Heavenly Blue


1.

 その店には、他に客がいなかった。
 止まり木では物憂い雰囲気を漂わせた白いスーツ姿の美女が一人、斜めに腰掛けて静かにカクテルを傾けていた。肩に垂らされた淡い色合いの金髪は、ゆるやかなウェーブを描いて卵形の顔をふちどっている。優雅な弧を描く細い眉、陶磁器のような透明感のある肌理の細かい抜けるように白い肌。
 少しキツめの表情と稀に見るほどの美貌は、白いスーツ姿と相まってある人物をイリーナに想起させた。
「何だか、ルーファウス様に似てる……」
 もちろん、本人であるはずがない。スリムな肢体に似合わない豊かな胸元を見て、思わずため息をつく。
「私もあんな谷間……欲しいかも」
 席に着くのをためらっている様子のイリーナに、バーテンが声をかける。すると、物思いに沈んでいた美女が顔を上げて振り返った。瞬間、二人の口から同時に驚きの声が漏れる。
「スカーレット部長!?」
「あら、タークスの新人じゃないの。ここにはよく来るの?」
「今日初めてです。以前通りかかった時……感じのいいお店だな、ってチェックしてたんですけど」
「そう。趣味はいいようね。――男の方の趣味はともかくとして」
 ツォンに片思いをしているイリーナをからかうように、スカーレットは華やかな笑い声を立てた。いつもの超音波を思わせるそれではなく、年の離れた妹を気遣うような優しさを感じさせる、ふくよかなものだった。
「その白いスーツとてもお似合いです。私、部長だってわかりませんでしたよぉ。髪も下ろされてて、雰囲気が全然違うんですもん。まるで――」
 あわててその先を呑み込む。だが、スカーレットは気分を害した様子もなくさらりと言った。
「社長みたいだ?」
「……ええ」
 イリーナはばつの悪い思いを味わいながら、コクンとうなずいた。そんな彼女に、スカーレットはコロコロと笑う。
「似てるのは無理ないと思うわよ。何しろあの人ときたら、好きな女のタイプが一生変わらなかったもの」
「プレジデントって、そうなんですか?」
 もうこうなったらヤケだ。幸いスカーレットは機嫌が良さそうだし、何をしたところで最初にブチかました以上の非礼にはならないだろう。そう割り切って、隣の席に座る。
「あんた、あの坊やの母親知ってるわよね?」
「はい。――それ、綺麗な色のカクテルですね。何だか部長の目の色みたいな空色で」
「私をおだてても特別ボーナスは出ないわよ。飲んでみる?」
 ヘヴンリー・ブルーをお願いね。スカーレットはそう言った。
 こうして間近で見ると、つくづく美人だと思う。普段ルーファウスを見慣れていて、美人にはいい加減免疫があるはずだが――。それでも青灰色の瞳に見つめられると、同性ながらドキッとする。
「それじゃあ、ツォンの母親のことは知ってる?」
「いいえ。詳しいことは、何も」
「ま、そうでしょうね。話し出すと長くなるから、今晩は勘弁してもらうけれど……。要するに、あの人って自分の言いなりにならない女に夢中になる癖があったのよ。恋愛を狩猟と間違えてるんじゃないのかしら? よくそう思ったものよ。坊やの母親といい、私といい。アキコもそうだけれど――みんな同じ。男に変えられるような可愛げのある女は興味が湧かないのよね。そこの所がわからないバカな女達が、次々に一晩限りで捨てられていったわ」
「部長って、スゴイんですねえ――」
 皮肉ではなく、素直に感動した。考えてみれば、プレジデントに女達が群がらないはずがなかった。自分より若く魅力的な女が出現したことも、当然あるだろう。それでもミストレスの座を守り続けたのだ。単に美貌を誇るだけではない、スカーレットにはもっと他の魅力があったと考えるべきだろう。
「当たり前じゃないの。私は人形のような女とは違うわ。それに、あの人の野望に役立つことを証明し続けていたしね。いざとなれば、相手に消えてもらうことも辞さなかったわ。――だって仕方ないじゃない? 私はあの人の関心を失ったら、全てを失ってしまうのよ。私に戦いを挑む以上、覚悟してもらうのは当然だわ」
「部長は、手にした夢に幻滅するようなタイプじゃないですもんね。いつもまっすぐ前を向いて、背筋を伸ばしてモデル歩き。女王様って感じですよ。でも、どうしていつも赤いドレス姿なんですか? ……いま着ていらっしゃる白いスーツも、本当によくお似合いなのに。何ていうか毅然として気品があって、それでいて艶やかで」
「フフフ。ありがとう、褒めてくれて。私も気に入っているのよ、この格好。白は大好きな色だもの。でもねぇ、白は誰かさんのイメージカラーでしょ? 私が着るわけにはいかないじゃない。第一、坊やの前はその母親がこの色しか着なかったのよねぇ。同じイメージで張り合ったら、間違いなく私の方が分が悪いわ。――私は、キーヤ・アースディースのフェイクなんだもの」
 空色の液体が、白い喉に流し込まれた。つられてイリーナもカクテルを手にする。飲もうとして、スカーレットの言葉が引っかかった。
 フェイク。贋物。本物に対する、まがい物。
 プレジデントが夢の中の姫君めいた夫人を一方的に愛していたことは、リーブやツォンから聞いて知っている。だが、プレジデントが叶わぬ愛の代用品としてスカーレットを愛したとは思えない。話で聞かされたキーヤ夫人とスカーレットとは、性格も容貌も全く異なるではないか。二人の間に、類似点などあるのだろうか。
 そうイリーナが考えた時、スカーレットは突然甲高い声で笑い出す。
「言ったでしょ!? あの人は女の趣味が同じだったんだ、って。同じことをしてたのよ、私とあの女は! それなのに、あの女が『妻としての義務を果たす』のと引き換えにあの人と取り引きすると人の同情を買い、私がベッドでおねだりすると非難轟々ってのはどういうことなのよ。おかしいじゃない?」
 白磁のような頬がアルコールのためか怒りのためなのか、ほんのり色づいている。一層艶やかさを増したスカーレットを、イリーナは当惑の表情を浮かべて見つめた。
 令夫人と愛人。二人の仲が良かったはずはなかろうが、これほど激しい唾棄の言葉がスカーレットの口から吐き出されるとは――。意外だった。
 ルーファウスとスカーレットはお互いに相手が仕事に関しては有能であるとの認識を抱いているらしく、その唇から個人攻撃の言葉が漏れることはなかったのだ。
 イリーナは、キーヤ夫人とスカーレットもそんな風だったのではと勝手に考えていたのだが。どうやら違うらしい。
「でもね、世間の奴らが私のことを娼婦呼ばわりするのにはまだ耐えられたわ。それが、どう? 私が、あの女のしていることは私と同じだと言ったら、あの人は血相を変えてこう言ったのよ。『キーヤの批判をするのは、絶対に許さん! あれはお前のような女とは違うんだ。そんな言葉を、二度と口にするな!』ですってよ。――笑わせないでよ!! 私は、確かにあの人を利用してたわ。でも、そのための代価は十分過ぎるほど支払ってきたのよ。愛する人さえ、この手にかけたわ――。誰からも踏みつけられないだけの力が欲しい。自分の運命を、自分で決めることのできる自由が欲しい。そう願った時から、私は他の物を手に入れるのを諦めたの。名前も変えたのよ。新しく生まれ直した気で――」
 イリーナはどう答えていいものかわからず、途方に暮れた目でスカーレットを見た。
 すると、スカーレットはイリーナの髪をサラサラと撫でて、愛おしそうに微笑んだ。
「キレイなツヤツヤの髪よねぇ。肌だって、スベスベでシミ一つないじゃないの。むき身のゆで卵みたいよ。私も、若い頃はこうだったわ。羨ましいわねぇ」
「あのぅ……名前を変えたって、ホントですか。部長はどちらのご出身なんですか?」
「いまではもう、存在していたことすら忘れ去られてしまった小さな町よ。海のすぐ側まで丘が迫っている、坂の多い所でね。――私の本当の名前は、ブランシュなのよ。土地の言葉で、白を表しているの」
 遠い目をして語り出すスカーレット。長い夜になりそうだと、イリーナは椅子に座り直した。