2.

 オヤジが帰って行った後、別荘はいつもの静けさを取り戻した。
 使用人達は、ツォンが来てから僕のお守りをしなくてすむようになったので、ホッとしていた。
 僕から言わせてもらえば、いままで彼らに面倒かけてた覚えはないんだけどね?
 それをツォンに言ったら吹き出されたのが、また面白くない。
「あれでも、彼らなりにあなたのご気分を害してはいけないと必死なんですよ。わかっておあげなさい」
「変に馴れ馴れしいのも嫌いだけど、僕を遠巻きにしてみんなで寄ってたかってヒソヒソ話をしながら眺めているのは、もっと嫌いだね。それって何かい? 僕が猛獣並みだって言いたいわけ?」
「ある意味、当たっているでしょう? あなたは猫の子じゃない。虎の口ですからね」
「フン。ああいう親を持つと子供は嫌でもひねくれるし、精神年齢が高くなるんだよっ!」
「それは同感ですね。お母様が生きていらっしゃれば、ルーファウス様ももう少し子供らしくいられたのでしょうが」
「それは僕が可愛げがないって言いたいんだな?」
「そんなことはありません。これを言うと怒ると思って言わなかったんですが……。あなたは今のままでも、十分子供らしいですよ」
「ワガママだからだろう?」
「違いますよ。そんなことじゃありません」
 何もかもお見通しだと言わんばかりのツォンの態度に、僕はついイライラする。
「じゃあ何だって言うんだよ!?」
 違う。こんな風に怒鳴りたいんじゃなくて。
「大体、お前に僕の心の中なんてわかるわけないだろ? お前に心を読む能力でもあるのなら、話は別だけどね」
 ああ、そうじゃなくて。こんな皮肉を言うために、話をしてるんじゃないのに。
 どうして僕は、こんなにイヤな子供なんだろう……。
「僕はこれから語学のレッスンだ。部屋にいるから、お前はしばらく僕から解放されるよ。良かったな」
 言うそばから、胸の中に苦い後悔が広がっていく。一刻も早くこの場から離れたかった。
 僕は後ろを振り返りもせずに駆け出したが、背中に注がれているツォンの眼差しは、きっと悲しげだろうという確信があった。

 その日、教師達はルーファウスが集中力を欠いているのに気づいて、軽い驚きを覚えていた。
 始めは語学の教師が具合でも悪いのかと心配し、少し早いがこんな日があってもいいでしょう、あなたはいつもがんばっていらっしゃるので、と言って講義を終わらせた。
 次に訪れた法学の教師は、語学の教師から彼の様子が普通ではないと聞かされていたため、講義の最初にそれとなく、体調が思わしくない時には決して無理をしてはいけませんよ、と優しく言葉をかけた。
 この異様に自尊心と自立心と克己心の強い子供は、放っておけば腹膜炎を起こしていようが骨折していようが、そんなことにはお構いなくスケジュールをこなす方を選ぶだろう。
 法学の教師がそれに気づいたのは、ルーファウスが予習と復習をとても熱心にしていて、しかもずっとペースが変わらないので、ごく気なしに「よくがんばっていらっしゃいますね。これはご褒美を上げないといけませんな」と言った時。
 普通の子供ならパッと顔を輝かせて喜ぶところを、ルーファウスは一瞬困惑し、次に憮然とした表情で呟いたのだ。
「僕が一生懸命に学ぶのは、それが僕の義務だからだ。別に、褒められたくてやってるんじゃない……」
 彼の精神年齢は、実年齢の倍以上もあるのかもしれなかった。
 しかし、母親に早くに死に別れ、父親とは離れて暮らし、兄弟もなく、友人もなく。学校という集団生活の場を経験することも無いルーファウスは、その希薄な人間関係のせいで、対人関係にバランスを欠くことが多かった。
 周囲の人間達には、それは仕方のないこと、当然あり得ることだとため息と共に受け入れられていた。
 学習の機会を不当に奪われている子供に努力が足りないと責めるのは、お門違いと言うべきだろう。ルーファウス自身は、こんなにも聡明で努力家なのだから。
 非常に大人びた精神を有してはいるが、一部に目を覆いたくなるほどの幼さを残す、不安定な心の持ち主。それがルーファウスだった。
「別に、どこも悪くなんかない」
 案の定、自分の変調を否定する。むしろ、教師達に立て続けに心配されたのが不快だったらしく、その声はかすかな苛立ちを含んでいた。
「では、始めさせていただいてよろしいですか?」
 頑なな態度を崩そうとはしないルーファウスを見やり、法学の教師は、どうやって講義の中身をこの少年にはわからないように薄くするか。その事に、頭を振り絞らなければならなかった。
 続く地理学、経済学、美術の教師達も同じ悩みを味わい、今日最後の講義を担当することになっていた歴史学の教師は、彼らからその有様を聞くと、この場合としては最も適切な行動をとった。
 即ち、自分の体調が悪いことにして、講義を休みにしてしまったのである。
 思いがけなく空いたスケジュールの隙間。だが、その時間を遊ぶために使うという発想が、ルーファウスにはない。
 何となく手持ちぶさたなまま部屋にいるのは、退屈だった。夕食まで、時間はまだある。
 ルーファウスは屋敷の回りを散歩してみようと、誰にも告げずにそっと外へ出たのだった。

 本当なら、こんな風に一人出歩くなど絶対にしてはならないのだが。ツォンに後ろめたい気持ちを感じていたルーファウスは、散歩の伴をしてくれとは言い出せなかったのだ。
 別荘からは海岸に行ける。もちろんそこはプライベートビーチで、外部からの侵入者は排除されている。
 シンと静まり返った砂浜を歩くうちに、靴の中に砂が入ってくる。踏みしめる度に感じるザラついた異物感は、次第にルーファウスの心を重く沈ませていった。
「何で僕は、あいつに気遣われるのがイヤなんだろう……」
 不思議な感情だった。嬉しいはずなのに、心の中に灯がともったように感じるその一方で、優しい微笑を向けられると、刃物で斬り付けられたような痛みを感じた。彼がもう少し大人なら、その感情を分析することもできただろうが。
 どれほど聡明であろうと、年を重ねなければわからないことが人にはあるのだということに気づくには、ルーファウスはまだ子供だった。
 好意を持つ相手と対等の立場でいたい。自分が役に立つ人間なのだと、相手に思われたい。
 早い話、その思いが強すぎて空回りしているのだ。それがツォンにはわかり、ルーファウス本人にはわからない。
 だから、常に突っかかっていくのはルーファウスで、ツォンは少し困ったなという顔をしてそれをやり過ごすことになる。
 人に甘えたり頼ることを自らに許さない少年であるルーファウスは、自分が大人の庇護をまだまだ必要とする年齢なのだという事実に気づいていないか、あるいはそれを認めたくないらしい。
 ツォンはこの少年の自尊心を傷付けたくなかったので、ルーファウスが自分を子供扱いするなと苛立ってもそれをさらりと受け流していた。だが、まさにその余裕の態度が、逆に彼を傷付けているらしいと知り、どうしたらいいものかと頭を悩ませていたのだった。
 明確にはわからなくても、そうした困惑は感じ取れる。今日苛立って怒ったのも、ツォンにではなく、ツォンを悩ませているらしい自分になのだ。
「何て言って謝ればいいのかな……。怒ってる…よな? きっと……」
 考えれば考えるほど、気が滅入ってくる。人気のない砂浜をただ歩いていても、面白くはなかった。
 ツォンに何と言って謝るかはその時に考えることにして、部屋に戻ろうかと屋敷に向かって歩き始めた時。
 視界を、何か動く物がある。サッと黒っぽい影がよぎったのを、ルーファウスは見逃さなかった。
 とっさに思ったのは、自分を害そうとする者ではないかということだった。
 しかし、それならわざわざ隠れる必要はないだろう。どう見てもいまの自分は一人で、無防備な状態でいるのだから。
 幸い、炎のマテリアは身に着けていた。ファイアしかまだ自分は使えないが……相手をひるませて逃げる隙を作るぐらいの役には立つだろう。
 ルーファウスは、影が消えていった方角に向かって急いで走った。

「おかしいな……確かこっちに来たと思ったんだけどな」
 影を追って来たルーファウスは亡くなった母親が作らせたバラ園に入り、きょろきょろとあたりを見回している。
 寒冷な地方なら温室ということになるのだろうが。常夏の気候であるコスタ・デル・ソルでは、気温と湿度が高過ぎてうまくバラが育たないのだった。そこで人工的にそれらを調節して、バラが咲くようにしたのだ。いわば、南国に作られた冷室である。
 中をさまよい歩く内に、ルーファウスは黒い大型犬がのっそりと寝ているのを見つけた。
 いや、それは正確には犬ではなかった。背中には、長い触手がある。それは、一瞬尾と見間違えたほどに長い。
「モンスター……?」
 思わず息をのんだルーファウス。こんなところに、何故――!?
 そう思った瞬間、獣の方でもルーファウスの声にビクッとして起き上がった。
 身を起こすと、ずい分大きな獣であることがわかる。後ろ脚で立ち上がられたら、下手をすると自分の背より高いかもしれない。
 腹部は薄いオレンジ色をしていたが、その他は全身真っ黒だった。漆のように黒く、艶々とした毛並み。
 一瞬、奇妙な既視感を覚える。何だろう、この感じは。
 と、思う隙もなく、獣が自分から逃げ去ろうとする。
「待って! ――逃げないで、お願いだから!」
 動きをやめ、犬もどきの獣がルーファウスの言葉に従うか、従うまいか。逡巡して見つめている。
「ごめん、驚かせて。何もしないから、側にいてくれないか?」
 ルーファウスは必死になって呼びかけた。何だかわからないが、このまま行かせてはいけないような気がするのだ。
 獣を安心させようと、床に腰を下ろす。おいで、と優しい声で呼びかけると、獣はためらうかのように少しづつ近寄ってきた。
「お前、どこから入って来たんだい? 友達は? 仲間はいないの?」
 だが、獣は警戒をまだ緩めてはいないようだった。そろそろとルーファウスの隣りにまで来たものの、全身の筋肉が緊張しているのがわかる。
「僕は一人なんだよ。お前もそうなら、ここにいて話を聞いてくれないか?」
 笑顔を向けられて、獣はようやくルーファウスの隣りにうずくまった。耳をピンと立てているところを見ると、警戒は解いていないようだったが。
「お前、名前は? ――って、喋れるわけないよな。僕はルーファウス。そうだね、お前の名前……何がいいかな?」
 小首を傾げ、そっと背を撫でながら考えているルーファウスを、獣は大人しく見上げている。
 その瞳には知性の光があり、無駄なく筋肉が付いたしなやかな身体は、美しかった。それに、その毛並み。艶やかで黒々とした滑らかな手触りは、いま一番顔を合わせたくない人間の髪を思わせた。
「黒い民――ダークネイション。そうだ、僕はお前のこと、ダーネィって呼ぶことにするよ」
 ようやく納得のいく名前が決まって、ご機嫌なルーファウス。獣の方でもその名が気に入ったのか、嬉しそうに頭を擦りつけてくる。
「ふふっ。くすぐったいよ、ダーネィ。気に入ってくれたのかい? よしよし」
 クゥン……とひと声、獣が鳴いた。見た感じといい、その鳴き声といい。背中の触手さえ無ければ大型犬なのだが。
「聞いてくれるかい? 僕は大切な人を傷付けてしまった。悪いことをしてるってわかっているのに、やめられないんだ。でも、僕は本当はそんなことしたくない。いつも同じなんだ。言ったあと、後悔する。心が鉛になったように重くて、苦しくて。それなのに、素直に謝れないんだ……。今日もだ。どうしたらいいんだろう。何で僕はこうなんだろうな」
 あなたは悪くありませんよ。獣に言葉が喋れたら、恐らくそう言うのだろう。
 ダークネイションと名付けられた獣は、薄桃色の舌でルーファウスの手を舐め、尾を千切れんばかりに振っている。
「おかしなヤツだな。まるで、お前がツォンみたいに喜んでどうする」
 クスクス笑い、自分になついた獣にもたれかかる。
「でも、本当にお前って似てるよ。とてもキレイだ」
 いままで、あんな風に真っ黒な髪と瞳を合わせ持つ人間なんて見たことがなかった。
 みんなは僕のことをお母様似でキレイだって言うけど、僕はあいつの方がずっとキレイだと思うけどな。
 取り留めなく、ルーファウスは心に浮かぶことを獣に話しかけた。ツォンのこと、母親のこと、自分の幼い日の思い出――。
 獣は、大人しくルーファウスの話を聞いている。まるで人間の言葉がわかるような、神妙な顔つきで。
「あれ、何だか…眠くなってきた……。お前とこうしてると……気持ちいい…な……」
 言うそばから、ルーファウスは眠ってしまった。すやすやと安らかな、規則正しい静かな寝息を立てている。
 獣は自分にもたれかかったまま寝入っているルーファウスを起こそうとしたのか、一度だけ鼻先で額をそっと突いた。
 だが、一向に意識を取り戻しそうにないのを見て取ると、諦めたようにそのまま大人しくなった。
 穏やかな時間が、一人と一頭の上を流れていった。

「あれ? ここは……?」
 目を覚ました時、僕はパジャマに着替えさせられた状態で、自分のベッドの中にいた。
「うたた寝してるところを、ツォンが見つけて運んできたんですよ。ルーファウス様、いくらここが年中夏の気候だからとはいえ、そんな真似をなさると風邪をひきますよ。気をつけて下さい」
 僕が外でうたた寝など、これが初めてのことだった。どこか体の調子が悪いのではないかと、医師は心配になって僕が目覚めるまで側に付いていたらしい。
 どうやらその心配は無さそうだとわかって、ホッとしていた。眠りが足りたせいで、僕は大層ご機嫌だった。神経過敏気味だったのが、すっかりおさまっていた。それは、傍目にもわかるようだ。
「今度から気をつけるよ。ごめんなさい、ドクター」
 ギョッとしている。そうだろうな。今のいままで、こんな素直な言葉を僕から聞いたことがないんだから。
「あ、いえ。風邪は万病の元ですからね。甘く見ないで下さい、ということがおわかりいただければ結構です。それでは、私はこれで」
 医師が一礼して出ていくのと入れ違いに、ツォンが部屋に入ってきた。間髪入れず来たところを見ると、隣りの部屋で控えていたに違いない。
 全く。どうしてお前はそうなんだろうね? まるで僕のことを見張ってでもいるみたいにさ。
 ――もちろん、そんなんじゃないのは僕が一番よく知っているよ。本当に一人になりたい時は、お前がそっといなくなってるからね。そのくせ、何かあればすぐ駆け付けられる距離にいるんだよな。
 そういえば、僕を見つけたのはツォンだって言ってたけど。ダーネィはどうしたんだろう?
「お目覚めですか、ルーファウス様」
「僕を見つけたって……どこで?」
「バラ園ですよ。お姿が見えないので、心配しました」
「僕だけ?」
「ええ。――他に誰か居たとでも?」
「いや。何でもない」
 恐らく、じっとしているのに飽きたんだろう。首輪とかしてなかったけど、ダーネィは誰かの飼い犬なのかな?
 野生のモンスターって、あんなに賢くて毛づやがいいものかなあ。それに、あまり獣臭くなかったし……。
 僕はあの犬もどきの獣のことを考えていた。不思議な獣だった。どこから来て、どこへ行ったのか。
 また会いたいと思った。ダーネィ相手になら、心の内を素直にさらけ出すことができた。
 僕にはいまのところ、他に自分を偽りなく見せることのできるものが無かった。ツォンにさえ、いい子の自分しか見せたくなかった。
 ――だって、嫌われたくなかったから。それなのに、僕は一体何をしてる?
「いろいろ言いたいこともありますが、取りあえず風邪もひかれなかったことですし。お説教はまたの機会にして、夕食にしましょう」
「うん。あの……ツォン?」
「何でしょう?」
「その、今朝のことだけど……。ごめん」
 いろいろ考えていたのに。実際に目の前にいられると、これだけ言うのがやっとだった。
 こんなんじゃ、謝ったことにならないかもしれない。僕は自分で自分に嫌気が差して俯いてしまった。意外にも、ツォンはそんな僕を許してくれた。
「私より、あなたの方が辛かったでしょう? 大丈夫。私はあの位では傷付いたりしませんから。気にしなくていいんですよ」
 さあ、着替えて下さい。食堂に行きましょうと言うツォンの顔は、でも、とても嬉しそうだった。
 僕は抱きかかえられて部屋に運ばれる時のことを、かすかに覚えていた。深く眠っていたはずなのに、神経の一部が目覚めていたのか。
 ツォンの胸は暖かかった。鼓動が心地よかった。心に何の不安も無く寄りかかっていられた。――ダーネィにそうするように。
 何となくきまりが悪くてモジモジする僕の頭を、ツォンは無造作にくしゃっと撫でた。
 掌から、不思議な安心感が全身に広がっていった。彼が本当に許してくれているのだと知って、僕は嬉しかった。
 食事の時、何故かダーネィのことを話しそこなってしまったが、何となくこのことはツォンにも秘密にしておきたかった。
 その日。僕はいままでに無いほど幸せな眠りに落ちたのだった。
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