Tiny rainbow


 その子供は、誰もが羨むような存在だった。
 母譲りの美貌、世界の覇権を握る神羅カンパニーの唯一人の後継者として、ありとあらゆる物に恵まれた少年。
 だが、大勢の大人にかしずかれながら、彼は少しも幸せそうではなかった。
 いつも何かに苛立っていて、しばしば癇癪を起こしては周囲の人々を困らせている。彼がその状態を決して楽しんでいるのではないことは、癇癪を起こした後、部屋に閉じこもって泣いていることからも明らかだった。
 食事も摂らず、誰かと話をするわけでもなく。唯一人、ペットさえいない、子供には少々広過ぎる部屋で涙を流す。
 それを知った時、幼い子供にとって一番必要な、かけがえのない物が彼には欠けているのだとショックを受けた。――無私の愛情。
 母親は身体が弱く、数年前に儚くこの世を去っていた。
 父親の方は世界を動かすゲームに夢中で、彼の孤独に気づくどころか、地の果てというべきウータイをも支配下に置こうと目論む有様だ。
 この世で最も幸福になれるはずの少年は、いまのところ孤独と絶望に苛まれる、それでいて他人からは羨望と嫉妬の眼差しを向けられる、この世で最も不幸な少年だった。

「――ツォン!」
 珍しくご機嫌なルーファウスが、顔を輝かせて走り寄ってきた。
「どうなさいました?」
 彼が手に何か持っているのに目を留めて尋ねると、いつもの大人びた表情ではなく年相応の子供らしい、愛らしい笑顔で本を見せる。
「ほら、これ! すごくキレイだ。虹っていうんだって。お前、知ってる?」
「ああ。雨が降った後、急に陽が射してくると見られますよ。それに、滝のそばでも見えることがありますね」
「ふうん……。ツォンは何度も見たことあるんだね。あのね、知ってる?」
「――何をですか?」
 瞳をキラキラと輝かせて自分を見上げているルーファウスは、我が儘いっぱいな時とは異なり、本当に可愛らしい。
 もっとも、ルーファウスはどういうわけか私にはなついていて、私が彼に八つ当たりされることはまずなかったのだが。
「虹は幸せの象徴なんだって。だから、人は虹が好きなんだってさ。そうかぁ。だからツォンは幸せなのかぁ……」
 ルーファウスの顔が、急に曇った。どうしたのかと思えば、本に目を落としてポツンと呟く。
「僕は本物の虹を見たことがない。――僕が幸せじゃないのは、そのせいなのかな」
 ハッとした。ルーファウスは、自らの不幸に気づかないほど愚かではない。いや、むしろ鋭敏過ぎる頭脳と感受性が、彼の不幸の源といえた。
 何かしてやりたかった。私には、彼を取り巻く環境を変えるだけの力はなかったが……。そして、ある事を思いついた。
「ルーファウス様、ちょっといいですか?」
 小さな手を取り、館の外へ出ようと促す。
「何をするの?」
 一瞬不安そうに呟く。しかし、すぐに興味津々といった表情で私を見つめ、手を握り返す。
「いいものをお見せしますよ」
 あとは秘密です、と言って私は微笑んだ。ルーファウスは小首を傾げ、私に手を取られて歩き出した。

「そこにいると、水がかかりますよ。こちらへいらして下さい」
 突然庭園の整備に使っているホースを出してきた私を、ルーファウスは怪訝そうに眺めている。どうやら、これから何が起こるかまだ気づいていないらしい。
「ほんの一瞬ですからね。よく見ていて下さい」
 ホースを持ち上げ、空中に水を散布する。即席の霧のヴェールができ上がり――それは小さな虹が生まれた。
「すごいや! 虹だよ!?」
 無邪気にはしゃぐルーファウスを見て、私は心から良かったと思った。人工の虹はすぐに消えてしまったが、それでもルーファウスは大満足した様子だ。
「ツォンって、魔法使いみたいだ。――呼べばいつもすぐに飛んできてくれるし、何でも知ってるし。虹まで作れるなんて、知らなかったよ」
「私はただの人間です。少しばかりあなたより長く生きているだけの……。もし本当に、私に魔法が使えたら――」
「どうするの?」
 この世を生きるには辛いだろうと思わせる、汚れのない天上の青を湛えた瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「――何でもありません。さあ、お部屋へ戻りましょう」
 喉まで出かかった言葉を飲み込み、私はルーファウスの背に手を回した。
 ……アナタヲクルシメルモノノナイセカイニ、ツレテイッテアゲタイノデス。アナタノエガオヲ、マモルタメニ。
 しかし、彼には聞かせる必要のない言葉だ。それは彼が不幸だと、断定するようなものだから――。
 それは遠い昔、ある夏の日のささやかな想い出だった。

「こちらへ! ――濡れるとお身体に障ります」
「いきなりヒドイ雨だな。このところ、天候が不安定なようだが?」
「異常気象の件は、リーブ部長が魔晄との相関関係を調査中です。魔晄炉が破壊された際、一時的にミッドガル周辺の大気に大量の魔晄が放出されました。そのせいで、ヒートアイランド現象が加速されたのだろうと……」
「知っているか? 民衆達はもうすぐこの世界が終わるらしいと騒いでいる」
「何を根拠に……! バカげています」
「そうかな? 死んだはずの人間が甦り、神羅のプレジデントともあろう者が社長室でかつての英雄に殺される。魔晄炉はテロリストに爆破され、絶対に落ちるはずのないプレート都市が落下する。その上、この異常気象だ。ミッドガルはいつから熱帯の気候になったんだ? 季節でもないのに、スコールみたいな夕立がしょっちゅう降る。雷が轟いたかと思えば、翌日にはうだるような暑さだ。かと思えば、局地的に雹や霰が降る。――これで何も思わないとしたら、その方がどうかしてる。そう思わないか、ツォン?」
「ルーファウス様……」
「民衆の声は、天の声だそうだからな。このままでは、我々は滅びへの道を歩むだけだと警告されているのかもな」
「人類は滅亡するかもしれない。そうおっしゃるのですか?」
「私は、常に最悪の可能性を考えるようにしているんだ」
 冷笑と共に肩をすくめたルーファウスに、ツォンは首を振って答える。
「私は、そうは思いません。――覚えていらっしゃいますか? ずっと昔、ルーファウス様はこう言われました。『虹は、幸せの象徴だ』と。あれから調べたんです。何故そういう意味づけがなされたのかを。いまではすっかり忘れ去られた宗教の教典の一節に、この世界が太古の昔、大洪水で一度滅ぼされたことがあると記されていました。その頃、人類はいまと同じように堕落し、悪徳に耽っていたため、創造主である神の怒りを買ったのだと」
「ふうん? それが本当なら、何故この地上にいま人間達がいるんだ?」
「――全てを滅ぼしてしまうのを哀れに思い、神を畏れる心を持つ者と彼の家族だけは助けたのだとか。つまり、事前に大洪水のあることを教えたわけですね。そして、厄災から逃れる方法も教えた。ただ、それを信じて行動に移すかどうかは彼の自主的な判断に任せたわけです。結果はご覧の通りです。人間達は再び地上に満ちて、今度は星をも道連れに滅びかねない有様です。ですが、私達が自ら滅んでいかない限り――神が人類を滅ぼすようなことは二度としない。その神と人との契約の証が、実は虹だったというのですよ。なるほど、虹が希望や幸福の象徴とみなされるわけですよね」
「私にとっては、お前が作って見せてくれた小さな虹が唯一つの真実だ。この世界がどうなろうと、私達は変わらない。例え月が揺れ、星が落ちようとも。――違うか?」
「……太陽は、いつも私がいなくても沈みます。昨日も明日も、同じようなこと。でも、もうそんなことは気にならない。あなたが私を見つけて下さったから。あなたに出会うまで、この世界に私の居場所はないのだと思っていました。あなたが私を必要として下さったこと、それがどれほど嬉しかったか――。あなたには、おわかりにならないでしょうね」
 そう言うと、ツォンはルーファウスの手を取って跪き、かすかに触れるか触れないか、というほどそっとキスをした。
 それは、まるで何かの誓いのようで――ルーファウスはただその場に立ち尽くすだけだった。
「私は……お前にそんな真似をされる価値はない人間だ」
 やっとのことで、それだけを低く呟く。だが、ツォンは首を振って答える。
「あなたにご自分の価値を認識していただこうと思ったら、話すことが多過ぎて――。それこそ、一晩中でもかかりそうですね。眠くて仕方ないのに、どうしても眠れない。そんな目に遭いそうです」
 半分本気、半分冗談でそんなことを言い、くすくすと笑っている。ルーファウスは釈然としていない。私がお前に、いつ何をした!? そんな言葉が口から漏れる。
「――ただいて下さるだけでいいんですよ。あなたには、何も望みません。存在そのものが喜びなのですから」
「お前、やっぱり魔法使いだな。人の心を操る魔法を使う、お伽話に出てくる魔導士みたいなヤツだよ。……虹の作り方なんて、他にも知っているヤツは大勢いるだろうさ。でも、あの時私がどれほど見たかったか。それをわかってくれるのは、恐らくこの世でお前一人だね」
 視線が合った。ルーファウスが、その先も何か言いたげな表情でツォンを見つめる。
 瞳の中に揺らめく光に、ツォンはルーファウスに最後まで言わせてはならないと感じた。言葉にされれば、それを聞いてしまえば――きっといままでと同じようには、ルーファウスの側に立つことはできないから。しばし、沈黙が訪れる。それを破ったのはルーファウスだった。
「いつの間にか、雨が上がったな。――行こう」
 ツォンに背を向けて、いつものようにスタスタと歩き出す。ホッとしたような、少し残念なような複雑な感情を覚えつつ、ツォンは返事をして後を追う。数歩歩いた所で、ふいにルーファウスの足が止まった。先程までの激しい雨が嘘のような、打って変わった晴天。煌めく日射しに、見る者の目を奪わずにはおかない華麗な金髪が輝く。
「ツォン! 見ろ。――虹だ」
 それは唐突に現れ、見とれる間にかき消えていった。美しく、儚く、夢の中の出来事のようにも感じられる一瞬。
 完全に消えた後も、二人はしばらく余韻に浸るかのように無言で佇んでいた。やがて、寂しげな微笑を浮かべたルーファウスがツォンに向き直って言う。
「あんなに儚いものが、象徴? ……幸福とは、ずい分手に入りにくい物のようだな」
 いつもの皮肉めいた口調は影も形もなかった。
「形ある物として、手に掴むことはできない。何かにしまっておくこともできない。それでも、確かに存在する。――同じですね。虹も幸福も」
「なら、せいぜい手にした時はそれを失わないように気をつけるとしよう。それとも、失って初めて、自分がそれを手にしていたことがわかるものなのか――」
「行きましょう。まさかこんな所で時間を取られているとは、皆思っていないでしょうから」
「ああ」
 答えたルーファウスの隣で、ツォンは胸が痛む。きっと自分は、いつかこの人を独り置き去りにしていくのだろう。それは、そう遠くない気がする……。
 その時、この美しく誇り高い人は一体どこで泣けばいいのだろう。そう思ったのだ。
「ツォン!?」
 突然手を握られて、ルーファウスは驚いて叫ぶ。
 目を見開いて自分を見つめる主に、ツォンは穏やかに微笑む。
「――では、無くしてしまわないようにこうしていましょう。本当に大切な物は、決して手から離してはいけないんですよ。人はその腕に抱えられる物しか、本当には守れないんです。ひとたび手を離せば、もう二度と手にすることはできないんですよ」
「手に持てるだけって……そんなの、せいぜい一つか二つが限度じゃないか!」
「その通りです。宝物とは、そういうものなんですよ……」
 この男は、自分を選んだ。だが、彼は気づいているだろうか? とうの昔に、自分もまた彼を選んでいることに……。
「逃げないよ。――私は逃げたりしない。だから、安心しろ」
 心の中で、ルーファウスは呟く。私もお前に誓うよ。ずっとお前の側にいるから。お前以外の人間なんて、いらないから。他には何も望まないから。――側にいて欲しい。
「――またいつか、一緒に見ることができたらいいですね」
「ああ」
 そう言って歩き出した二人の表情は、もういつもと変わらないもので。
 だが、手は離さずに握られたまま――。
 いつもと同じ、しかし、今までとはどこか違う日常が始まったのだった。


= END =