天使の休日



1.

 食べ過ぎか、それとも疲労からなのか。背骨と肩胛骨の間がジンジンと疼き、ルーファウスは寝付けずにベッドで寝返りを打っていた。
 奇妙なことに、右側は何でもない。左側だけ、その部分に血が集まって熱を持っている。
 呼吸する度に新たな痛みが鈍く走り、まるで骨が肉を食い破って外に出ようとしているかのような錯覚を覚える。何とも言い難い、重い痺れ。不快だった。
 こうなった原因をいろいろ考えてみるが、特に心当たりはない。
「このところ、出張続きだったからなあ。やっぱり疲れてたのか」
 小さく呟くと、ベッドの脇で大人しく丸まっていたダークネイションがピクリと身を起こし、心配そうにすり寄ってきた。湿った鼻先が、そっと肩に押し付けられる。
「大丈夫だよ、ダーネィ。お前も、もうお休み」
 頭を撫でてやると、黒い獣は喉を鳴らした。ジャガーをベースに創り出されただけあって、そんなところは猫と同じだ。しばらく会えなかった主人に甘えようとしたら、具合が悪そうだった。それで、不安になったのだろう。
 柔らかな毛皮を撫でているうちに、気が紛れたのか。いつの間にか、ルーファウスは深い眠りについていた。

 翌朝。ルーファウスは、爽やかな目覚めを迎えた。寝付きが悪くて転げ回っていたのが、嘘のようだ。結局、あれからダークネイションと一緒に眠ってしまったらしい。ベッドの端の方で丸くなっているダークネイションは、長い尾と触手を身体の下にしまい込んでいた。きっと、自分の邪魔になってはいけないと思ったのだろうと、ルーファウスは微笑む。
 さて、シャワーを浴びようかと大きく伸びをした、その時。
 ――ファサッ。奇妙な感覚を背中に感じた。
「何か、音したよな」
 背中に妙な異物感を感じる。そう。翼でも生えたかのような。
 首を捻るルーファウスの目前で、白い羽根がヒラヒラと舞った。全身から、血の気が引いていく。まさか、そんなこと。あるわけがない。
 慌てて鏡に駆け寄ったルーファウスから、声にならない絶叫が漏れた。そのただならぬ空気に、ダークネイションが目を覚ます。主人の異変に、黒い獣は衝撃を受けたようだった。早く元に戻って下さいと言いたげに、後ろ足で立ち上がって前足でルーファウスに寄りかかり、哀れな声で鳴き始めた。
「これは夢……じゃないよな。お前にも見えるんだな」
 ルーファウスは呻くと、呆然と鏡の中の姿に見入った。何故か、翼は左側にしか生えていなかった。昨日の夜の痛みはこのせいだったのかと妙に納得する一方、これからどうしたものかと頭を抱える。出てきた物ならしまえないだろうかと、肩を動かしたり背中に力を入れてみたりした。だが、何の変化も起こらない。
「冗談じゃない。これじゃ、服が着られないじゃないか。一体どうしろと言うんだ……」
 なまじ小さいだけに、何とかなりそうなのが余計にイライラする。これが、足下まであるような立派な物なら、いっそ諦めもつくのだが。
 一夜にして生えた、純白の翼。しかも、左側だけ。おまけに、小さくて可愛らしい。
 キューピッドの背中になら、確かに似合うのだろうが。自分では――。
「気に入らないな」
 憮然として見つめる。これでは、仕事に出られない。幸い、今日は会議も視察も来客もないからいいようなものの。明日以降のことを思うと、早く何とかしなければと気が焦る。
 これは病気なのだろうか? それとも、人為的に引き起こされたことなのだろうか。
 病気だとしたら、治療法は誰に聞けばいいのか。人為的なものだとすれば、一体誰が、何のために。
 ルーファウスの脳裏を、一人の男の名がよぎる。かなり気は進まなかったが、この際仕方ない。ラボにいるかどうか確認して、ここに来てもらうしかないだろう。そう、決意する。
 屈み込んでダークネイションを抱き、不安を静めてやる。いや、不安を静めたかったのはルーファウスの方かもしれない。艶々とした漆黒の毛皮は、いま一番そばにいて欲しくて、同時に一番顔を合わせたくない人間を思い起こさせる。もうすぐ、自分を迎えにやって来るだろう彼。あの男に、この有様をどう説明すればいいのだろう。
 取りあえず、やり過ごさなくては。ルーファウスは再びベッドに戻り、掛け布団に埋もれた。ダークネイションが、主人に近づく者は許さないという風に上体を伸ばして、ベッドの前に座る。ほどなくして、部屋のドアが開いた。
「おはようございます、ルーファウス様。お目覚めですか?」
 いつもと変わらない挨拶。一分一秒たりとも違わずに毎朝訪れる律儀さが、今日だけは恨めしい。何で出張にでも行っていてくれないんだと、逆恨みしたくなるルーファウスだ。
 もぞもぞと動き、仕方なく低い声でツォンに答える。今日は具合が良くないんだ。悪いが、秘書に伝えてくれないか。一日休養を取りたい、と。
 するとツォンは「また心の風邪をひかれましたか」と、軽くため息をついて近づいて来た。ルーファウスが仮病を使うのは、ままあることだった。今回もそうなのか、それとも本当にどこか悪いのか。確かめようとしたのだろう。
 だが、そこでダークネイションが唸り声を上げた。共にルーファウスを守る者として、日頃は彼に一段上の立場を認めている黒い獣が、警告の唸りを発するなど。あり得ないことだった。主人に近づくなという意思表示は、この場合、逆効果だったようだ。
「ダークネイション、そこをどいてくれないか」
 声量を上げるでもなく、かといって声を荒げるでもなく。ごく穏やかに、彼は近づいてきて言った。だが、その威圧感は並々ならぬもので。ダークネイションは唸るのをやめ、いかにも弱ったなという声でルーファウスに鳴いてみせた。
「本当に、気分が悪いんだ。出ていってくれないか」
 必死で抗うルーファウスに、ツォンは甘い顔をしなかった。またいつものサボリ癖が始まったかと、一瞬眉を寄せただけだ。
「ご気分が優れないのでしたら、どこが悪いのかを医師に診てもらわなければ。そうして布団を被っていても、何の解決にもなりませんよ?」
 あまりにも正論過ぎるこの言葉に、ルーファウスはぐうの音も出なかった。そこを、慣れた様子でツォンがにっこり笑って布団を引き剥がす。
「わあっ! やめろ、よさないかっ!!」
 悲鳴にも似た叫びを上げて、ルーファウスがベッドの上で転がった。そして、フワフワと白い羽根が宙に舞う。途端に、ツォンが怪訝そうな顔をした。
「ルーファウス様? 掛け布団か枕に、ほつれでもありましたか。一体、この羽根は」
 枕を握りしめた掌から、脂汗が滲み出てくる。こいつは、どうしてこう観察眼が鋭いんだ。そう思う心の一方で、さすがはツォン。歴代主任の中でも、有能さでは一、二を争う男だと、ルーファウスは妙に嬉しかったりもする。
「縫い目が、どこか緩かったんだろう。何、大丈夫」
 掛け布団を剥がれてしまったので、枕をギュッと抱きしめて羽根を隠すルーファウスだ。
 しかし、ツォンの目は誤魔化せなかった。
「駄目ですよ。アレルギーを起こしたら、どうなさるおつもりです。それでなくとも、あなたの肌は刺激に弱いのに」
 ほら、起きて下さい。具合がよろしくないのなら、尚更です。医師に診せて、きちんとお食事をなさらないと。
「治るものも、治らないですよ―― !?」
 枕をルーファウスから取り上げたツォンだったが、驚愕のあまりその場に凍り付いてしまった。それを見て、ルーファウスは取りあえず笑ってみた。だが、ツォンはそんな気分になれないらしい。
「ルーファウス様、これは一体」
 沈着冷静が売り物のタークス主任が、この異常事態に際しては、さすがに動揺を隠せないでいる。棒立ちになっている彼に、とても珍しいものを見たとルーファウスは思ったようだ。ダークネイションを撫でながら、興味深い眼差しをツォンに注いで言う。
「あいつが慌てるのなんて、いままでに片手で足りるほどしか見たことないぞ。お前なんて見るの初めてだろう? な、ダーネィ」
「暢気なことをおっしゃっていないで、こうなった原因を突き止めなくては。まさか、怪しげな薬を飲まれたりされなかったでしょうね?」
 ツォンがこう言うのには、理由がある。ルーファウスには、前科があったからだ。もう何年も前のことだが、彼がプレジデントと派手なケンカを演じた時。売り言葉に買い言葉で、「勘当だ!」と叫んだプレジデントに、ルーファウスが「上等だ。こっちから家出してやるさ!」と応じ、本気で縁を切ろうとしたのか。姿を変容させる薬を宝条に作らせて飲んだ挙句、社内を大混乱に陥れたという恐ろしいエピソードを、彼は持っていたのだ。
 あの時は、大変だった。赤銅色になった皮膚の色が褪色するのに、まるひと月はかかったろうか。ご丁寧にも、顔見知りの人間に見破られないために、ルーファウスは自分で無造作に髪を切ることまでしでかす徹底ぶりだった。その後始末をする羽目になった美容師は、絹のような手触りと輝きを取り戻すのに酷い苦労をさせられたと聞く。滅茶苦茶なカットの方は、何とか誤魔化すこともできたらしいが。得体の知れない染料で傷んだゴワゴワの髪を手にすくって、この世の終わりとでも言いたげな顔をした美容師の盛大なため息は、ツォンもいまだに覚えている。
 あの事件でルーファウスはすっかり懲りたとみえ、ツォンに約束したのだった。「今後、宝条の薬は一切、内緒で飲まないこと」というのがそれで、たとえ風邪薬といえども、ルーファウスはツォンがチェックして渡す物しか飲まないようにしていたのだ。
「私は、一度約束したことは必ず守る。本当に、自分でも思い当たる節がないんだ。朝起きたら、このザマでな」
 さも不機嫌そうに鼻を鳴らし、何とも可愛い翼をパタパタと動かして見せるルーファウス。全くその通り、大いに気に入らないというつもりか。ダークネイションが鞭のような背中の触手を振り回し、低く唸り声を上げた。
「取りあえず、着替えをなさって下さいませんか。いつまでも上半身裸でいらしたら、今度こそ間違いなく風邪をひきますよ」
 秘書達には、私から欠勤の連絡をしておきますから。努めて平静を保とうとするツォンがクローゼットから揃えて出してきた服を眺めて、ルーファウスはその大きな瞳を瞬きもせずにツォンに尋ねた。
「それで? いまの私に、これをどうやって着ろと? 言っとくけどな。パジャマでさえ、窮屈でたまらなかったんだぞ。まして、普通の服なんて。絶対に無理だ。これは折り畳んだりできないからな」
 とっさに額を押さえたツォンだったが、少々お待ち下さいと言って姿を消した。彼が再びルーファウスの前に戻った時。その手には裁ち鋏とわずかな布切れ、それに針道具一式が握られていた。こんな物、どこから探し出してきたんだと感心するルーファウスに、ツォンは暗い目で答えた。
「どうぞお着替えを。羽根が押し潰されないように、何とか工夫してみますから」
 結局、背中の部分を縦に切り開いて、両側に細くした布切れを適当な間隔で縫い付け、翼を出してから結ぶようにした。下着から順にその作業をしていくのは、それなりに時間がかかった。だが、ルーファウスはダークネイションを撫でながら大人しく仕上がりを待っている。
「ツォン。お前って器用だな。何でもできる奴だなあと思ってたけど。まさか、こんな事まで得意だったとはな。これならタークスを辞めても、何でも屋が開業できるぞ。良かったな」
 ついに完成した姿を見て、ルーファウスは無邪気に感心し、その出来映えにいたく満足したようだったが。
(あなたのおそばにいると、嫌でもいろいろなことをやらされる羽目になるんですよ。どうやら、ご自分ではその自覚がおありにならないようですが)
 他人から見たら、これも好きでしている苦労ということになるのだろうか。
 ツォンは着替えが完全にすんだルーファウスにコートを羽織らせると、67階の宝条の元へ連れて行こうとした。
「どうかなさいましたか?」
 コートが落ちないように、背中に手を回した瞬間。何故か、ルーファウスがひどく嬉しそうな顔をした。彼の上機嫌の理由がわからないツォンは、ただ首を捻るばかりだった。


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