No fate


 ――あの女性(ひと)は、花の香りがした。
 いつも少し寂しげに微笑んで、白いドレスを身に付けていた。好んだ色は、白と黒。そして、彼女の瞳と同じ、深い青。嫌いな色は、炎と血を連想させる緋色だった。
 愛したものは、豊かな自然。それに、平和。周りの人々が常に笑顔であることを祈ってやまないような、心優しい女性(ひと)だった。
 もうひとつ、彼女が愛していたものは、彼女と同じ色の髪と瞳を持つ、たった一人の子供だった。彼女の不幸の元凶である夫との間に生まれた息子は、皮肉なことに彼女をこの世につなぎ止める、唯一の存在だった。
 彼女は鈴を振るような美しい声で息子を呼んだ。「ルーファウス」と――。
 月日は流れ、この世の全てに絶望した彼女は、星に還った。いまも彼女は……ライフストリームの中で、愛しい息子を見守っているのだろうか。

「わたくしの一族も、神羅の一族も――人間(ひと)としての分を超えてまで栄華を手に入れようと望んでいる。こんなこと、神様はお許しにならないわ」
 彼女がそうつぶやいたのは、いつのことだったろう。意味をはかりかねて小首をかしげた私に、あの女性(ひと)は説明してくれた。
「わたくしの名前、アースディースは、もともとエシル神族にあやかって付けられたと聞いています。わたくしの一族は、アイシクル地方が発祥の地なのです。言い伝えでは大昔、神族はもう一つあったそうです。ヴァニル神族というのがそれで、わたくしの一族はそれを打ち負かしたエシル神族の血を引いていると自称しているのですよ。それで、エシルの単数形アースから派生したこの名前を名乗ったそうです。何とも、その後の一族の運命を暗示するような話ではないかしら?」
 悲しげに私を見つめた彼女の瞳には、いまにも頬を伝って落ちそうなほどに涙がたまっていた。
「――ごめんなさいね。あなたの国を、お父様を救えなくて。何の力もないわたくしを、どうか許して下さい」
 私には、彼女を責める気持ちも恨む気持ちもなかった。運命というものがあるのなら、私が彼女と出会うこと、そして彼女の息子に出会うことが、まさしくそうだったのだろう。
 それに、彼女が夫には内緒で私の国の生き残りを援助していることも知っている。父のもとに、神羅の軍隊が攻めてくるという情報を秘かによこしたのが、彼女だったことも……。
 亡国の運命は、変えられないものだったのだ。
 国民全てを逃がす余裕はなく、父の側近達は最後まで神羅に徹底抗戦することを望んだ。それに賛同した兵士達の誇らしい顔は、敗戦後、見せしめに処刑される時も変わらなかった。ただ一人、神羅に捕らわれたものの死を免れた私に、彼らは逆に憐憫の表情を見せたものだ。
 死よりも辛い生を、あなたは選ぶというのですか――。そう問いかける瞳を、私は一生忘れないだろう。
「でもね、わたくしは坊やのことをあなたが気に入ってくれて、とても嬉しいの。坊やもあなたになついているようだし……。坊やは、わたくしと使用人しかいないこの別荘で育っているでしょう。人見知りの激しいあの子が、あなたには心を開いている。これで、わたくしがいついなくなっても大丈夫かと思うと――。安心したわ」
 地上に舞い降りた女神とまで謳われた彼女は、所詮汚れた地上には住めなかったのだろうか。優しすぎる心は、戦争のニュースを聞くたびに深く傷つき、血を流した。
 自然を愛し、簡素で静謐な生活を好む感受性豊かな彼女は、この世界に住む人々全てが幸せにならなければ決して幸せにはなれなかったのではないだろうか。
 戦争、自然破壊、環境汚染、拡大する一方の貧富の差――。その全てに対して彼女の夫が責任あるもののように思えて、彼女は我が身を呪っていた。
 しかし、彼女は決してただ泣くことしかできない女性(ひと)ではなかった。
 エシル・エレクトリック・パワー・カンパニーの代表取締役社長だった彼女は、神羅カンパニーにおいても筆頭株主であり、役員会では夫の提案にことごとく反対票を投じた。合併直後はまだ役員の数も多く、挙手や起立などでは決めかねるため、議案に対して賛成であれば白票を、反対であれば青票を投じる方式がとられていた。そして、彼女は常に青票を投じた。
 そんな彼女についたあだ名は、「マダム・ブルー」。憂いの表情を常に浮かべている彼女に、これほどふさわしいものもなかったろう。

 彼女が微笑む相手は、非常に限られていた。
 少女の頃から彼女に仕えている乳母は、彼女が成人して嫁いだ後も頼りになる相談相手として、また有能なハウスキーパーとして仕えていた。執事も同様で、彼女のそばにいる人間達は、さながら太陽の周りを回る惑星のように忠実に彼女に仕えていた。
 世界の通信とエネルギー流通を一手に握っていた、エシル・エレクトリック・パワー・カンパニー。通称EE社と呼ばれていた大企業の社長の一人娘として生を受けた彼女は、幼い頃から役員会に出席し、父の出張について各地を回り、十五歳の誕生日には取締役に就任したほど聡明な女性(ひと)だった。惜しむらくは、身体が弱かったので無理がきかないことだろう。
 度重なる失望が、そんな彼女の身体を蝕んでいった。EE社系の役員達は、都市開発と運営には欠かせないリーブ部長を除いて、一人また一人と排除されていった。
 やがて、神羅カンパニー発足から二年して、体制は固められた。プレジデントが全権を握り、その下には五つの部門が置かれることとなったのである。役員会で彼女に賛成してくれる者は、都市開発部門統括のリーブ部長のみ。こうして、彼女はミッドガルに永遠の別れを告げた。
 本来は、彼女のために建造された都市だった。本社ビルの61階、リフレッシュフロアに植えられた大樹は神話の世界樹・ユグドラシルを象ったものだし、都市の名も中央の世界=人間界を意味するミッドガルドから付けられた。だが、この空中都市は、人とエネルギーと金と血とを吸い続ける化け物だったのだ――。
 まるでミッドガルに同調したかのように、権力と財力とを追い求める夫。彼女は夫との戦いに身も心も疲れ果てて、コスタ・デル・ソルの別荘へと引きこもった。そこは、真に彼女を愛する人々だけが形成する、居心地のよい小宇宙だった。

「まあ、久しぶりね。痩せたのじゃなくて? ――いま、ちょうどお茶にしようとしていたのよ。さ、座ってちょうだいな」
 青い瞳に、生きる喜びがまれに輝く。それは、彼女の初恋の人で、いまも変わらぬ想い人のリーブ部長が姿を見せる時だ。
「ああ、ごめんなさいね。坊やを呼んできてくれないかしら?」
 もちろん、私は頃合いを見計らって現れるようにしていた。五分しかかからないところを十五分後、あるいは二十分後に現れたとしても、彼女にとってはさほど変わらないものだったに違いない。貞淑な貴婦人である彼女は、決して道を踏み外すようなことはしなかった。彼女の最愛のもの……それは、ルーファウス坊やだったからだ。
 まだ幼いのに、時々大人も顔負けの物言いをする、利発な少年。世界を手中に収めることを望んだ二つの一族の血を、一身に兼ね備えた存在。自分にも似ているが、夫の血もまぎれもなく引いていることを感じる度、彼女は坊やの行く末を案じるのだった。
 坊やは、いつの日か夫以上の独裁者になるのではないか――と。
「お母さま!」
 だが、いまのところ彼女の愛する坊やは、そんな不安がバカげていると笑えるほどに、素直で無邪気だ。
「ほらほら。リーブおじさんにごあいさつはどうしたの? ルーファウス。きちんとしなきゃダメでしょう?」
 珍しく具合のいい母親がベッドから起き上がっているのを見て、嬉しくてたまらないルーファウスは、彼女に思い切り甘えてまとわりついている。椅子に腰を下ろした彼女に抱っこされたまま、言われるままにこんにちは、と返事をする。いつものことなので、リーブ部長は気にしていない。笑いながらおみやげですよ、と言って小型ロボットを差し出した。
「うわあ……! ロボットだあ。――これ、動くの!?」
「動きますよ。簡単な人工知能を備えていて、言葉も覚えますし、状況に応じた反応もします。そう種類は多くないですけどね」
「動力は何?」
「電池ですよ。進路上に障害物があれば、よけて通る機能もありますし。ちょっとしたペット代わりといったところですかね」
「――兵器開発部が作ったの?」
 もしそうならいらないよ、と言いたげにルーファウスは部長を見る。苦笑して、部長は言う。
「いいえ。私が、仕事の片手間に作ったんです。もともとこういうものを作るのが好きなんですよ」
 兵器開発部長スカーレットは、プレジデントの愛人である。どうしたものか、誰が話したわけでもないのに、ルーファウスはそのことをちゃんと知っているらしい。ふうん、それなら喜んでもらうよ。ありがとう。興味津々で、さっそくスイッチをオンに入れている。
「よかったわねえ。坊や、大事にするのよ」
 うん! という、ひどく元気な答えに部長も満足そうだ。
「もう陽射しが暑いわね。――アイスティーにしましょうか」
 そんな彼女の一言で、内輪だけの楽しいティータイムが始まる。お茶の香りを損なわないように、テーブルには匂いのない花が飾られている。そして、会話を弾ませるおいしいお菓子。
 だが、何よりも印象に残っているのは、彼女の笑顔だった。心から楽しんでいる時に見せる彼女の笑顔は、花がほころぶようだった。

 この幸せな時が、いつまでも続けばいいのに。
 私は、彼女が亡くなった後も黄金の午後を思い出しては懐かしみ、それを永遠に失ったことに胸を痛めたものだ。
 彼女に対して、私が初恋めいた思慕の情を抱いていたことは否定しない。自分よりずっと年上で、他人の妻でもある女性(ひと)だったが、そんなことを感じさせないほど可憐で少女めいた容貌と感性の持ち主だった。
 誰からも傷つけられないように、守ってあげたい。――そう思ったのは、彼女が初めての存在だったのだ。
 好きな花は、バラとすみれ。人工美と野生美と、その双方を彼女は愛した。自然を愛しながらも心のままに生きることを許されず、神羅カンパニーの社長夫人となるよう強制された、彼女らしい好みだ。
 墓碑銘(エピグラフ)は、「NO FATE」。決して変えることのできない運命に、流されるままに生きているように他人には見えたかもしれない。しかし、彼女自身はそう思っていなかったわけだ。
 変えられないかもしれない。でも、決してあきらめない――。そんな意思の強い女性(ひと)だったことを、人々は彼女が亡くなったのちに思い知らされたわけだった。

「――ツォン。来てたのか」
「去年はルーファウス様が先でしたからね。今年こそは一番乗りしようと思いまして」
「そういう問題か?お前、時々見かけによらず子供っぽいことを言うよな」
 そう言って、呆れたように肩をすくめる。
「まあ、いいじゃないですか。たまにはそんなのも」
 墓前に供えられた花束を見て、ルーファウスは微笑んだ。
「私がバラを持ってくると思って、重ならないようにしたな? お母様、チューリップも大好きだったものな……。あと一月半すれば、周りにすみれが咲き揃うのに。残念だな」
 そこへ、最後の一人が顔を出す。
「いやあ、遅くなりまして申し訳ありません。会議が長引いてしまって」
「別に、早いとか遅いとかの問題じゃないと思うぞ。――全く。どうしてお前といいリーブといい、二人ともそうなんだ?」
「は?」
 間の抜けたリーブの返事に、もういいよ、とルーファウスは笑い出す。
 年に一度、時間を申し合わせるわけでもないのに、三人はほぼ同じ時刻にここへ来る。それは、大切な儀式。
 亡き女性(ひと)に寄せる想いは三人とも違っていたが、忙しい日々の中で抱いた夢も忘れがちな彼らが、それを再び胸に刻み付けるために欠かせない行事だった。
「そして、お前はすみれの肥料代わりに地面に撒くマテリアの粉か。――本当に変わらないよな、三人とも。きっとお母様、笑ってらっしゃるぞ?」
「そうだといいですね」
 並べられた二つの花束の向こうに、満面の笑顔の、花よりも美しく麗しい彼女の姿を、ツォンは見た気がした。


= END =