喜びは憂鬱の裏側 1. 「困ったことになった」 何が起きてもほとんど表情を変えない宝条が、眉間にシワを寄せて僕を見た。 ポーカーフェイスが売りの男が、一体どうしたんだか。余程の非常事態らしい。 「ツォンはあと十日は戻らんしな。ペットホテルに預けたくないから、奴は私にお前の世話を頼んだわけで。さて、どうしたものか」 ちょっと待って。博士? それって、もしかしなくて博士も仕事でどこかに行くの? つまり、僕は独りぼっちになるわけ? 「相変わらず理解が早くて助かるな。その通りだ」 私にはお前の言葉はわからんが、どうもいまの鳴き方は腹が減ったとかその手の文句とは違うような気がする。まあ、きっとそんなところだろう。 そう言って、電話をかけ始める。僕はその横で、何が起きているのか説明しろと叫び続けた。 「こら、少し静かにしろ。話の邪魔だぞ」 コツンと軽く頭を小突かれて、僕はいよいよにぎやかに叫んだ。すると、受話器の向こうから聞き慣れた声が漏れてきた。柔らかなアルト。ツォンの秘書さんだ。 「昼間ならルーちゃんを職場で面倒見てあげられるんですけどね」 笑いながら話す彼女の声に、ニャァンと鳴き声がかぶる。あれは、彼女に飼われているっていうメインクーンだな。 おなかがすいたって言ってる。まだ食事をもらってなかったんだね。 「ごめんなさい博士。――ちょっと待っててね。これが終わったらあげるから。うちにはこの子の他に犬がいますからね。ルーちゃんの方で嫌がるでしょう。もちろん、私は構わないんですよ。いつでもお預かりしますわ」 犬? あのやたら吠える、落ちつきなく動き回っては人の匂いを嗅ぐ野蛮な生き物! 冗談じゃない。そんなのがいる所だなんて、僕、絶対行かないからね! 「どうしてもという時には、お願いするかもしれませんが。まあ、無いでしょう」 全身を硬直させて唸り、反対の意志を示した僕を見て宝条が苦笑いする。 「それに、昼間はミセス・ダーシィがいますし」 「でも、会議は明後日からでしょう? 九日間も夜一人にはできませんわ。どうなさいますの?」 「面倒を見てくれそうな人間の当てが、一人いまして。取りあえずいまから声をかけてみようかと思っています」 「本当に、私でできることならいつでも連絡して下さいね。最悪の時は、毎晩私が世話をしに行ってもいいですから」 「それではご主人が怒ってしまうでしょう。何、大丈夫ですよ」 「ミセス・ダーシィのお子さんが猫アレルギーでなければ、喜んで面倒見てくれるんでしょうにねえ。彼女、ルーちゃんが可愛くて仕方ないっていつも言ってますもの」 「もし何かあれば、また電話しますよ。それでは」 電話を切った宝条は、また別の人間にかけている。出張に行ったツォンは、いまどうしているだろう。僕はソファの上で毛繕いしながら、聞くともなしに電話に耳を傾けていた。 「いや。だから、何故そうなるんだ。猫を一匹、君のところで預かって欲しいと言っているだけだぞ?」 おや。何だか、様子が変じゃない? 宝条が慌ててるのなんて、見たことないや。 「そうじゃない。その猫は、私の友人の……!」 話の途中で通話が切られたみたいだった。宝条はソファに受話器を放り投げ、絶望の眼差しで僕を見た。 「お前は明日から私の所で暮らすことになったぞ。悪いが、急に同僚の代わりに会議に出ることになってな。五日間留守にしなければならないんだ。そこで問題なのが、お前の面倒を見る人間を誰にするかなんだが」 ねえ。何でそこで深いため息をつくわけ? 何か嫌な予感がするんだけど。 「よく注意はするが。あの女は、見た目とは裏腹にがさつだからな。ツォンや私のようにはいかないぞ。それだけは覚悟しておけ」 ええっ!? 僕、この家を出なきゃいけないの? 何で? その人にここへ来てもらえばいいじゃないか。どうして駄目なの。 ツォンが反対したとか? 「不満タラタラだな。無理ないが。無造作に美術品が飾られているこの屋敷に、あの粗忽女を入れる気にはならんのだ。お前がしっぽでマヨリカ陶器の絵皿をはたき落として割っても、あの男は怒らないだろう。だがな。赤の他人が同じことをしたとして、それでも怒らずにいられるか。誰が保証できる?」 うーん。それは、確かに……。僕には激甘だって、いつも博士苦笑いしてるもんなあ。 趣味のいいツォン。この家の中の物って、結構アンティークも多いんだよね。俗な言い方だけど。弁償しろって言われたら、物によっちゃめまいがしてくるかもね。 「ふむ。大人しくなったところを見ると、どうやら私の危惧を理解したようだな。こことは比べ物にならない狭さだが、まあそこは我慢しろ。ここが広過ぎるんだ」 博士の家に行かなきゃいけないのは、わかったからさ。ちゃんとこれも持ってってよね。 「何だ、またこれか? よく飽きないもんだ。ほら」 宝条はスノードームを手に取って、激しく数回振ってからテーブルに置いた。 液体で満たされたガラス球の中には、小さな天使。羽を広げ、ベンチで愛を語らう恋人達を祝福しながら空を舞っている。 雪とも星屑ともつかぬ白銀の欠片は、煌めきながら静かにゆっくりと二人の上に降りしきる。綺麗だよねえ。全然見飽きないよ。 もう一度、ううん、何度でも振って。あの雪の朝の、素敵な思い出を忘れたくないから。 「お前、人間で言うとそろそろ十六、七ってところなんじゃないのか。まだまだ子供だな」 呆れたような声。宝条は振っては置き、振っては置きを繰り返しながら今度はツォンに電話をかけ始めた。 ツォンは突然のことに驚いていたけれど、やむを得ない事情なのはよくわかる。君の人選なら、まず間違いはないだろう。よろしく頼むよと言って切った。 彼の了承もめでたく取れたとあって、その夜、僕は夢の中で宝条に懇々と諭された。 「いいか、とにかく床の上で寝たりするなよ。踏まれたり、蹴られたりされたくはないだろう? 迂闊に近づくな。あれは何かに気を取られると、情報がマルチタスクできないんだ。お前に足音を立てろというのは、無理な話だからな。背後から忍び寄るな。わかったか。ん?」 「話を聞いていると、その人っておっちょこちょいってこと? 女の人は、みんなミセス・ダーシィやツォンの秘書さんみたいに優しくてよく気がつくのかと思ってたよ。違うんだね」 「大違いだ。まあ、それはすぐにお前にもわかるだろうがな」 盛大なため息だね。博士って、もしかしてその女の人が苦手なのかな? あれ? じゃあ、何で僕の世話をその人に頼むんだろう。ちょっと不思議だな。 「ツォンは特別だもん。他の人間が彼みたいじゃなくても、仕方ないよね」 「わかったわかった。それはそうと、スノードームがえらく気に入っているようだな。ついこの間までは、ネズミのおもちゃを追いかけて遊んでいたようだが」 「僕だって大人になったんだよ? いつまでも子供じゃないもんね」 「それはどうだかな」 「彼が初めて家を空けて帰ってきた晩、僕にずっとそばにいて欲しいって言ってくれたの、知ってるよね? そのあと夢の中で、それは丁寧に僕のこと毛繕いしてくれたんだよ。もの凄く恥ずかしかったけど、嬉しかった。いい気持ちで。これが本当のことならなあって思ったほど。でね、朝起きたらツォンが『冷えると思ったら、雪か』って。ガウンを羽織ると僕を抱き上げてくれて、窓から二人で白く染まった街を眺めてた。もし彼に拾われてなければ、僕はきっとあの雪に埋もれて死んでいた。それがいま、こうして守られている。暖かい腕の中で、何一つ思い煩うこともなく。僕は世界一幸せな猫なんじゃないかと思ったよ。雪の寒さも知らないで、ただ綺麗だって眺めていられるなんてね」 「――ちょっと待て。それは多分、いや、絶対にグルーミングじゃないぞ」 僕の話を呆然とした顔で聞いていた宝条が呻いた。 「そうなの? えっ、じゃあ……あれは何なの?」 驚く僕に、宝条は頭痛がすると言って頭を抱えてる。何か僕、変なこと言ったのかな? 宝条曰く、僕は猫にしては賢いそうだけど。それって、人間としちゃあ馬鹿ってことなのかな、やっぱり。……もしそうなら、悲しいかも。 「まさか、猫からのろけられるとはな。私も焼きが回ったもんだ。ああ、気にするな。あの男の忍耐強さというか、度を超した紳士振りに感動しただけだ」 その言い方、全然褒めてないよ。博士、一体何が言いたいのさ? 僕がいくら追及しても、宝条はのらりくらりと逃げを打つばかりだった。 翌日。僕はミセス・ダーシィにしばしのお別れを言い、宝条の家に向かった。 車の座席に山と積まれた僕の荷物を眺めて、宝条が笑う。 「まるで姫君のお輿入れだな」 ベッド、クッション、トイレ、餌用のお皿に水入れ。キャットフードにトイレ用の砂。 爪研ぎ用ボードに脱臭剤、消臭剤、シート。 足ふきマットにネズミのおもちゃ、そして例のスノードーム。 確かに、こうして見るといろいろあるもんだね。なるほど、僕って一人じゃ暮らせないや。 車に乗るのは慣れているので、僕はキャリーバッグに入れられたことはない。 いつものように大人しく助手席で丸まっていると、やがて車が止まった。 どうやら、無事着いたらしい。宝条が荷物を抱えて降りていった。何度か行ったり来たりした挙げ句、僕を抱える。細くて骨張った手だなあ。 何でこう、博士とツォンって似てるようで全然違うわけ? ツォンの秘書さんが言ってたよ。二人とも、同じモンゴロイドっていう人種なんでしょう。 だから、髪も目も真っ黒なんだよね。ツォンの指も細くて長いと思うけど、こんな風に骨張ってないよね。不思議。 「片づけるまで、大人しくここで遊んでいろ」 僕はお気に入りのクッションとおもちゃをあてがわれて、ガランとした部屋に放り出された。壁一面を本棚が埋め尽くしている。どこを向いても本、本、本。 ツォンも本をよく読んでいるけど、家の中にこんないっぱいあったっけ? さすが、博士っていうだけのことはあるんだな。あれ、でも何の博士なんだろう。 僕の大嫌いな掃除機の音や、ガタガタと物を動かす音が響いてくる。どうでもいいけど、僕そんなにVIP待遇されてるの? まさかね。 その疑問は、夜になって解けた。その頃には家の中もすっかり片づき、僕も探検を終わっていた。 隠れるのにちょうど良さそうなクロゼットや、見晴らしのいいチェストの上、うたた寝するのにもってこいの出窓といった素敵な場所を見つけ出して、僕はご機嫌で好物のチキンを平らげた。そして、丁寧に顔を洗っているとチャイムが鳴った。 「やれやれ。もう来たのか」 頭を振って出て行った宝条。お客さん? あ! そうか。僕の面倒を見てくれる人が来たんだ。でも、確か博士、粗忽女とかがさつとか言ってたような……? やだなぁ。どんな人なんだろう。ちょっと怖いよ。 「おい、待て! 先に行くんじゃない、ルクレツィア! ルーファウスが怯えるだろう!」 ルクレツィアっていう名前なのか。美人なのかなあ。 「あら、心配しなくても大丈夫よ。ちゃんとご挨拶するわ」 へえ。綺麗なソプラノ。よく響く声だね。声からすると、すごく綺麗な人っぽい。 「ルクレツィア!」 宝条の叫びが耳に届くのと、彼女が部屋に入ってきたのとが同時だった。光の加減で青にも緑にも見える色合いの、大きな瞳。癖のないダークブラウンの髪は、無造作に肩に流されていた。 すらりとした体型。この人、何人? 見当が付かないや。名前はイタリアだけどさ。 もしかして、いろいろな人種の混血かな?肌は白いけど、鼻はほどほどの高さ。 よく街で見かけるお婆さん達みたいな鉤鼻じゃないし。一言で説明できない綺麗さ。 「まあ、何て可愛いの!」 それは、僕を見た人間が一様に示す反応と同じだった。それで僕は油断した。 次の瞬間、僕の身体は持ち上げられ、宙に浮いていた。思わず、悲鳴が漏れる。 ギャッ! という僕の声を聞きつけた宝条が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。 「ルーファウス! どうした!?」 「見てみて。この子、こんなに長いのよ。凄いわよねえ」 僕が彼女に前足と後ろ足を掴まれ、アコーディオンよろしく引き伸ばされているのを見て、宝条は絶句していた。 もがいた僕は床に落ち、空中でくるりと一回転して着地したあと猛然とキッチンまで走り、食器棚に駆け上った。 怖いよ。脱臼したらどうしてくれるのさ。あの人、本当に女なの!? 「ルクレツィア。何てことをしてくれるんだ。あれは、ただの猫じゃないんだぞ。大体、猫を抱くのにあんなやり方をする奴があるか。これだから、君は非常識だと言われるんだ。見ろ。ルーファウスがすっかり怯えて警戒してるじゃないか。あれじゃあ当分下に降りて来ないぞ」 「怯えさせるつもりなんて、無かったのよ。ただ、ぐにぐにっとした感触が面白くて。猫って全身筋肉なんだわと思ったら、つい。ごめんなさい」 「謝るなら、ルーファウスに謝ってくれ。全く。ただでさえ、住み慣れた家から移されて興奮してるっていうのに。これじゃいつまで経っても気が落ち着かないだろうに」 宝条がルクレツィアにあれこれと注意をしているのが、僕の耳にも聞こえる。世話の仕方も一生懸命説明してるけど、果たして彼女、大丈夫なのかな。とっても不安。 二人の話を聞いていると、どうも彼女の住むコンドミニアムはペットが飼えないみたい。 それで、彼女がここに来たらしいけど。僕、本当にここにいていいのかな。 博士が心配してた理由は、骨の髄までわかったけどね……。 ツォン。仕事だから、仕方ないのはよくわかってる。だけど、早く帰って来てくれないかなあ。何だか僕、本当に踏み殺されかねないよ。 食器棚に登ったまま一向に降りてこようとしない僕を、夜遅くなってから宝条は脚立を持ち出して無理矢理引き剥がして下ろした。 「毛がすっかり逆立ってるぞ。あんな埃だらけの所に乗るんじゃない。ほら、ブラッシングしてやる」 ルクレツィアはどうしたの? と恐る恐る聞いたら、もう寝たから安心しろという返事が返ってきた。でも、僕は見たんだ。 夜中に目を覚まして散歩していたら、彼女が宝条の寝室のドアをノックするのを。 入口で短いやり取りを交わすと、彼女は部屋の中に姿を消した。ずい分長いこと二人の低い声が漏れ聞こえていたけど、結局どうなったんだろう。 あの二人って、恋人同士? それにしちゃお互いに態度が素っ気ないよね。 博士、いつも言ってるしな。自分にはそんなものいないって。 だけど、真夜中に他人の部屋に行ったりするかなあ、普通。猫じゃないんだからさ。 あの二人、何かあるのかな。まあ、僕には関係ないか。 今日はもうこのまま朝まで寝よう。何だか疲れきったよ。おやすみ、ツォン……。 |