3.

「ダーネィ! いたら返事して!」
 あれから僕は、夕食前のわずかな時間をダークネイションと過ごしていた。
 初めて会ったバラ園が、どうやらダーネィのお気に入りの場所らしい。黒い大きな体をのっそりと横たえて、僕が来るのを大人しく待っている。その姿は、まるで僕の飼い犬のようだった。
 講義が長引いた時には、早く会いたくて走って行った。嬉しいことに、そんな時はダーネィの方もしっぽを振って駆け寄ってきた。抱きついて頬ずりすると、甘えて鳴く。
「お前、本当にモンスターらしくないな」
 笑い出す僕にそんなことはないとばかり、しなやかな触手を絡み付かせる。もちろん、僕を害そうという気は更々無い。ただ、ふざけて首に巻き付けて遊んでいるだけだ。
「ダーネイ、お前寂しくはないのかい? 仲間はいないの?」
 どこからともなく現れて、いつの間にか消えている黒い獣に、僕は何度か尋ねてみた。人の言葉がわかるはずもないダーネィは、その度に不思議そうに僕を見上げて鳴いた。
 少し単調で退屈な、でも、穏やかな日々。僕はこの生活がずっと続くものだと、そう思っていた。だが――。
「――え?」
「しばらくお別れですね、ルーファウス様」
「任務って……お前は僕の側にいればいいんじゃなかったのか」
「ルーファウス様はその間、ミッドガルへ行かれるご予定だと聞きました」
「何だって!? そんな話、聞いてない。一体誰が?」
「お父上――プレジデントがお呼びだそうです。用件の内容までは、知らされていません」
「オヤジ絡みのことは、ロクなものじゃないんだ。気が進まないな」
 この時、僕は自分のカンを信じるべきだった。絶対に、あの「腐ったピザ」なんかに行くべきじゃなかったんだ。
「お気持ちはわかりますが。もう、迎えの者も来ていますし」
 ツォンに背中を押されるようにして、僕は渋々歩き出した。まるで屠殺場へ引かれていく家畜のような顔をしていたのだろう。そんなにお父上に会うのが嫌ですか? とツォンが苦笑いした。
 だが、迎えの一団を見て、ツォンの顔色が変わった。
「あれは……科学部門直属の」
 普通、こうした時にはタークスの中で手の空いている者がやって来るはずだった。
 ところが、いま目の前にいるのは科学部門の諜報員だった。僕の護衛のためだけに彼らが駆り出されるのは、おかしい。
「ツォン、ミッドガルまでが無理なら、せめてジュノンまで一緒に行ってくれないか?」
 頭の中で、警報が鳴っていた。得体の知れない不安で、胸が締め付けられそうだった。僕の抱いた不安を、彼も共有しているようだ。
 プレジデントは何故ルーファウス様を? と問い質している。
「さあ。私は、宝条博士の所までルーファウス様をお連れするようにと命じられただけですので。何のご用でかは、存じません」
 感情の欠落した声で迎えの男はそう言うと、僕を車に押し込んだ。

 ルーファウスが海を渡るのは、久しぶりだった。行き先がミッドガルでなければ、彼も心が沸き立つのだろうが。
 ジュノンへの船に乗ったルーファウスは、甲板に出ることを禁じられた。まるで、逃走するのを防ごうというかのように。ただでさえ不機嫌な彼は、このお陰で更に軽い鬱状態になってしまった。食事には一切手を付けず、水だけを口にする。船内を歩き回ることを禁じられたわけではないのに、彼は自分から船室に閉じこもってしまった。
「よろしいのですか? 放っておいて」
 手を付けられることのない食事を下げに来る船員が、ふさぎ込むルーファウスを見かねて、諜報員に非難の眼差しで問い質した。だが、余計な口を挟むなと目で凄まれ、彼は黙るより他なかった。
 ジュノンからはヘリで移動したのだが、その間、ルーファウスは一言も喋らなかった。船室にばかりいて、いい加減退屈しているはずなのだが。
 船では眠れなかったのか。目の下の薄い皮膚が、黒ずんでいる。それでも、時折うつらうつらとするのだが。寝入る前にはっとして居住まいを正す。まるで、眠ることを恐れているかのように。
 迎えに来た男は子供のあしらいが上手いとはお世辞にも言えない性質で、不安に怯え、極度の緊張を長時間強いられているルーファウスの心をほぐしてやろうなどとは、間違っても考え付かないタイプだった。
 ヘリの中を、不自然な沈黙が支配していた。
 プレジデントルームは、無人だった。男はそこを素通りして、すぐにルーファウスを67階へと連れて行く。
「オヤジの用じゃなかったのか?」
 不信感も露わに、ルーファウスは歩き出すのを一瞬ためらった。だが、男は薄笑いを浮かべ、宝条博士がお待ちですよと言うばかりだ。ルーファウスは、宝条が大嫌いだった。あの、爬虫類を思わせる冷たい目。あの男は、世の中に存在する生き物はみな、自分の実験用サンプルだと思っているのではないか。そんな風に見えるのだ。
 いつの間にか、護衛の数が増えていた。その物々しさに、ルーファウスはついに耐えられなくなって叫んだ。
「もう帰る! こんな、ワケのわからない呼び出しなんて。僕はご免だ!」
 くるりと回れ右をして、屋上のヘリポート目指して走り出したルーファウスだったが、すぐに男達に取り押さえられる。羽交い締めに抱きかかえられても、暴れるのを一向にやめようとしないルーファウスを、男達は持て余したのか。仕方ない、という声が聞こえた。同時に、腕に注射器が突き立てられる痛みを感じたルーファウスだったが、やがて意識が遠くなっていく。完全に気を失う直前、かすかに聞こえたのは、苛立つ男達の声だった。手間のかかる子供だ。若様だからといって、甘やかし過ぎるのがいけないんだ。特に、あのタークスの男。奴がいたら、恐らくもっと手こずっていただろうさ。まあ、だからルーファウス様から引き離しておこうと、プレジデントも念には念を入れられたんだろうがな。
 僕からツォンを引き離す? じゃあ、彼に任務を与えたのは、わざとだって言うのか。何のためにそこまでする必要があるんだ、オヤジ――。
 闇が、ルーファウスの意識を完全に閉ざした。

 誰かが僕を呼んでいる。ルーファウス、ルーファウス。可哀想な子。お前はいつか、あの人に――。守ってやれないわたくしを、どうか許してね。わたくしは、もう疲れ果ててしまったの。
 これは、お母様? 何故僕のこと、可哀想だなんて言うの。守るって、一体何から?
 足元まである、細身の白いドレスを着た女の人。悲しげに目を伏せたその人は、僕と同じ色合いの髪と目をしていた。間違いない。僕がまだ小さい頃に亡くなったお母様だ。
 なつかしい、優しい声。柔らかな花の香り。僕はお母様に抱き付いたものの、そのなめらかな白い肌の冷たさに驚いて、あわてて離れようとした。違う。これは、お母様じゃない。本物のお母様は、いつだって温かかった。あの日、だんだんと冷たく、固くなっていかれるまで。
 シミ一つ無かったキレイな白い肌に、不気味な痣が浮かんできて。怖くなって悲鳴を上げた。一度叫び出したら、止まらなかった。様子のおかしい僕に気づいた使用人達が部屋に飛び込んで来た時には、お母様はもう、蘇生させる術がない状態だった。
 ――そうさ。お母様は、お亡くなりになったんだ。泣き叫ぶ僕の目の前で。だから、いま目の前にいるこいつは、お母様じゃない。
「お前は何だ? お母様の姿をして、僕をたぶらかそうとして。僕から離れろ!」
 突き飛ばそうとしても、ニセモノのお母様は僕を一層きつく抱きしめるばかりだ。僕はもがき、何とかして逃げ出そうと拳でニセモノの胸を叩いた。
「坊や、いけない子ね。乱暴はよして。一体何をそんなに怖がっているの? わたくしは、坊やの心にいるお母様と同じでしょう。坊やがわたくしを忘れないでいてくれたから、こうして戻って来ることができたのよ。安心して、お眠りなさい。昔のように子守歌を歌ってあげるわ。ね?」
「お前が一体何かは知らないけど。人はね、一度死んだら二度とは生き返らないんだよ。それを、戻って来ただって? 嘘をつくな! 化け物め!」
 僕の言葉が終わるか終わらない内に、ニセモノのお母様はみるみるその姿を変えていった。それはまるで、蝋人形を火にくべて溶かすような速さで別の姿になった。今度は、僕をかばって命を落としたタークスだ。
「ルーファウス様、お久しぶりです。私のことは、まさかお忘れになったとはおっしゃらないですよね?」
 ああ、覚えてるよ。僕の代わりに爆弾で吹き飛んだんだっけね、お前は。でもね。あいつは間違っても、こんな風に恨みがましく僕の前に姿を現すようなマネをしないヤツだったよ。
 僕はあいつに肩車されるのが大好きだった。そしてあいつは、僕のことを年の離れた弟みたいだって笑ってたんだ。僕がどんないたずらをしても、ニコニコとね。
 腹が立った。僕の大好きな人達のニセモノに。想い出を汚され、傷付けられたような気がして。
「お前が一体何をしたいのかは知らないけど。僕の好きな人を装って近づこうとするなんて、ずい分やり方が汚いじゃないか。それとも、何かい。お前には、自分自身の身体が無いとでも? どっちにしても、僕はお前が好きになれそうにないな。わかったら、離れてもらおうか。さあ!」
 僕に拒絶され、それは人の姿を保てなくなったのか。ドロドロと流れ落ち、気味の悪いゲル状の塊になって僕の足元に這い寄ってきた。
「力強い生命……輝くオーラ。熱…熱……ネツが欲しい……」
 プルプルと震えながら、後ずさりする僕をどこまでも追ってくるゲル。これは悪い夢だ。早く目覚めればいいんだ。
「オオ…アタタカイ……ヒトノカラダ。ホシイ、ホシイ、ホシイ……」
 まるで、アメーバが獲物に触手を伸ばすように、ゲルは僕を捕らえようとして偽足を巻き付きようとする。
「冗談じゃない。お前のような化け物にとっ捕まって消化される趣味なんて、僕には無いぞ!」
 次々に繰り出されるゲルを手でなぎ払い、どうすればこの悪夢から逃れられるのかと苛つく僕の耳に、ゾッとするほど冷たい男の声が響いた。僕を本社まで連れて来た男の、感情の欠落した声なんて。これに比べれば、全然気持ちいい。
「フム。拒絶反応が思ったより強いな」
 僕にはわからない薬品の名を、男は口にした。すると。
「博士。それは……」
 バイタルが落ちています。これ以上は、危険なのでは。
 博士と呼ばれた男に、別の若い男が非難の口調で抗議している。と思えば、また別の誰かがこう言った。
「サンプル達と同じに扱うわけにも、いかないでしょう。万一のことがあれば、プレジデントだってあなたを許さない。彼はただ一人の子供で、神羅の後継者なんですよ?」
「だからだ」
 クックックッ……。彼の声を聞く者全ての血を凍らせるほどの悪意をにじませて、男は笑った。
「唯一の後継者が、病死したり事故死したり。そんなやわなことでは困るのだよ。ん?」
「しかし、博士。こんな……これほどの処置が、この子に必要なのですか。ソルジャー1stでさえ、魔晄照射はこの半分の量。まして、ジェノバを移植するなど。本当に、ここまでプレジデントはお許しになったのですか?」
 彼は、その先を続けることがかなわなかった。恐ろしい悲鳴がした。同時に、人々が空気を呑む。――恐らく床には、頸動脈にメスでも突き立てられた男の死体が転がっているのだろう。さもなければ、こんなに血腥い臭いがするはずがない。
 だから、ミッドガルに来るのは嫌だったんだ。本社に来るなんて、絶対嫌だった。それなのに。
「さて、諸君。死体をこれ以上増やさないためにも、お喋りはやめて欲しいものだな。いま我々に必要なのは、手を動かすことだ。口を開くことではない」
 シンと静まり返った部屋に、様々な機器の立てるかすかな作動音だけが響く。
「やめろ、宝条」
 聞こえるはずもないと知りながら、僕は必死に口を動かそうとした。
「博士! ルーファウス様が、意識を」
 ホッとした空気が広がるのを、僕はおぼろげに感じた。しかし、それも一瞬のことだった。
「全く、見上げたものだ。これは強い心の持ち主らしいな。普通なら、とうに済んでいるものを。強情な」
 局所麻酔はかけている。痛みは感じていないだろう。少なくとも、肉体的にはな。嘲るようにそう言い、宝条は再び笑った。
「あまりに強い精神力を持つ者が、拒絶反応を起こすとどうなるか。それをご存じないわけではありますまい。博士は、ルーファウス様を廃人にしてしまうおつもりですか?」
「弱い心の持ち主もまた、同じ道を辿ることになるがな」
 これは、あの男の息子だ。死にたくなければ、自分で何とか折り合いをつけるだろう。
「心を他者に開放しきるほど、弱くはない。さりとて、あれを異物として全て排除できるほどの気力と体力が、これにあるかどうか。見物だな」
 勝手なことばかり言う男だ。人のことを、何だと思ってる? ――ああ。そうだった。宝条は、自分以外のものは全てサンプルにしか思っていなかったっけ。
「バイタル、更に低下。危険です!」
 研究員達の動きが、慌ただしくなった。僕はこのまま死ぬのかな。
「ダーネィ…ツォン……」
 オヤジなんて、どうでも良かった。ダークネイションは、ずっと僕を待っているのだろうか。それに、ツォン。こんな急に別れなければならないと知っていたら、一度くらい素直に謝りたかったよ。僕はお前に、いつも心配ばかりかけていたね。
 僕はゲルに巻き付かれ、窒息しそうだった。空気を求めて喘ぐと、触手のように伸びたゲルの一部が、口から入ってきた。不快を通り越して、僕は得体の知れない物に自分を蹂躙されるのが惨めで悔しく、恐怖より憤りを感じていた。
 薄れていく意識の中で思ったのは、再びツォンに会えるだろうかということ。あれほど、僕を大切にしてくれたのに。僕はまだ、お前にありがとうの一言も言っていない。
「……ごめん」
 ツォンの顔を思い浮かべた時。僕は頬が濡れたような気がした。

 目覚めた僕を襲ったのは、激しい頭痛。それに、猛烈な吐き気だった。寝ていても体を起こしてみても、どんな姿勢を取っても苦しかった。手足が、妙に重い。
 それ以上に嫌だったのは、何とも言い難い違和感だった。まるで、自分の中に何か別の物がいて、そいつが僕を貪り食おうとしているかのような――。
「待てよ。あの時、あいつは何と言った? 確か、魔晄照射にジェノバの移植がどうとか」
 ジェノバ。古代種の一部とされている、古い地層から見つかった謎の細胞。神羅のトップシークレット。セフィロスは、この細胞のお陰で驚異的な体力や戦闘能力を持つことができたのだという。まさか、それと同じ物を僕に植え付けた?
 背筋が凍る思いだった。いつ僕が、そんなことをしてくれだなんて頼んだ?
「まさか、そんな……」
 だが、否定するそばから、頭の中で割れんばかりに嘲笑が響く。僕はそのまま気を失った。

「お前の望みは知っている。父親から解放されたいのだろう? 手を貸してやる。その代わり、こちらの要求に耳を貸さないか」
 断る。オヤジを倒すのに、他人の力など借りない。それでは、たとえ解放されたとしても意味が無いんだ。僕は僕のやり方でやる。
「強情なことを。あの男が、一体あと何年生きると思っている? 頑健な肉体。強靱な精神力。お前があの男の後釜に座る頃には、お前の子供が父であるお前を押しのけて、祖父の占めていた座につきたいと願っているだろうよ」
 だから? 何だと言うんだ。僕に父殺しでもしろと言うのか。
「手を汚さずに、お前がプレジデントになれるよう手を貸そうと言うのだが。悪い取引ではないはずだ」
 美味しい話には、必ず裏がある。タダほど高い物は無い。お前の話も、同じだな。
「人の提案を聞きもしないのに、その内容がわかると言うのか」
 わかるさ。お前は、僕の中に植え付けられたジェノバだろう。オヤジはどう思っているか知らないけど。お前は、ただの細胞なんかじゃない。人に寄生して生きる化け物だ。化け物の言いなりになんて、なれるものか。
「もう遅いということが、お前にはわからないらしい。お前の血肉に、神経系に、細胞の一つ一つに、私は既に溶け込んでいる。お前と私は、もはや運命共同体だ。諦めて、現実を受け入れるのだな。――お前は賢い。その上、強靱でしなやかな精神力も持ち合わせている。だが、ヒトの体は脆い。百年保てばいい方だ。私を受け入れるがいい。そうすれば、お前は肉体の衰えに脅かされることなく、世界を意のままにできるのだ。これは、お前の父をはじめ、世の権力者が願ってやまないことではないか」
「断じて嫌だ!」
 実際に、叫び声を上げたのかどうか。飛び起きた僕は、全身に冷たい汗をかいていた。夢の中でジェノバと交わした会話は、全部覚えていた。
 運命共同体だって? 結構。それなら、僕自身がけりを付けてやる。
「プレジデントになりたいのは、僕じゃない。お前だろう。この世界をどうしたいのかは知らないが、化け物に支配させるわけにはいかないね。お前は僕を便利な宿主と思ったようだが、そうはいかない。――これが、僕の答えだ!」
 化け物に支配されてまで、生きていたくなかった。いまはまだ、意識も感覚も感情も、全て僕の物だと胸を張って言える。でも、この先は? 一年後に、僕はまだ完全に僕のままでいられるだろうか。三年後は? 五年後は? 十年後、数十年後は。
 恐らく、日一日と僕は僕でなくなっていく。変わっていく。そんなのには、耐えられない。
 何か使える物はないかと、あたりを見回してみた。恐ろしく殺風景な部屋だった。僕の目的にかなう物など、一つも無い。と思ったが、ふと、自分が点滴をされているのに気づいた。ちょっと手こずりそうだけど、この際仕方ない。
 プツリ。突き立てた針の先から、血が玉になってあふれ出す。痛さや怖さよりも、針が目的を達成するまで保つのかどうか。その不安の方が大きかった。最初は苦労したが、だんだん慣れてきた。大きくなっていく傷口に、僕は満足していた。
 本気で死ぬつもりの僕は、手首の血管を縦に切り裂いた。いまでは、血が噴き出し始めていた。シーツが朱色に染まっていく。どの位で意識を失えるのだろうかと、僕は錆びた鉄の臭いを嗅ぎながらぼんやりとベッドに横たわって考えていた。
 確か、ぬるい風呂に浸かって血管を切り開くのが、一番苦痛を感じないですむとか聞いたな。古代の貴族が、そうやってよく自殺したとか、歴史の本で読んだ気がする。妙なところで変な知識が、役に立った。横に切っても、手当て次第では助かるそうだから。それは、困る。僕はこの化け物を道連れに、確実にあの世へ行かなきゃならないんだから。
 この期に及んで未練など無いが。それでも、思う。ツォンに一目会えたら――と。
「お前は僕を守ると約束してくれたのに。僕ときたら、お前に何の断りもなく死のうとしている。ごめんよ。でも、わかって欲しい。他に方法を思い付かないんだ」
 お前だって、化け物になった僕のことは、きっと好きになれないよ。お前から嫌われるのは、僕には死ぬより辛いから。許してくれとは言わない。ごめん。ごめん……。
 ああ、それなのに。
「全く、どこまで世話を焼かせる気だ。お前を見舞いに来たプレジデントは、卒倒しかねん有様だったぞ」
 フンと鼻を鳴らした宝条が、呆れ果てた表情で僕をのぞき込んでいた。
「僕は…何で生きてる……?」
 腕の傷に目をやると、まだ醜い痕は残っていたが、出血は治まっていた。痛みも、鈍く感じる程度だ。要するに、僕は死に損なったというわけか。
「何でだと? ハッ! 愚かなことを言う。ジェノバ細胞の治癒力は、驚異的だ。知らなかったか? ん?」
「驚異的? 普通なら、間違いなく死んでいる。それが、こんな! ――おかしいとは、誰も思わないのか」
 僕は宝条を睨み付けた。この男はオヤジを、神羅を利用して、一体何を研究している? どうして、みんなはこいつを野放しに研究させているんだ! 僕なら――。
「言葉は正しく使って欲しいものだな、未来のプレジデント。『おかしい』ではない。『素晴らしい』だ」
「前から思ってたけど、いまは心から思うよ。この会社は、狂ってる。ここはモンスター製造所か?」
 僕の言葉には答えず、宝条は部下達に指示を与えていた。切れ切れに聞こえる言葉からは、これから起こるだろうあまりありがたくない事態への対処法がうかがえた。移植された細胞への拒絶反応が、発熱や嘔吐という形で現れるだろうと。
 だが、そんなことはもうどうでも良かった。一つ、はっきりしたことがある。その事実に打ちのめされ、泣き出したかった。
 ――いまの僕には、死ぬ自由さえ無い。悲しいはずだが、涙はとうに枯れ果てていた。

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