4.

 戻ってきたイリーナの顔には、涙の跡などみじんもなかった。
どうやら、化粧直しもついでにしてきたらしい。すっかり気持ちを切り替えた様子で、先程散乱させてしまったファイルを片づけている。黙々と作業に励んでいたが、やがて、突然素っ頓狂な声を上げた。
「……どうした?」
 また泣き出されてはかなわないと、不安げにルードが振り向く。
 だが、返ってきた答えは彼の全く予想しないものだった。
「この人超好み〜! いやーん、クールビューティー☆ あら? でもこれに載ってるってことは――そんなぁ! もう死んじゃってるってこと!?」
「今度は何なんだよ。さっきから騒々しいしいぞ、っと」
「あ、でも! 没年が入ってないし。――ふうん、行方不明なんだぁ。どれどれ……二十七歳? キャッ、ストライクゾーンだわっ!」
「いい加減よくトリップするヤツだよな、お前。どれ、見せてみろよ、と」
 話が全然聞こえていないイリーナに呆れて、ひょいっとファイルを取り上げるレノだ。
 問題の「クールビューティー」な人物は、黒髪に紅の瞳で、細身の体つきをしていた。端正な面立ち。物静かなたたずまい。だが、強い意志の力を感じさせる、その眼差し。
 どことなく、ツォンに似ていないこともない。
「……確かに、お前が好きそうなタイプだよな。でも、だ。諦めな。こいつ、たとえ生きていたとしても、もういい年したオヤジだぜ?」
「ウソ!?」
「よく見てみろよ、と。失踪当時の所属」
 そう言いながら、レノはイリーナにファイルを返した。
「神羅製作所、総務部調査課――神羅製作所!? ウソっ! それって、一体何十年前の話なのよ!?」
「うちの会社、坊っちゃんと同い年だろ? 少なくとも二十四年は前の話だよな。生きていたらリーブのおっさんといい勝負だぞ、と」
「ふえ……ん。せっかく見つけたのにぃ。――ええっと、一九八〇年、プロジェクトJに携わる科学者の護衛と監視の任務を遂行中、謎の失踪を遂げる――。プロジェクトJ? 聞いたことないですよね、そんなの……って、まさか! 先輩、これ!」
「お手柄だぞ、イリーナ。恐らくそいつは、ジェノバ・プロジェクトのことだろう。最後にその男が確認されたのは、どこだ?」
「ニブルヘイムです、ルード先輩。これを見ると、同時に研究者が一名失踪しているそうです。名前は――えっ!?」
 絶句したまま目を見開いているイリーナ。不審に思ったルードが、ファイルに目を落とす。しばらく視線をさまよわせていたが、やがて目的の箇所を見つけたのだろう。
 一瞬、表情が険しくなり――そして気が抜けたように呟く。
「……世の中、わからないことが多すぎるな」
「二人とも、どうしたんだ?」
 さっぱりわけがわからないレノは、ポリポリと頭を掻いていた。その時だ。ドアが開いて、彼らの上司が姿を見せた。
「あ、お帰りなさい、ツォンさん。結構いいネタ挙がってますぜ、と」
 ドアに背を向けていたルードとイリーナも、レノの声にはっとして振り返った。
「……お疲れさまです」
「ツォンさん! 予定よりも、早かったんですね☆」
 いつものことながら途端に声のトーンが上がるイリーナを、レノはけっ! と言いたげに眺めている。
「ああ、ご苦労。徹夜か?大変だったな。ルーファウス様からも別途命令が出されていたそうだが。大丈夫か?」
「私なら、もう全然問題ないです! それより、これ見て下さい。『あの』宝条博士に、奥さんが!」
 いきなりこう切り出されて、正直面食らっているツォンである。
 いま、一つ一つの単語としては理解可能でも、連結されると理解不可能になる言葉を聞いたような気がする。
「宝条博士……奥さん?」
 脳がまだ、耳から得た情報を処理しきれていないらしい。呆然とイリーナの言葉を繰り返すツォンだ。レノもまた、同様に目を白黒させている。
「おいイリーナ、お前幻覚見たんじゃないのか?と」
「失礼な。よーくここ見て下さいよ、ほら! ガスト博士の失踪した助手研究者の名前、『ルクレツィア宝条』ってなってるじゃないですか。宝条だなんて名前、そう滅多にあるもんじゃないと思いますけど? 第一、彼女は科学者です。きっと職場結婚したんですよ。そうに違いありませんってば!」
「結婚してたなんて話、初めて聞いたぞ――」
 額にうっすらと汗が浮かんでいるのは、休暇でビル全体の空調が低レベルに抑えられているせいだけではないだろう。
 ツォンはレノから問題のファイルを受け取ると、信じがたい事実を再確認した。
「こんなものまで調べてくれたとは――よく気がついたな、イリーナ。ご苦労だった」
「そんな……。電算関係の情報が、ことごとくデリート済みなんですから。となれば、書類をあたるのは当然です」
 事実は、瓢箪から駒――といったところなのだが。敬愛する上司から労をねぎらわれて、しおらしく猫をかぶるイリーナである。
 頬をほんのりと染めてうっとりとしているところを見ると、どうやらこの一言で連日の休日出勤&残業の労苦も、報われたらしい。
(ったく。現金なヤツだぜ、と)
「……そういえば、ジュノン支社では何をなさっていたんですか?」
 それまで沈黙を守っていたルードが、口を開いた。もう理解を超える話題はたくさんだ、ということか。
「あの街は、元々EE社の本社があったところだ。いまでこそミッドガルが世界の中心だが――かつては、独立した通信網があった。神羅がプレート都市を築いた時、旧都市は全て廃棄されたことになっているんだが。実はそうじゃないものが一つある」
「……生きている通信回線があるんですね?」
「この本社のホストコンピュータの管制下にない回線を、極秘で使用していた人物がいる」
「それって……もしかして、坊っちゃんの……?」
「日記を読んで、すぐ気づいた。キーヤ様はコスタ・デル・ソルにいながらにして、ミッドガルで行われていることをどうして細大漏らさずご存じなのか。まさか、魔法の水晶をお持ちだったわけでもないだろう。それに、あの方は古代種についてずい分いろいろなことをご存じだったようだ」
「古代種って、エアリスがそうだっていう――」
「セフィロスもだぜ、イリーナ」
「それなんだがな。セフィロスは、本当に古代種なのか――。どうもよくわからない点がある。それを調べたくて、社長は自ら動かれたというわけだ」
「まだケガが完全に治ったわけじゃないのに……。無理なさってるわ、ルーファウス様。大丈夫なんですか、ツォンさん?」
「あまのじゃくな方だからな。大人しくしていて下さいと言おうものなら、倒れるまで働かれるだろうな」
「……それもそうですね」
 深いため息が、一同から漏れた。
「とにかく、科学部門のデータを入手することには成功したわけだ。後は、一日あれば何とか形になるだろう」
「はいはい。ということは、社長は今晩お戻りってわけですね、と」
「明後日は新年のパーティーがあるからな。渋々お戻りになるだろうさ」
「やれやれ。今日も仕事、明日はパーティー会場の点検、明後日は社長の警護。なかなか人をこき使ってくれるぞ、と」
 年が明けて三日まで休みがないと知って、イリーナは目の前が暗くなった。そんな彼女の一瞬の表情に目ざとく気づいたツォンは、微笑みながら優しく言葉をかけた。
「ずっと根を詰めていたのだろう? 今日は午後からでいいから――ひとまず帰って休んだ方がいい」
「でも――」
 主任だって、お疲れなんじゃありませんか? そう言いたげなイリーナに、ツォンは苦笑いする。
「私が見張っていないと、コイツは仕事をしないからな」
「あーっ! そりゃないすよ、ツォンさん。俺は真面目な社員ですぜ?」
「……およそ説得力のない言葉だな」
 ボソリと呟くルード。
「あとは私達が片づける。ご苦労だったな」
 ポンポンと肩を叩かれて、イリーナはようやくうなずいた。
「それじゃあ私、失礼します。――何か美味しい物持って、また来ますね!」
 ツォンの姿を見て、元気になったのか。とても徹夜明けとは思えない、眩しい笑顔を残してイリーナは去った。
「あの元気、少し分けて欲しい気がするぞ、と」
 げんなりした様子で、書類の山を見つめるレノ。
 お世辞にもデスクワークが得意とはいえない「有能」な部下のぼやきを、馬耳東風に聞き流すツォンだった。