2.

 翌朝早くに宝条は旅立って行った。外国で催されるという学会に出るためだそうで、彼はあまり機嫌が良くなかった。
「下らん社交辞令を言うのも聞くのも嫌だから、あいつに押し付けたものを。使えん奴だ」
 ブツブツ言っていたけど、行くはずだった人、交通事故で足の骨折れちゃったんだから。それ言っちゃ気の毒だよね。
 僕はルクレツィアを警戒しながら宝条を見送った。宝条も僕のことが気にかかったらしい。最後まで彼女にいろいろな注意をしていた。全部は覚えきれないほどに。
 でもさぁ、確か「必ずやる事、守る事と絶対にしてはいけない事一覧」とか言って、箇条書きにしたのをルクレツィアに渡してなかったっけ? 僕の目の前で。
 ――何だか不安だなあ。
「じゃあ、行って来る。ルーファウス、あまりルクレツィアを驚かせるなよ。しっぽはキチンと隠しておけ」
 ああ、彼女の夢に出たりするな、ってことだね? 了解。
 僕はひと声ニャオンと鳴いた。ピンと立てられたしっぽに、気合いのほどを見出したのか。宝条は満足そうに笑うと僕の頭を撫で、出て行った。
「彼ったら、何馬鹿なこと言ってるのかしら。猫なんだもの、しっぽを隠すも隠さないもないじゃない。ねえ、ルーファウス?」
 ルクレツィアは僕をちゃんとした名前で呼ぶことにしたらしい。
 初めてミセス・ダーシィに「ルーちゃん」と呼ばれた時には、お尻のあたりがむず痒いような、妙な居心地の悪さを感じたものだった。
 でも、いまは僕のことをフルネームで呼ぶのはツォンと宝条の二人だけだ。
 しかも、宝条は「お前」と呼びかけることも多かったから、事実上それはツォン独占の呼び方になっていた。それをいまになって、赤の他人から。
 僕はまた違和感を覚え、その気持ち悪さを消そうと胸のあたりを軽く毛繕いした。
 すると。
「あら、朝からおしゃれ? ご飯の時間でしょう。私もお腹ペコペコよ」
 どうやら、僕を抱き上げようという野望は捨ててくれたようだ。そのまま鍵をかけ、キッチンへ歩いて行く。僕はホッとしてその後をついていった。
 宝条が言うには、悪い人じゃないらしい。ただ、ちょっと変わっているんだそうだ。
 僕に言わせれば、宝条だって十分な変わり者なのに。その彼が「変わってる」だなんて。
 特級の変人? 思わず目の前が暗くなりそうな結論だった。

 まず最初に僕の分を用意してくれたので、僕は心安らかに朝食をとることができた。
 お皿もヒゲもピカピカになる頃、ようやく彼女がテーブルに自分の分を並べ始めた。それを見た僕は、全身の毛がザワザワと逆立った。
 何あれ? ツォンや宝条の朝食と、全然違う。あの気味悪い色のジュースは何? この変な匂いのする、肉だかパテだかわからないのは何? それに、パン。真っ黒けだよ!?
 唯一まともなのは卵……かな?
 でも、あれ。何だかグチャグチャしてる。目玉焼きにしちゃ、平べったくないし。スクランブルエッグにしちゃ、白身と黄身のコントラストが鮮やかなような。失敗作?
 並べられた品々があまりに不気味で、僕はテーブルの上がよく見える窓辺に退避した。
 匂いを嗅ぎたくないし。かと言って、やっぱり気になる。こういうのを怖い物見たさって言うんだよね。
 フフッ。この間覚えたんだ、この言葉。僕だって、ちょっとづつ利口になってるんだからね。毛だって、大人の立派な物に変わりつつあるし。
 元々みんなが褒めてくれてたけど、サロンでトリマーさんがツヤツヤのふかふかになった僕に見とれてため息をついた時は、本当に嬉しかったな。
 どことなく寸胴だった身体も、すらりとしてきたし。僕、大人になったんだよ!
 ちょっといい気分になった。宝条が聞いたら、それだからお前は子供なんだと言うんだろうけど。
 日一日と自分が変わっていくのがわかる、こんな時に。何でツォンがそばにいないんだろう。カミサマは意地悪だ。その辺、スケジュール調整してくれたって良さそうなもんだよね。赤ちゃんの時から生えてる毛が大人の毛に変わるのなんて、一生に一度のことなんだからさ。ああ、それなのに。
「これでワインなら、言うことないんだけど。さすがに朝だし」
 トースターからパンが出された。途端に、ニンニクの匂いが部屋中に広がった。スライスしたパンに、なすり付けて軽くあぶったらしい。
 まあね。個人の趣味だから? 取りあえず、文句は付けないでおくよ。だけどさ……。
 少しだけ温めたクロワッサン、時にはブリオッシュ。立ち上る紅茶の香り。美味しそうなクリームブラウンのミルクティーや、半熟卵のカラを割るツォンの優雅な手付きまで思い出しちゃったよ。ねだるとヨーグルトをひとさじくれるんだよね。
 それに比べて、何て言うかさ。こう、落差が激しいって言うの? 彼女、本当に見た目と中身が一致してないかも。
「パンも焼けたし。やっと食べられるわ」
 鼻歌混じりで冷蔵庫から彼女が出してきたのは、陶器のツボだった。木のフタが付いている。中身は何だろう?
 彼女がフタを開けた瞬間、僕はさっさと逃げ出さなかった自分を呪った。部屋中に立ちこめる、この強烈な、破壊的な鼻がひん曲がる匂いは何!?
 ルクレツィアは、さも嬉しそうにツボの中身をすくってパンに塗り付けて食べている。
 ……正気?
 気絶しそうになるのを、気力を振り絞って書斎へ逃げ出した。ご機嫌な彼女の声が、背後から聞こえた。リヨネ風。フォール。最高。
 言葉が文として捉えられないほど、頭がぐるぐるしてたらしい。切れ切れの単語が耳に入っても、もうどうでも良かった。一刻も早く、その場から逃れたかった。
 ルクレツィアって、もしかして無敵? だから宝条は彼女が苦手なの?
 自分があの悪臭に染まったような気がした。呼吸をする度に匂いが甦りそうで、僕は書斎に置かれたままになっていたお気に入りのクッションの上で丸くなった。
 こういう時は、寝るに限る。一日目の朝からこれだよ。一体どうなるんだろう。
 ものすごく不安。ツォン……。お願いだから、早く帰ってきて。さもないと僕、彼女に殺されかねないかも。
 いつも自分がどれほど幸せに過ごしているか。痛いくらいよくわかった。
 僕は早くもホームシックになっていた。

 起き出して恐る恐るリビングへ行くと、ルクレツィアが朝食事をしたテーブルでキーボードを叩いていた。書斎にパソコンがあったから、あれは自分のだね。
 リズミカルな音が部屋に響く。音楽みたいで、気持ちいい。家で仕事できる人だから、僕の面倒を見ることになったのかな。
 宝条に、後ろから近づいたり不用意に足下に寄るなと注意されたのを思い出して、日当たりのいい窓辺に飛び上がる。
 春の陽射しが、ポカポカと暖かい。毛皮がふかふかになっていく。僕は多分去年の今頃生まれたらしいから、ちょうど一年経ったわけだ。
 小さい頃は兄弟達と追いかけっこをしたり、だんごになってじゃれ合ったり、お母さんのお腹の下でみんなと一緒に埋もれるようにして寝ていた。
 あの頃はお母さんが二人いたんだよね。本当のお母さんと、お母さんが「ママ」って呼んでたお母さん。いま思うと、ママは飼い主だったんだね。
 兄弟達はみんな焦げ茶色の毛をしてたんだ。お母さんもそう。僕だけが、燃える炎の色の毛で。ママは僕を一番可愛がってくれたっけ。会ったことはないけど、僕のお父さんも焦げ茶色の毛らしい。
 ある日、兄弟が一人いなくなった。どこへ行ったのか、お母さんにもわからなかった。
 でも、僕はママが兄弟を抱き上げてキャリーバッグに入れるのを見たんだ。ママはそのあと車で出かけて行った。
 その日。帰ってきたママは上機嫌だった。僕のお嫁さんになる女の子に会ったと言って。
 兄弟を譲り渡したあと寄ったらしい。僕を膝の上に乗せ、写真を見せて笑ったっけ。
 ほら、可愛いでしょう? ってね。その子は、僕と同じ赤い毛色をしていた。僕より何か月か前に生まれて、キャットショーでは子猫の部で賞をもらっているんだとか。
 もしあんなことが無ければ、僕もショーに出てたくさんのリボンをもらい、いずれはその子との間に子供が生まれていたのかもしれなかった。
 優しかったお母さんとママ。よく遊んでくれたパパ。それに、もらわれていく先の決まっていた兄弟達。居心地のいい家。僕は全てを失った。たった一晩で。
 僕が助かったのは、偶然だった。具合が良くなくて、大嫌いな病院に入院していたんだ。
 何で強盗は僕の家に押し入ったんだろう? よりによって、僕がいないその時に。
 独りぼっちになった僕は、ママの知り合いのブリーダーさんに引き取られることになった。そして移動中に車が事故に遭い、驚いて逃げ出して。
 隠れられる所をようやく見つけた時には、一体何日が過ぎていたんだろう。
 犬に吠えられて、子供に追いかけ回されて。時折、女の人が食事や水をくれたっけ。
 嬉しかったな。大抵、そっと撫でてくれもしたんだよね。
 安心できる隠れ家に居着いて三日目。――僕はツォンに会った。
 それからというもの、幸せ過ぎて怖いくらいだ。いまささやかな不幸を味わって、そのことに改めて気づいたほどに。
 しみじみと昔を思い出し、窓から外を眺めていて、僕はルクレツィアの気配に気を払うのをすっかり忘れていた。いきなり耳に触られる。何が起きたのかよくわからないうちに、僕は耳を外側にひっくり返されていた。彼女はそんな僕を見て、スコティッシュ・フォールドもどきねと言って笑っている。
 あのさあ、それ言うなら向き逆じゃないの? とツッコミを入れる余裕なんてなかった。もう片方の耳も裏返したいらしいルクレツィアの輝く目に、僕はゾッとした。彼女、やる気満々だ。
 それにしても、裏返った耳が気になる。ああ、気持ち悪い。こんなの嫌だ。
 僕は、嫌なことがある時にそれをツォンに知らせるいつもの声で鳴いてみた。口を閉じたままでウーンと唸ると、ツォンならすぐに「ごめん」って言いながら何とかしてくれるのに。
 ルクレツィアは、一向に態度を変えなかった。毛が逆立ってるのにも気づいてないみたい。……ダメだ。こうなったら、最後の手段に出るしかない。
 無事な方の耳にかけようとした手を、手加減して噛む。それでも、彼女には相当痛かったらしい。それとも、僕が噛み付くなんて夢にも思っていなかったのかな? キャッと悲鳴を上げて、伸ばした手を慌てて引っ込めた。
 そこで僕は改めて彼女に抗議した。人の耳で遊ばないでよ! いくら人間の耳じゃできないからって、僕で試すことないじゃないか!
 はっきりとした拒絶と非難の色合いを、たっぷり含ませる。最初が肝腎だからね。おもちゃにされちゃ、たまらないよ。おちおち昼寝もできやしない。
 猫族にとって、人生最大の楽しみは美味しい食事と、なわばりの中で常に最高に気持ちいい場所で眠ること。一日の中で、どの時間はどこが暖かいか、ひんやりしているのか。それを把握して移動するのが、日課なんだよ?
 昼間の時間ここで最高の場所は、この部屋の窓辺だった。どうやら、ルクレツィアも昼間はここに居座るらしい。となれば、お互いに不干渉でいようというルールを確立しないとね。そっちの仕事の邪魔はしてないじゃないか。だから、僕のこともそっとしておいてよね。
 そう、言いたいんだけど。果たして、彼女にどこまで伝わるのか。こういう時、人間の言葉が話せたらなあって思う。いつも一緒にいるのなら、ツォンみたいに鳴き方の微妙な違いをちゃんとわかってくれるんだろうけど。そもそも、ルクレツィアは繊細とは言いかねる性格で。ルルルが最高に甘えたい時の声で、普段甘える時にはニャァン。それはやめてっていう嫌な時はウーン、お気に入りの所に物が乗っかってるからどけてねはニヤァン。トイレに行きたいのに汚れてて困るとか、コードで遊んでたらがんじがらめになっちゃった。助けて! っていう時にはアゥアゥ。
 そんな調子で、僕なりに使い分けしてるんだけどな。きっと、彼女にはわからないに違いない。宝条はキチンとしっぽを隠せって言ったけど、これじゃあ僕、気がついたら抗議しに行ってそうだ。
「ごめんなさい。そんなに嫌だとは、思わなかったのよ。もうしないわ」
 ルクレツィアが、指から血を滴らせながら敗北宣言をした。やったね。わかってくれればいいんだよ。……って、あれ? 思ったより血が出てる。手加減したつもりだったけど、加減の仕方が足りなかった?
 僕の耳を直して、彼女はキッチンに行った。噛まれた手を水で洗ってる。やがて戻ってきた彼女の指には、絆創膏が巻かれていた。宝条の家に、そんな物あったんだ? 意外。と思ったら。
「どうしようか、迷ったけど。やっぱり持ってきて良かったわ。猫ちゃんで使うことになるとは思わなかったけど」
 僕でって……まさか、彼女しょっちゅうどこかしらケガしてるわけ? うわぁ。それって、聞いてる方が怖いんだけど。
 何事も無かったかのように窓辺で丸くなる僕を見て、ルクレツィアが笑った。よくわからないけど、僕に噛まれたショックからはもう立ち直ったみたい。心配して、損した気分。
「ふかふかの背中を撫でたいけど、きっとまた怒るわね。さ、仕事しなくちゃ。続き続き」
 結局、案外すんなりと不干渉条約が結ばれたようだ。夕方まで、彼女はキーボードを叩いたり電話をしたり、買い物に出かけたり。平和な時間が過ぎていった。最初は目をつぶっていても警戒を解かなかった僕だが、あまりのポカポカ陽気には勝てなかった。
 僕はいつの間にか、ぐっすりと眠り込んでしまっていた。

 夜の食事は、僕はビーフ。彼女は……ええと、あれは何だろう?
 僕が寝きっている時に昼食をしたらしく、彼女の食事を見るのはこれが二度目だけど。
 こんなに毎回首を捻る食事をする人間も、珍しいよね。野菜を茹でてサラダにしてるのは、わかる。パンも肉も無いけど、もしかしてダイエット? その必要がある体型じゃないと思うんだけどな。
 赤い色のスープを飲んでる。あれはトマト味かな? 朝を思えば、まだまともだとは思うんだけど。あの、妙な色のジュースさえ無ければ。あれは一体何なんだろう?
 インターホンが鳴り、彼女は受話器を取ると二言三言話し、玄関へ行った。ここはツォンの家と違って、一軒家じゃないから。危なくないように、入口がオートロックになってるんだよね。家を抜け出す気は無いけど、宝条に注意されたっけ。ベランダから抜け出したら、建物に入れなくなるぞって。
 彼女がいなくなったのをこれ幸いとばかり、僕はあの妖しい色したジュースの匂いを嗅ごうと思ってテーブルに飛び乗った。もちろん、ツォンが食事してる時にこんなはしたない真似をしたことは一度もない。彼が何を食べているのか、ものすごく気になるから。向かい側の椅子の上で背伸びして眺めるのは、いつもしてるけどね。
 戻ってこないうちだ。急がなくちゃ。ジュースは背の低い、口広のグラスに注がれていた。匂いを嗅ぐにはもってこいだ。
 ドロッとした濃い緑色の、いかにもまずそうなシロモノ。彼女は、何でこれを飲むんだろう。見た目とは裏腹に、実はとても美味しいとか?
 僕はジュースに鼻先をつけんばかりにして匂いを嗅いだ。いくら嗅いでも、草っぽい青っぽい匂いしかしない。お世辞にも、美味しそうには思えなかった。
 やれやれと、自分のベッドに行こうとした時。
「あら、いけない子ね。そんなにこれが気になったの?」
 小さなダンボール箱を抱えたルクレツィアが、にこにこしながら僕を見下ろしていた。
 何で!? 足音しなかったよ! そういう歩き方していいのは、僕達猫だけだ。特許侵害!
 進退窮まってテーブルの上で硬直している僕を、彼女が撫でた。柔らかくていい触り心地だと、ご機嫌だ。
「ちょっと待ってね。ええと、一覧表。ケール、ケール……。無いわね」
 宝条から渡された表を見て、僕に飲ませてもいいか確認していたらしい。スプーンを取ってきてひとさじすくう。
 いいよ、いらない。だって、まずそうなんだもん。僕は遠慮したかったが、彼女が許さなかった。口元に、スプーンが突き付けられる。
「身体にいいのよ。味見してごらんなさい」
 満面の笑顔。おまけに、身体を押さえ付けられてしまった。絶体絶命。
 観念して、少しだけ舐めてみた。途端に、口中に凄まじい苦みが広がる。僕は絶叫すると暴れて彼女の手を振り切り、水入れまで走った。とにかく、水! 水を飲んで、この味を消さなきゃ。うーっ。苦っ!
 ――教訓。好奇心は、身を滅ぼす。人であっても、猫でも。
 先行きがますます不安になる僕だった。

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