 それを心配しているのは皇帝でも皇后でもなく、穏健な改革思想で知られる宮内大臣のリーブである。
「ルーファウス様が、痛ましくてならない」
 彼は家人に、そう漏らしていた。実の親にさえ頑なな態度をとる皇太子が、リーブにだけは無邪気な笑顔を見せる。
 それは彼にとって嬉しいことなのだが、決して好ましい状態だとは思っていなかった。
 皇太子には、対等に渡り合える存在が必要なのだ。だが、この宮廷にはそんな者は一人もいない。
 困ったことだが、自分一人の力ではどうしようもなく、リーブはため息をつくばかりだった。

「さあ皆様、狩りに参りましょう」
 上機嫌な皇后に、寵を争う宮廷人達が我先にと従う。
 またしても「退屈病」の虫がうずいた皇后は、皇宮を離れて地方の荘園に滞在していたのだ。
 今回、イリーナ皇女は麻疹にかかった直後ということで、長旅をさせることに宮廷の侍医が快い顔をしなかったのでお留守番である。
「お兄さまずるい! ご自分だけ旅行だなんて。イリーナも行きたい〜!」
 駄々をこねる妹に、ルーファウスは苦笑いする。
「母上が狩りを楽しむだけの、ただの田舎だよ。面白い所じゃないぞ」
「でもでも! ここにいるより楽しいもん。田舎までは、お兄さまの家庭教師も追いかけて来ないもん。――せっかくお兄さまと遊べると思ったのにぃ」
「早く元気になるんだな。戻ったら、遊んでやるから」
「ほんと!?」
「ああ。だから大人しくしていろよ、イリーナ。エルミナ夫人に、あまり世話かけさせるなよ」
 エルミナ夫人というのは、皇女イリーナの扶育を仰せつかっている女官である。
 食事から衣服から躾まで――およそ彼女が育ての親だと言っても差し支えない存在だ。
「お兄さまも、リーブ大臣に面倒かけたらいけないのよ。わかった?」
 小さいけれど口は達者な妹姫のおでこを、ルーファウスは笑って軽くこづいた。
「行ってらっしゃい! おみやげ話、聞かせてね!!」
 可愛らしい見送りを受け、出発したのは一週間前のこと。ここには三日前に着いたのだが、皇后は皇太子のことなど放ったらかしている。
 だが、それを心苦しく思っているのはリーブだけだ。
 しかも、苦言を呈する彼に対する皇后の答えは次のようなものだった。
「あの子なら大丈夫。わたくしにはさっぱりわからない難しい本とにらめっこしていれば、ご機嫌なのですもの。むしろ、わたくしがいない方が勉強がはかどるのではなくて?」
 そして、今日も彼女は狩りに出かけて行く。
「放っておけ」
 冷たい瞳で、投げやりにルーファウスはリーブに言う。
「あの女は、そういう奴だ。お前が気に病むことはない」
「は…あ……。ですが」
「私は、気にしていない」
 他者を寄せ付けない、氷の刃のような声。
「親が何者であろうと、何をしていようと、そんな事は関係ない! 私は私だ」
 そして、自室にこもっては本を読んでいる。全く、これでは何のために皇宮を離れて田舎に来ているのか。
 あくまで日課を変えない皇太子の強情さには、リーブも打つ手がなかったのだった。




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